「わたしの幸せな結婚 ~雷雨~」#読みたい幸せな夏
顎木あくみ/富士見L文庫
雷雨
夏の暮れ方。遠くで小さく雷鳴が響いていたかと思うと、にわかに真っ黒な雨雲が垂れ込め、雨が降り出した。
美世はやや生臭さを帯びた雨の香りに、台所で夕食の支度をしていた手を、ふと止める。
(夕立ね。どんどん雨足が強くなっているみたい)
そのうち、雷の音はますます近づき、家の上に滝が落ちているかのような、強い雨音へと変わっていくのはあっという間だった。
日没間近の時刻だったこともあり、屋内は電灯で明るいが、外はもう真っ暗だ。
「あ、いけない」
夕立に気をとられている間に、鍋が噴きこぼれそうになり、慌てて火から下ろす。
どうやら、鍋底に焦げ付いてはいなそうだ、と鍋の中を覗き込んで確認し、安堵したとき。
濃灰色の暗い空が、ぱっと光に覆われた。
と、思うと、今度はびりびりと痺れるほどの、凄まじい轟音が耳を劈く。
「きゃっ」
あまりの音に鍋の蓋を取り落とし、耳を塞ぐ。そうして、美世が小さく悲鳴を上げたのと同時、辺りが一瞬にして闇に包まれた。
目を閉じていないのに、どこもかしこも真っ暗でよく見えない。
「え、て、停電……!」
頭で理解できても、慣れない事態に動転し、その場に立ち尽くしてしまう。
(ど、どうしよう)
まずは電灯をつけ直して……いや、電気が止まってしまったのだから、電灯はつかない。
では、蝋燭に火でも灯せば。けれど、台所に蝋燭があったか定かでないし、暗がりの中であるかどうかわからないものを探すのは至難だ。
混乱に、不安。さらに恐怖からか心拍数も上がり、美世が動けないでいると、台所の戸口から清霞の声が聞こえた。
「美世、大丈夫か」
「だ、旦那さま……」
そうっと前のほうへ右手を伸ばし、暗い宙をさまよわせる。すると、その手を硬く、大きな手が柔らかく掴んだ。
――清霞だ。
すっかり冷えた指先を温かな手に包まれ、ほっと胸を撫で下ろす。
「悲鳴が聞こえたが、どこか怪我をしたか?」
表情はよく見えないが、美世の身を案ずる清霞の声と、ごく近くで感じる慣れた彼の気配で、心臓の音はもう平静を取り戻していた。
「いえ、平気です。……少し、驚いてしまって」
「それならいいが」
ひと通りの安否確認を終えると、その場に沈黙が落ちた。
しばらく経っても一向に電気が復旧する様子もなく、怒涛のごとく雨が屋根を打つ音が響き、ときどき、すぐ近くで雷が鳴る。
独特の緊張感からか、暗闇のせいか。
美世は心細さに襲われて、一歩、清霞の気配がするほうに知らず近づく。
それに何も言わずに吐息を漏らした清霞は、ただ掴んだままの美世の手を強く握り直し、軽く引く。
いつの間にか、互いの息遣いが聞こえるほどに近く、二人は身を寄せ合っていた。
先ほどとは明らかに違う理由で、美世の鼓動が大きくなる。
普段ならば、決して近づけない距離。握りあった手が熱い。次は、この後は、どうなってしまうのか。
「美世……」
息の音を含んだ清霞の声が、いつにも増して艶めかしいのはきっと気のせいだろう。おかしな想像をしかけて、美世の頬がかっと燃え上がった。
と、そこでふいに、二人は人工的な光に照らされる。――電気が、復旧したようだ。
思ったよりも間近に迫っていた、婚約者の顔。
明るくなって、それを目の当たりにした美世は、自分がとんでもない行動に走ろうとしていたのをようやく悟った。
「ひっ! だ、だだだ旦那さま! ごめんなさいっ」
「あ、いや……」
思わず飛び退いた美世が離した手を、清霞は呆気にとられた様子で見つめる。
(な、何をやっているの、わたし)
ばっく、ばっく、と激しく胸が鳴っている。
暗闇が、かくもおそろしいものだったとは。そして停電は、人の秘めた煩悩を表に出してしまう、非常にはしたない現象だったのだ。
真っ赤になった頬を両の掌で隠し、現実逃避のごとく、とんちんかんな思考をしている美世の傍ら。
握っていた手をぼうっと見つめながら、
(どうせなら、もう少し……さすがにそれはまずいか……。だが、まんざらでもなさそうな……いや、まさかそんなわけはないな)
と、首を捻りながら、清霞は少し頭を悩ませていたのだった。
「わたしの幸せな結婚 ~雷雨~」#読みたい幸せな夏 顎木あくみ/富士見L文庫 @lbunko
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