煙になって消えたい。

尾八原ジュージ

煙になって消えたい。

 報せを受けたので一応現場の状況はわかってはいたが、それでも自分の目で確かめたくて、俺は車をすっ飛ばして実家に戻った。生まれ育った家は見事に焼け落ちていた。確かに木造のボロ屋ではあったけどよく燃えたもんだなと、真っ黒になった焼け跡を眺めながら思った。

 俺の両親も家と一緒に炭になっていたが、予想していたほど「ざまぁ」という気分にはならなかった。強いていえば凪いでいた。警察に「火事の原因は調査中だが、放火の疑いがある」と言われたときでさえ、「はぁ」と気の抜けた返事をしただけだった。

 葬儀だの相続だの焼けた家の後始末だのという雑事は残っていたけれど、ともかくもう金をせびられることも、親が起こした揉め事の火消しに謝って回ることもない。それを思うと、思った以上に穏やかな気持ちだった。


 葬儀を終えても、忌引き休暇はまだ何日か残っていた。これを何とかしなきゃなぁ、と思いながら、俺は実家の焼け跡を眺めていた。

 隣家はとっくに人がいなくなって空き地になっている。よその家にほとんど被害がなかったのは、不幸中の幸いだった。ともあれ、後始末は一人っ子の俺の仕事である。

 さてどうしたもんか……と立ち尽くしていると、急に「せいちゃん」と呼ばれて肩を叩かれた。

 振り向くととおるが立っていた。向かいの家に住む四つ年下の彼は、俺の幼馴染みだった。俺の親がアル中のクズなら澄の両親はカルト狂いのクズだった。自然と俺たちは仲良くなった、そうならざるを得なかったのだ。俺が家を出てからは自然と疎遠になっていたが、会えば必ず「いつかおれも聖ちゃんみたいに家出るわ」と宣言された。

「悪いね、葬式行けなくて。寺とか行くと、うちの親がうるさいんだわ」

「いや、いいよ。どうせ弔問客なんかほとんど来なかったし」

 答えながら、俺はひさしぶりに澄の顔をじっくりと眺めた。また痩せて、また髪が伸びたな、と思った。俺の四つ下だから今年で十九歳のはずだが、元々童顔で女の子みたいな顔立ちだから、高校入学あたりで時が止まったみたいに見える。背中に流した黒髪が細いうなじを隠して、パーカーのフードの中に落ち込んでいた。

「澄、今何やってんの?」

「なんもやってない。聖ちゃんは? 会社はどうしてんの、今」

「忌引ってことで、来週の水曜日まで休み」

「へぇー」

 俺たちはしばらく並んで焼け跡を眺めていた。二人とも怠惰なもので、やっぱりただただ眺めているだけだった。

 背にした澄の実家から、鐘の音と、謎の念仏を唱える男女の声が聞こえてきた。


 実家がなくなってしまったので、俺は一生使うことなんかなさそうだな、と思っていた近所のビジネスホテル(という名前の民宿)に滞在していた。煎餅布団に卓袱台、魔法瓶が部屋ごとに備え付けられているという、いつの時代の宿だよといっそ感心してしまうようなところだが、ともかく屋根と壁があって夜が越せる。

 ぺったんこの布団で寝ていた俺は、何か規則的な音が続いているような気がして目が覚めた。窓ガラスがコンコンと鳴っていた。

「おーい、聖ちゃん」

 その声にぎょっとしてカーテンを開けると、外の金属製の柵に上半身を乗せ、足を中空にぶらぶらさせた澄が、おばけみたいな顔をしてニヤニヤ笑っていた。俺は少しの間わが目を疑っていたが、ともかく二階の窓の柵からぶら下がってる奴がいるということは把握したので、慌てて窓を開けた。

「お前、何やってんだ!」

「しーっ」

 澄は窓から部屋に入ってくると、「死ぬかと思った」と平気な顔で言った。

「それはこっちの台詞だよ。死ぬほど驚いちゃったよお前、何してんの?」

 時計を見ると夜の三時を回っている。澄は目の上が腫れて青黒く、元々の女顔と真っ黒な長髪も相まって、さながら東海道四谷怪談だった。着ているパーカーには血がついている。何か穏やかでないことが起こったのは明らかだった。

「聖ちゃんさー、おれと一緒にちょっと遠くまで行かない?」

 澄はへらへらしながら言った。こいつがへらへらしているときは、大抵何か言い出しにくいことがあるときだった。

「何でよ」

「おれさー、御神体盗んできちゃった」

「は?」

「うちの神棚から」

 澄はぼろぼろのバックパックから小瓶を取り出した。中には透明の液体が入っていた。

「これ、教祖様の手から湧いた水なんだと。これを飲めばあらゆる病気がたちどころに癒え、あらゆる願い事が叶うという、なんかすごい代物なんだと」

「は? 飲むのか?」

「それがさ、誰も飲まねーの。飲まずに何年も大事大事に拝んでるわけだよ。こいつをどっか捨てにいこうぜ」

「ハッ」

 変な声が出たが、要するに澄も俺と同じく、親には腹に据えかねるものがあったというわけだ。それも当然だと思った。

「ていうことはそれ、おやじさんに殴られたのか?」

 てっきり御神体をめぐって親と取っ組み合いでもしたのかと思ったら、澄は首を横に振った。

「いや、これは仲のいいおじさんに『ホテルで好きなだけ殴らせてくれたらお金あげる』って言われて、さっき殴られてきた」

「何やってんだよお前。もうそのおじさんとは会うなよ」

「旅の軍資金がいると思ってさ~。十五万あるよ」

「すげぇ」

「でも足がないから、聖ちゃんに車出してもらえないかと思って。ふたりの方が楽しそうだしね。ねー頼むよ〜」

 澄は俺の隣にひっくり返ると、蛍光灯に小瓶をかざした。光を反射して瓶がきらきら輝く。きれいと言えばきれいだけど、神棚に祀られて年がら年中拝まれるようなものには見えなかった。そう言うと澄は大笑いした。唇の端も腫れ上がっているから、大口を開けるとちょっと痛そうだ。

 昔から澄に「頼むよ聖ちゃ~ん」などと甘えられると、俺はどうしようもなく何とかしてやりたくなってしまう。小さい頃からいつもそうだった。俺が実家を出たのは親から離れるためではあったけれど、澄から逃げ出したかったことも否定できない。俺は澄と、ずっとこれまでのような幼馴染でいられる自信がなかったのだ。

「まぁしょうがないから付き合うけどさぁ」と渋々を装って言うと、澄は目を輝かせた。

「いいの!? やった!」

「いや、遠くに行くのはいいけどさ。どこに捨てるんだよ、それ」

「それな。まぁ中身はただの水だからどこでもいいんだけどさ、せっかくだから海とかがいいな。どっか広大なとこに流してやりたい」

 小瓶を見つめたまま、澄が言った。黒目がちの眼が子供みたいにきらきらしていた。

「この辺海なんかないだろ」

「だから海辺に行こう! ついでに何かうまいもの食ったりしようぜ」

「予算十五万あるのに地味だし、クソ適当だな」

 とはいえ、悪くないなという気がした。


 とにかくばれないうちに出発しようと澄がうるさいので、夜中にも関わらずホテルをチェックアウトすることになった。フロントのばあさんに嫌な顔をされながらも外に出ると、来たときと同じく窓から外に出ていた澄が駐車場で待っていた。

 海、かつ観光地に行きたいとのことなので、とりあえず目的地は熱海に決まった。俺は澄に血のついたパーカーを脱がせて、俺の持っていたジャケットを着せた。澄が羽織るとかなりオーバーサイズに見えた。

「熱海、ここからだと四時間くらいかな」

「じゃあ朝に着く感じだな。スマホ貸して」

「なんで?」

「宿探すから」

 澄のスマホは「どうせ親からの鬼電しかこないだろうから」と思って捨ててきたらしい。何やってんだこいつと思いつつ、俺は「仲のいいおじさん」とも縁が切れたことをひそかに喜んだ。

「つーか泊るの?」

「泊るでしょ! 泊ってうまいもの食うでしょ。予算十五万ぞ?」

 到着した後のことは澄に任せることにして、俺は車を出発させた。

 一般道を走り、東海北陸自動車道から東名高速に入って、静岡方面を目指した。その間に澄はどこかに電話をかけ、「着いたらすぐチェックインして大丈夫だって」と俺に告げた。

「いいの? 朝の七時とか八時とか、そんなんだぞ」

「聞いてみたらいいってさ。あと一泊六万だった」

「たっか」

 突然のイベントにすっかり眠気が覚めていた俺は、夜の閑散とした高速道路をウキウキした気分で飛ばした。不思議な気分だった。助手席の澄の方をちらっと見ると、子供みたいなあどけない顔で窓の外を眺めている。こいつもまだ眠くはないようだった。

 夢のようだった。今こうして澄と、俺の車で旅に出ているということが。たとえその旅の目的がろくでもないものだったとしても、今このとき俺は幸せだった。

 白状すると、俺は澄のことが好きだった。顔だけはいい澄が、半ばやけくそのように女の子をとっかえひっかえするのを見ているのが正直辛かった。でもあくまで俺は「幼馴染の聖ちゃん」でいたくて、それが澄の特別な信頼を勝ち取る唯一の方法だと信じていた。そのせいで一緒にいられなくなってしまったのだ。実家から離れて、これまで女とも男とも付き合ったけど、誰とも上手くいかなかった。頭のどこかでいつも澄のことを考えていた。

 今俺は、この旅がいつまでもいつまでも続けばいいと思っていた。

 カーステレオからは、ランダム再生に設定した音楽が流れ続けていた。「こういうのひさしぶりに聞いた」と澄が呟いた。

「音楽聞くと念仏に邪念が入るって、親がうるっさいんだわ」

「大変だな、お前んちも」

「うん」澄は素直にうなずいた。「実は何度か出てこうとしたんだけどさ、そのたびに連れ戻されてしまうんだな。信者ネットワークやばいね」

 長い長い溜息の後に「ほんとは聖ちゃんのいる街に行きたかったんだけどさ」と澄が言った。

 高速道路を降り、静岡県に入った頃には力尽きたのか、澄は窓ガラスにもたれてうとうとしていた。「何か食う?」と声をかけると「ううん」と答えて、まもなく本格的に寝入ってしまった。

 澄の寝顔は無邪気で、安心しきっていた。俺は突然ひどく悲しくなって、路肩に車を停め、少しの間声を殺して泣いた。


 深夜に出発してのドライブ四時間はさすがに辛く、俺は即チェックインできることを喜んだ。一泊六万円の旅館はさすがにめちゃくちゃきれいで、ラフな普段着でやってきたことを後悔するほどだった。顔がボコボコな澄は俺よりもさらに不似合いだったが、仲居さんはさすがに嫌な顔ひとつしなかった。

 澄はシングルを二部屋ではなく、ツインを一部屋とっていた。通された部屋は、俺たちふたりにはいっそ無駄なほど広かった。入口付近にテーブルセット、奥にベッドルームがあり、小さなキッチンまでついていた。

 俺は朦朧としている澄を一方のベッドに放り投げ、もう片方のベッドにひっくり返った。今までいたホテルの布団とは比べ物にならない寝心地のよさに体をゆだねていると、睡魔はすぐに訪れた。

 目を覚ますと午後の一時を回っていた。スマートフォンを確認したが、警察からの連絡はなかった。その代わり、風呂に入ったのかこざっぱりとした、でもまだ顔は腫れている澄が、隣のベッドの上で体育座りをして俺を見ていた。

「聖ちゃん起きたか。昼飯食いにいこうぜ」

 確かに、ひどく腹が減っていた。俺たちは外に出ることにした。

 晴れやかな青空が広がっていた。特にあてもなく歩きながら、熱海は坂の街だなと思った。坂の下には日本離れした外観のビーチが見える。

「あ」

 澄が間の抜けた声をあげた。

「どうした?」

「せっかく海があるのに、御神体持ってくるの忘れた」

「何やってんだよ」

 俺たちは顔を見合わせて笑った。

 目についた店で昼食を済ませて、あちこちうろうろして、御神体もないのに海に降りた。秋のビーチにはあまり人がおらず、静かだった。澄はわざわざ波打ち際に行って、「冷たっ!」と騒いで戻ってきた。

 のんびりと日が傾いていった。澄は御神体をとりに戻ろうとしなかったし、俺もあえて声をかけずにいた。目的を果たしてしまったら、この旅が終わってしまうような気がしたのだ。

 警察からの連絡は、相変わらずなかった。


 夕食は部屋でとることになっていた。旅館内の温泉に浸かって浴衣に着替えてしまうと、もう何もかもめんどくさいような気分になってしまっていたから、部屋から出なくていいのは助かった。

 浴衣を着た澄は左肩に髪を流し、顔の怪我はそのままにせよ寛いで見えた。椅子に足を崩して座り、スリッパを華奢なつくりのつま先に引っ掛けてぶらぶらさせていた。食事が進まないうちから勝手に徳利をどんどん傾け始め、お前まだ飲んじゃいけない年じゃんと思ったものの、俺も制止するのが面倒になって黙っていた。夢の中にいるみたいに、何もかもがフワフワしていた。

 そんなに強くなさそうだなぁと思っていたら、案の定澄は見る見るうちに赤くなった。俺は澄のことばかり気にしていたので、豪華な食事の詳細をあまり覚えていない。ただ美味かったとだけ記憶している。

「澄よ、お前それ大丈夫? 真っ赤だけど」

「うーん、大丈夫だいじょうぶ」

 という受け答えがすでにあまり大丈夫な感じではなく、そもそも未成年の時点で駄目駄目だった。しょうがねえなぁ今日だけだぞと言いながら、俺はそれをいつまでも眺めていたかった。

 そもそも俺たちはどうしてこんなところに来たんだ? カルトの御神体なんぞどうでもいいじゃないか。そんなものほっといて、何の屈託もなく旅行を楽しんでいたら駄目なのか? たとえ俺たちの人生がどうしようもないものだと決まっていたとして、一度くらいはこんな楽しい旅があったっていいじゃないか。

 そんなことを考えていると俺はまたひどく感傷的になってしまい、「トイレ」と告げて席を立った。ついでにトイレの中でスマホを確認したが、やっぱりニュースサイトとSNSの通知しか入っておらず、警察からの連絡はなかった。

 数分のちに戻ってみると、澄が御神体の小瓶を開けて、中身を口に流し込んでいるところだった。

「おい!」

 俺は思わず大声を上げて、澄に駆け寄った。

 ご利益とか霊験あらたかとかそういう問題ではない。澄の話によれば、もう何年間も常温で放置されていたはずの液体である。普通に体内に入れるべきものではない。

 澄は思いのほか落ち着いた声で「何も起こんないな」と呟いた。

「いや、何やってんだよ澄。体大丈夫か?」

「何でも願い事が叶うんじゃなかったのか。やっぱクソだわ」

 吐き捨てると、澄はテーブルの上に突っ伏した。色とりどりの高そうな食器が、ガチャンと派手な音を立てた。

「聖ちゃん。本当にごめん。おれ聖ちゃんがうらやましくてさ。家がなくなった聖ちゃんのことが、本当にうらやましかったんだ。こんなこと言ってごめん」

 澄は呂律の回らない口で話し続けた。「おれ、おやじとおふくろが寝てる間に、ふたりともバットで顔潰したんだ。だってさ、そうでもしなきゃいつか自分が死ぬと思ったんだよ。どこか遠くに逃げようかと思ったけど、おれ逃げ切ったこと一度もないから駄目だよな。でも最後に、どこか楽しそうなとこに行きたかったんだよ。ごめん、聖ちゃん。巻き込んじゃった」

 澄の顔は腕と髪に隠れて見えなかった。俺はテーブルの向こうにあった自分の椅子を動かし、澄の椅子の隣にくっつけて座った。澄は俺によりかかってきた。体をひねって抱きしめると、心臓が脈打っているのがわかった。

「わかるよ。仕方ないよな。いいんだ、澄が悪いんじゃないよ。わかってる」

 俺は譫言のように繰り返した。俺の浴衣の襟元を、澄の涙が濡らしていった。俺の掌に肩の骨が触れる。澄、痩せたな、とまた思った。弱って死にそうな小さな生き物みたいだった。俺は澄の耳元に口を寄せた。

「大丈夫、お前んちも燃やしちゃえばいいよ。そしたら死因とかもわかんなくなってさ、澄がやったことなんかわかんなくなっちゃうよ。帰って一緒にやろう」

「そんな上手く行くかよ」

 冗談だと思ったのだろう、鼻をすすりながら澄が涙を含んだ声で笑った。

「大丈夫、俺んとこと同じだよ。俺んちはよく燃えただろ。全部燃えた」

 俺の言いたいことを悟ったのだろう、澄の体が緊張して、腕の中でぐっと固くなった。俺は澄が逃げ出さないよう、腕に力を込めた。

 澄が同じ親殺しの地獄に堕ちてきたことに俺はひどく安堵していた。そのせいで俺は結局、澄の願い事が何だったのかを聞きそこねてしまった。

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煙になって消えたい。 尾八原ジュージ @zi-yon

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