黄金の降る夜
上海虹橋空港のラウンジで、私はコーヒーを片手に、スマートフォンを眺めていた。二日後には、ドバイに貨物が到着する。書類は税関に、現地企業経由で提出済みだ。
搭乗開始のアナウンスが流れる。私は深く息を吸い込みながら、空港の窓越しに滑走路を眺めた。ドバイへのフライトは約十時間。その間に、これからの計画を整理しなければならない。
「さて、始めるか。」
私は立ち上がり、搭乗ゲートへと向かう。
上海からドバイへの一本道は、十時間のフライトの繰り返しで成り立っている。座位を耐え続けた体には、空港の広々とした空間から得られる開放感が、特効薬のように染み渡る。
ムハンマドは携帯電話をスワイプして天気を確認する。乾いたウイグルから湿った上海、そしてまた乾き切ったドバイへ。彼はこの湿気の往来に耐えられなくなったのだろう。気分を悪くしたかのようにロビーの椅子に座り込む。
私はターミナルの壁に掲げられた巨大なLED広告を眺めた。スイスの時計、エミレーツ航空のビジネスクラス、そして金の取引サイトに関する動画が、ひっきりなしに流れていく。ドバイが富と石油で成り立った、悪趣味な街であることを象徴する広告群が流れ続ける。
「まずは、エネルギー企業のビルへ向かおう。」
私はスマートフォンを取り出し、事前に送られていた住所を確認する。ムハンマドは無言で頷き、タクシー乗り場へと向かった。
黒と金のラインが入ったドバイのタクシーに乗り込むと、冷房が強く効いた車内でひと息つく。ドライバーはインド系の男で、流暢な英語で「
「ドバイ港近くのエネルギー企業のオフィスだ。」
私がスマホを見せると、ドライバーは短く「OK」と答え、車を発進させた。
窓の外を流れる景色は、これまで訪れたどの都市とも違った。広々とした道路、超高層ビル、洗練された都市計画——それでいて、少し外れれば乾燥した砂漠が広がっている。
「不思議な街だな。」
私は無意識に呟いた。ムハンマドは腕を組み、窓の外を見つ目ている。
タクシーがビルの前に停まると、私たちはスーツケースを持って降り立った。目の前の建物は近代的なデザインで、全面ガラス張りの外観が陽光を反射して輝いている。ロビーのエントランスにはエネルギー企業のロゴが掲げられ、警備員が出入りする人物を厳しくチェックしていた。
ロビーに入ると、スーツ姿の男が待っていた。事前にメールでやり取りをしていた担当者、ハミードだ。彼は端正な顔立ちのアラブ系の男で、整ったヒゲと落ち着いた目つきが印象的だった。
「ようこそ、ドバイへ。」
彼は流暢な英語で挨拶しながら手を差し出した。私はその手を握り、「こちらこそ、招いてくれてありがとう。」と応じた。
「あなた方の“実験”を手伝う準備はできています。」
ハミードは微笑んだが、その目は慎重に私たちを値踏みしているようだった。
「…おっと、書類を確認させてください。」
彼が示したのは、私たちが偽装書類を使って送った“農薬”としての塩化金の明細だ。私は林鄭のコネを通じて用意した書類を渡し、ハミードに目を通してもらう。
彼は一通り目を通した後、軽く頷いた。
「問題なさそうだ。輸送記録も確認済みだが……」
しかし、その表情にはどこか釈然としないものがあった。
「……設備の用意はしてあるけど、正直、大規模な化学処理はやったことがなくてね……。」
彼の口調から察するに、どうやら現地企業側は本格的な塩化金還元作業をあまり経験していないらしい。メールのやり取りでは『慣れたスタッフがいる』という話だったが、実際は準備が不十分なのかもしれない。
翌朝、ドバイ港に到着したコンテナがエネルギー企業の敷地へ運び込まれた。私たちは農薬とラベルされたドラム缶の封を解き、ハミードたちが用意してくれた還元処理用の設備へ移そうとした。
ところが、設備の状態を確認した途端、私は思わず顔をしかめた。換気装置のダクトが破損し、排気ホースは不安定な状態で垂れ下がっている。温度管理用のタンクには計測センサーが見当たらず、薬品投入口も曖昧な設計になっている。反応槽の周りには保護柵も設置されていない。全体的に、細かい安全対策が施されておらず、設備の状態は杜撰そのものだった。
私はハミードに詰め寄る。
「これで還元処理をしろと言うのか? 明らかに安全対策がなっていない。」
ムハンマドも呆れたように配管を指さした。
「このガス抜きのホース、接続が甘すぎる。還元反応中に副生成物としてガスが発生する可能性があるのに、この状態じゃ溢れたガスが作業場に充満するぞ。」
ハミードは気まずそうに視線をそらす。
「いや、基本的な設備は揃えてあるはずだ……」
と弁解するが、私たちはすぐにそれが言い訳にすぎないことを理解した。
ムハンマドが、作業員に向かって声を荒げる。
「おい、還元剤の管理はどうなってる? どれを使うつもりだ?」
スタッフの一人が、倉庫の奥からエタノールのボトルを持ってきた。私は即座に眉をひそめる。
「エタノールを使うのか?」
「そう聞いているが……」
——まずい。エタノールは確かに還元剤としては有効だが、可燃性が高く、火気厳禁の環境で使用しなければならない。だが、この工場には適切な防爆対策が施されているようには見えなかった。火花が散るだけで引火の危険がある。
私は頭を振った。
「この環境でエタノールを使うのは危険すぎる。可燃性を考慮して、クエン酸ナトリウムの使用を検討すべきだ。」
ムハンマドも同意する。
「そうだ。クエン酸ナトリウムなら、少なくとも可燃性のリスクは下がる。ただし、粉末の飛散には気をつけろ。作業員にはマスクと手袋の着用を徹底させろ。」
と念を押した。ハミードは少し渋った様子だったが、「クエン酸ナトリウムに切り替える」と頷いた。
次に、私は反応条件の管理について確認する。
「温度管理の装置はどうなっている? pHのモニタリングは?」
作業員が指さした装置には、簡易なデジタル温度計が取り付けられているだけだった。これでは、正確な温度制御ができず、急激な反応を抑えることが難しい。適切なpH管理ができなければ、副反応によって効率が下がり、不純物が混じる可能性がある。ムハンマドが腕を組んで冷ややかに言う。
「これじゃ、金の回収効率が大きく落ちるぞ。還元剤の添加は少量ずつ行わないと、反応が暴走するリスクもある。作業員には、その手順を徹底させろ。」
私はさらに、ガス発生のリスクについても指摘した。
「還元反応の際に、塩素ガスが発生する可能性があるが、その処理はどうする?」
ハミードは言葉に詰まる。私は、彼らがこの点についてほとんど対策を考えていなかったことを悟った。私はハミードを真っ直ぐに見据え、低い声で言った。
「換気装置が不完全なまま作業を始めるのは論外だ。ドラフトチャンバーを用意しろ。少なくとも、反応中に発生するガスを屋外へ適切に排出するシステムを確保しないと、ここにいる全員の健康に影響が出る。」
「作業員には保護具を義務付けろ。手袋と防護ゴーグル、化学耐性のある作業着を最低限揃えろ。それができないなら、この作業は中止だ。」
ムハンマドも断言して後押しする。
ハミードは、しばらく押し黙った後、
「……分かった。改善する。」
と答えた。
「改善するだけでは駄目だ。」
私は間髪を入れずに言った。
「修正にはどれくらいかかる?」
「二、三日は見てくれ。」
「二日で終わらせろ。」
二日後にはチャンとの取引がある。時間を無駄にはできない。ハミードはため息をつく。こうして、ドバイでの最初の試練が幕を開けた。
「すぐに補修用のシール材を持ってこい。攪拌機のモーターは一度止めて点検しろ。」
ムハンマドは混乱する現地スタッフに次々と指示を出す。ハミードもオロオロしながら業者に連絡を取り、急いで応急処置の部品を取り寄せている。
私もホワイトボードを使い、王水の工程図をざっと描いて英語で解説する。
「この温度帯を保たないと、一気に泡立って噴出するかもしれない。ガスマスクももっと頑丈なのを用意して……!」
スタッフたちと激しいやり取りを続け、なんとか『塩化金を金へ還元する』手順を形にしていく。
結局、この日一日、私たちは工場の中を走り回って補修と工程調整に追われた。ヒヤヒヤする場面は何度もあったが、ムハンマドが冷静にリカバリーし、私も化学の詳細はわからないながらコミュニケーションをフォローする。
「くそ、メールではちゃんとやれるって言ってたのにな。」
ムハンマドは舌打ちしながらも、必死にスタッフを叱咤する。彼らも本来はエネルギー企業の機械技術者であり、金の還元作業に慣れていない。しかしドバイ流とおおらかさでは済まない危険がここにはあった。
二日後の昼、ムハンマドは作業場に立っていた。
「まずは作業員全員、マスクと手袋を着用しろ。換気ダクトの補修は最優先だ。」
ムハンマドは現場を見回しながら、的確に指示を飛ばす。
「クエン酸ナトリウムはどこにある? 準備できたらすぐに試薬室に運べ!」
英語でまくし立てる彼の言葉を、私が翻訳をして伝える。作業員たちはバタバタと走り回りながら対応する。ハミードも慌てて業者に連絡を取り、設備の不備を補うために急ぎ部品を発注していた。
私はホワイトボードに手早く還元法の流れを描き、要点を英語でまとめる。
「まず、ここで還元剤を投入するが、温度が上がりすぎると副反応が起こる。特に、ガス抜きのホースが不完全だと塩素ガスが発生する危険がある。適切に換気できなければ、作業を始めるわけにはいかない。」
作業員たちは顔を見合わせながら頷き、問題点を共有する。だが、まだ完全に理解しきれていない様子だ。ムハンマドは攪拌機をチェックしながら、
「モーターを一度止めろ。動作確認をやり直す。もし負荷がかかりすぎていたら、温度管理に支障が出るぞ。」
とスタッフに命じた。
今さら引き返すことはできない。還元作業を安全に進めるため、細かい修正を加えながら、少しずつ環境を整えていく。作業員たちも次第に緊張感を持ち始め、私たちの指示に従って設備の調整を進めるようになった。
数時間後、ようやく最低限の安全対策が整った。ムハンマドが念入りに確認し、ようやく還元作業の準備が整ったことを告げる。
「よし、始めよう。」
私は深く息を吸い、クエン酸ナトリウムの投入準備にかかる。夜の工場内は静まり返っていた。昼間の喧騒が嘘のように、作業員たちは誰一人として無駄な言葉を発さず、ただ目の前の化学反応の行方を見守っていた。タンクの中では、淡い琥珀色をしていた塩化金酸の溶液が、ゆっくりとした撹拌の中で色を変え始めている。最初は微かな変化だった。だが、次第に濃い赤茶色へと移り変わり、その中に微細な粒子がちらほらと現れ始めた。
「……見ろ。」
ムハンマドが低く言った。
誰もが息を飲む。
タンクの底に、金色の雪が降り積もる。赤みを帯びた沈殿物が次第に量を増し、液体の透明度が変わっていく。
「還元が進んでいる……。」
私はごくりと唾を飲んだ。
「攪拌を弱めろ。」
ムハンマドが手を挙げて指示する。作業員の一人がバルブを操作し、ゆっくりと回転数を落とす。攪拌機の音が低くなり、タンク内の流れが穏やかになる。沈殿していく金の粒子は、どこか神聖ですらあった。数日前まで、砂漠の国境を超え、泥臭い密輸の旅を続けていたことを思えば、これはあまりに美しい結末だった。
「いける……。」
私は呟いた。
ムハンマドが鋭い目を向ける。
「排液ライン、開けるぞ。」
作業員が合図を受けて、回収ポンプのバルブを操作する。低い音を立てながら、上澄みの液体が別の容器へと移されていく。フィルターには、濃い赤褐色の沈殿がびっしりと付着していた。
「これを……乾燥させる。」
ムハンマドは短く言った。
作業員たちが慎重にフィルターを取り出し、沈殿物を乾燥装置へと運び込む。高温で水分を飛ばし、不純物を除去する。部屋には微かな金属臭と熱気が漂った。私はじっと見つめる。数時間前まで液体だったものが、今、目の前で確かな固体へと変わろうとしている。
「乾燥完了。」
作業員の一人が言った。
乾いた金の粒子は、さらに精製され、融解炉へと移される。電気炉の中で、黒ずんだ粉末が徐々に溶け、純粋な黄金色の液体へと変わっていった。
ムハンマドは温度計を確認しながら頷く。
「あとは、鋳型に流し込むだけだ。」
炎の中、どろりとした金色の液体がゆっくりと流れ、用意された鋳型へと注がれる。その瞬間、工場内の全員が思わず固唾をのんだ。
黄金が、形を成す。
液体はゆっくりと冷え、光沢のある金属の表面が見え始める。鋳型の中で静かに固まるその姿は、まるで誕生したばかりの生命のようだった。私は思わず手のひらを握りしめた。
ここに至るまで、どれほどの困難があっただろうか。砂漠を越え、密輸を巡る駆け引きに巻き込まれ、インドシナの屋根を越え、上海では書類と格闘した。ドバイに来てからも、設備の杜撰さに頭を抱え、徹夜で修正作業に追われた。それでも今、この瞬間。私たちは、確かに黄金を手にした。誰からともなく、拍手が起こる。ムハンマドは静かに金塊を持ち上げ、光の下に掲げた。
「成功だ。」
その言葉は、まるで儀式のように工場内に響いた。
工場内には、疲労と達成感が入り混じる沈黙が広がっていた。出来上がった金塊は総量六十
私はふっと息をつき、壁に寄りかかる。心臓の鼓動がまだ速い。ここまでの緊張が一気に解け、膝に力が入らない。ムハンマドが隣で、ポケットからタバコを取り出した。
「吸うか?」
「いや……今はいい。」
彼はライターで火をつけ、ゆっくりと煙を吐く。明日以降の取引のことを思えば、夜のペルシャ湾が巨大な魔物に見えていた。
秘密結社延吉通商 黒河詠史 @cbnsbb
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