第4話 だいじなことは
そのとき、ふと、左のほうに、とん、とんと軽く何かが当たっているのに気づいた。
たぶん、さっき、ぴくんとしたのはこれが原因だ。
気になってみると、しかも、何かが、ちゃりっ、ちゃりっ、と、硬いものが触れ合うような音というか、感触を出しているのも感じた。
何だろう……。
体の左のほうで、おなかの下のほうで、前側ではない。
「えっ!」
これは!
セーラー服のファスナーのところを、だれかがいたずらしている!
たまたまそこに体が当たっただけなら、こんなに何度も、しかも一定のリズムで繰り返すはずがない。
だれ?
ばあいによっては大声を立てるか、それとも鞄から防犯ブザーをはずして紐を引っぱろうか……。
そうやって、おそるおそる左を見てみる。
左隣に座っているのはまるみだった。
それはそうだ。
そういう順番で座ったのだから。
まるみは、いまも、目をつぶって、右斜め前に頭をくたっとさせている。
左手は、膝の上に置いた通学鞄の上にのせている。
まるみは背負い式の革の鞄を使っている。それを左手で押さえている。
では、右手は?
肘を中途半端に背中のほうに引いて、その指先は……。
振り向いても、自分の肩と腕の陰になって見えない。
でも、右手の、たぶん親指で、ちゃりっ、ちゃりっ、ちゃりっと、わたしのファスナーのいちばん下の端を弾いている。
見えないけど、それにまちがいない。
寝ていて、こんなのができるんだろうか?
わたしは、左手をすっと前に出す。
そのまま、顔を洗うねこのように、まるみのほっぺを手の甲でさすってやろうかな?
だが、ここは電車のなかだ。すいているとは言っても、見ている人がいる。
それで、そのまま左手を下ろして、まるみの右手に覆いかぶせるように持って行く。
制服の上からまるみの右手を押さえてやると、まるみはどう反応するだろう?
そう思って、左手の動きが止まったときだった。
まるみは、こくっと首を揺さぶると、顔を上げた。
起きた?
でも、目は閉じたままだ。
ほんとに白い。それにつるんつるんしている。
きれいだな、この横顔……。
わたしは見とれる。見とれるというのかどうか知らないけれど、すぐ隣のまるみの顔から目を離せなくなる。
その唇が動いた。
「るなが」
……。
それは、あの朗読のときの、通りのいい声ではなくて、くぐもって濁った普段の声だった。
さっき、氷水のように冷えてしまったと思っていた体のなかの血が、急にもとの温度を取り戻した。
その温度というのが、熱い。
「好き」
くぐもってはいるが、聴き取りにくくはなかった。ぜんぶ、はっきりきこえる。
でも、だれにも聴き取れない。
聴き取れるのは、わたしだけ。
「わたしのこと、いちばんよく知ってくれてるから」
もとの温度を行き過ぎてしまった。
耳たぶの上の端までが、熱い。
息をつく。その熱いのを少しでも逃がすように。
その反動で、わたしは力を抜く。
左手の力が抜ける。左手がそのまままるみの右手に重なった。
冬服の服地があいだにはさまるはずがなかった。まるみは、わたしのファスナーにいたずらするために、手を服のすぐ下にくっつけているのだから。
だから、わたしの左の手は、親指を上にしていたまるみの右手にすっとくっついた。
わたしの親指に当たったやわらかい指はまるみの人差し指だろう。まるみはその指をそっと下に動かす。
つづけて、ファスナーの端を弾いていた親指を、わたしの親指のつけ根にそってすうっと動かす。
くすぐったくて、心地いい。
わたしの左手をぎゅっと握ってきた。そうしてくることはわかっていたので、わたしも握り返す。
ぎゅっ、と。
こうやって、手と手をつなぐのは、いつぶりだろう……?
どうでもいいと思った。こうやって手をつないでいる二人が、高校生でも、小学生でも、まだ知り合ったばかりの小さい子でも。
まるみが、その通った鼻筋の鼻から、ふっと息をついた。
目を開く。
ぱっちり大きく開く。
寝覚めではない。
はめられた……!
わたしがそう思ったタイミングで、まるみは、不純に、
「わたしも」
と答える。そうしないといけない。
ところが心臓がどきどきして息の通り道をじゃまして言えない。そのあいだに、まるみは、媚びるような笑顔から、自然に優しい顔になった。
わたしが何も言ってないのに、つづける。
「ずっと、るなが話すみたいに、流れるみたいに話せるようになりたかったんだよ」
いや。
それ、つまりわたしがおしゃべりで、相手の気もちも都合も考えないでしゃべってるってことじゃ……?
「でも、わたしはそれができないから、文章を書くのでがんばった」
やさしく唇を閉じて、わたしを見る目をぱちっぱちっとまばたかせる。
やっぱりまるみの目は潤んでいた。
「だから、るなの文章がリズムがいいって
また唇を閉じて、わたしを見ている。
何か言わないと、という気もちが、そのまま凍りついた。
熱いままなのに、凍って動かなくなった。
なんか、へんな感じ。
まるみがつづける。
「よかった」
言って、まるみは握っていた手にさらに力をこめた。
わたしは自然に力を抜いた。
力は抜けたはずだったのに、まだ力が入っていたんだ。
「でも、それでまるみは一番になれなかった」
気になっていたことを、いまは何の心配もなく言える。
「芸文部の部長になったばっかりなのに、一番になれなかった」
気がつく。
わたしは「一番になれなかった」を繰り返した。
まるみは、「好き」から一度も同じことを繰り返していない。
制服のファスナーを、ちゃりっ、ちゃりっとやることから、まるみはその「好き」を一度しか言わなくていいように構成したんだ。
「それは、どうでもいい」
まるみはまた目を閉じた。
「るなの文章、るなの持ってるリズムがそのまま出て来たような文章……わたしはるなのリズムにあこがれて書いてるんだから、るなが一番で当然」
気がつくと、わたしは、左手の薬指と小指で、まるみの手を握ったまま、まるみの手の甲を軽く撫でていた。
同じリズムで。
「だから」
まるみが、そのくすぐったいのに抵抗もしないで、言う。
まるみにその先まで言わせたらよくない。わたしがまるみの友だちである理由がなくなると思った。
だから、わたしは言った。
「うん。だから、ずっと、いっしょにいようね」
言って、わたしはまるみの顔を見て、笑って見せる。
「冗談だよ」とでも言うように。
まるみも、同時に、同じように笑った。
もちろん、冗談のわけがない。
それでわたしが左手でまるみの右手をきゅっと強く握ると、まるみも同時にきゅっ。
膝の上に鞄をのせているまるみと、足の下に通学鞄を置いているわたしと。
二人は、どちらからともなく、軽い笑い声を漏らした。
すいているとはいえ、電車のなかで、へんだと思われないぎりぎりの声で。
二人は、声を立てて笑った。
(おわり)
冬服 清瀬 六朗 @r_kiyose
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