第3話 新しいページ

 赤い赤い森の中、怪物は吠えました。俺の爪は強いんだ、どんな物でも切り裂いて、鋼の剣さえ真っ二つ。鋭い鋭い爪を振りかぶり、怪物は言いました、俺は名無しの怪物だ。


 赤い赤い森の中、怪物は戦いました。俺の尻尾は硬いんだ、どんな物でも叩き潰す、鋼の鎧もぺしゃんこだ。硬い硬い尻尾を振り、怪物は言いました、止められるものなら止めてみろ。


 赤い赤い森の中、兵士達は驚き叫びます。逃げろ逃げろ、怪物が出たぞ。そして大きな叫び声が辺りにこだまして。怖い怖い彼等の声は、次第に聞こえなくなりました。


 赤い赤い怪物は、子供を探しました。いつかの様に彼を見つけて、ゆっくり歩いて行きました。けれども逃げ延びた村人達は、彼を見てこう言います。怖い怖い怪物だ、あっちに行け、消えてしまえ……。



 父が僕を膝の上に乗せ、丸太の様に太い腕で抱っこして、絵本を読んでくれていた。いつもは険しい顔付きで皆と話をしている父も、この時だけは僕に優しかった。


 弟は母に抱っこされて、目をパチパチと瞬きしながら今にも眠りそうだった。母の大きな胸に顔をうずめて、とても幸せそうだ。綺麗な銀髪が、弟の頬を優しく撫でていた。


 僕が5歳くらいの時だったか、あの頃は毎日が幸せだった。でも世界は僕が思うほど幸せじゃなかった。きっと誰でも自分や家族の幸せを守るので精一杯なんだろう。


 絵本を読んでもらった後、僕も父に抱っこされて眠ったんだ。隣には弟が居て、一緒にベットの上で目を閉じた。けれども次に目が覚めた時には、弟は居なかった。


 父は見たこともない顔で怒っていた、母は真っ青な顔でずっと泣いていた。僕はどうしたんだろう、怖くて、辛くて、痛くて、悲しくて。僕は逃げ出した、全力で逃げたんだ……。


 翌朝、僕は窓から差し込む朝日に起こされた。辺りを見回すと、僕は自分の部屋のベッドに居た。母が僕を抱きしめて、隣で眠っている。久しぶりだ、いつもは皆んな早起きなのに。


 昔は優秀な魔術師として活躍していたと聞く、ファントムハイヴなんて格好いい名前で呼ばれてそうだ。でも僕が知る限り、普通の優しい母だった。


 ただ、その才能は全て弟に受け継がれたのだろう、父の剣術も同じだ。僕みたいな弱虫には、どっちも不要だが。


 そう言えば、僕はどうして母と一緒に眠っているのか。思い出そうとすると頭が痛かった。風邪をひいた時みたいに、ズキズキと頭の奥に何かが響く。しばらく横になったまま休んでいると母が起きた。


「おはよう、ウイン。よく眠れた?」

「おはようございます、お母様……。あの、風邪でもひいたのかもしれません」

「昨日は怖い夢でうなされていたみたい、お布団を剥いじゃったのかもね」


 怖い夢、そんなことを言った気もする。なんだか身体も怠い、これは本当に風邪でもひいたのだろうか。


「今日は休んでいなさい、後で朝ごはんを持って来るから」


 母はそう言って、振り返らずに出て行った。


 その日はいつも以上に甘やかされた。ご飯もスプーンで食べさせてくれるし、絵本も沢山読んでくれた。絵本くらいは自分でも読めるが、母は部屋中の絵本を全て読む勢いだった。


 夜になっても母はずっと一緒だった、久しぶりにお風呂にも一緒に入った。お兄ちゃんなんだからと、弟が生まれてからは一人で入る事が多かったので、何だか照れくさかった。

 

 結局、父と弟は僕に会いに来てくれなかった。風邪でもひいたら大変だからだろう、弟に風邪をうつしたら可哀想だ。偉い人が来るからと父は毎日忙しそうにしていたし、今日も忙しいのだろう。


 何か大切な事を忘れている気もするが、母が一緒だと安心出来た。その日の夜も母と一緒に眠った、温かくて優しい匂いに包まれて、眠ったはずだった。誰かが僕を呼ぶまでは……。


 夜中に目が覚めると、何故か本棚が気になった。今日は母が全ての絵本を読んでくれたのに。


 そっとベッドから抜け出し、本棚に手を伸ばす。それは母が読まなかった一冊の白い絵本、どうしてか僕は気になってしまったのだ。


 真っ白な四角い絵本、僕の胸にすっぽり納まる大きさだ。表紙には題名が書いてある、よわむしういんのぼうけんたん……。


 まるで、子供が書いたような下手くそな字だ。もしかして、僕が昔つくった物だろうか。中身はどうなっているのだろう、そう思ってページをめくると、そこには黒い文字が書いてある。

 

『弱虫ウインは必死に走った。

 土砂降りの夜、彼の腕は大地を抉る。

 幸いな事に彼は友の窮地に間に合い。

 四人で家まで帰って来たのだった。』

 

 こんな本を持っていただろうか、やはり変な絵本だ。隣には白い毛むくじゃらの生き物が一匹、三人の子供が笑って立っている挿絵が描いてあった。


 この続きはどうなるのか、何故だかとても気になる。だって主人公の名前が僕と同じだから。僕は微かに笑みを浮かべていた。ドキドキしながらページをめくると、次はこう書いてあった。


『新月の夜、双子の岩の頂上は赤く染まる。

 所詮、彼女の鼓動はうたかたの夢の中。

 行ってはいけない、関わってはいけない。

 それは君の破滅の始まりだから。』


 悪寒が身体中を駆け巡る、もしかして風邪のせいか、この絵本のせいかは分からない。破滅の始まり、とても悪い言葉だ。誰が書いたのだろう、黒い文字はとても綺麗に書いてある。まるで本物の絵本の様だった。


 僕は何故だか胸騒ぎがして、そっと部屋を抜け出した。


 屋敷の廊下は真っ暗で、窓から僅かに月明かりが差し込んでいる。行く当てはない、けれども僕の足はどこかに向かっていた。


「どうされましたか、ウイン様?」


 後ろからかけられた声、僕の心臓は止まりそうな程に大きく脈打った。執事のスミスさんだった。


「ごめんなさい……。何だか眠れなくて」

「そうでしたか、温かいミルクでもお飲みになりますか?お風邪をひいたと伺っておりますので、身体を温めた方が宜しいかと」


 僕は彼の提案に満面の笑みを返してから、トコトコとついて行く。流石は執事で一番偉いスミスさん、僕がリビングのソファーに座っていると、あっという間にカップに入れた温かいミルクを持って来てくれる。


 少し冷ましながらズルズルとミルクを飲めば、口内に柔らかい味がして、獣の匂いが鼻から外に通り抜けていく。ゆっくりミルクを飲んでいると、少し気持ちが落ち着いた。


「スミスさん、あの……。お月様が隠れちゃうのは何日後ですか?」

「新月は、確か今日から一週間後の夜、お客様が来る日でしたか」

「お客様?」

「そうです、クレイン様のご友人です。とても偉い方なのですよ、皆さんお迎えの準備でお忙しいんです」


 気がつくとカップの中身がなくなっていた、でも僕のお腹はポカポカしている。スミスさんにお礼を言って、僕は部屋に戻って行く。


 新月の夜は一週間後。そして双子の岩には心当たりがあった。街から国境に向かって1日歩けば着く岩場、そこに双子岩と呼ばれる場所がある。


 父は近付いてはいけない場所だと言っていたが、街の周辺は深い深い森を含めて僕の庭みたいなものだ。一人でも行くことは出来てしまう。けれども、お客様が来るんだから、外出したら凄く怒られそうだ。


 あの絵本には、行ってはいけない、関わってはいけないと書いてあった。僕は大人しく家でお留守番していれば良いのではないか。きっとそれが良い、そうに違いない。部屋に戻ると母は眠っていた。僕はベッドに潜り込むと、また母の胸の中で眠るのだった。


 次の日、僕は散歩に出掛けた。家に居ても僕にはやる事がない、絵本も全部読んでしまったし。


 大きな通りを歩いていると、友達が立ち話をしていた。ギル、オックス、エンリの三人だ、三人が居たんだ。彼等を見ると僕は泣いてしまった、どうしてだろう、とても胸が苦しい。


 そんな僕の様子に三人も気がついた。エンリは僕を見ると泣き出した、何故だろうか。そして急いで駆け寄って来ると、そのまま僕を抱きしめて泣いた。


 ギルとオックスが困った顔で僕達を見ている。何が起きているんだろう、僕には分からない。途方に暮れている僕を見て、ギルがこう言うのだ。


「ウイン、すまないな……。俺達、迷惑かけたみたいで。お前の忠告をちゃんと聞いていれば、あんな事にならなかったのに」

「ギルどうしたの?」

「ほら、秘密基地に行くなって言ってただろ?あんな事になるなんて、思ってもみなかったんだ」

「あんなこと?」


 困惑する僕を見かねて、オックスが横から口を挟む。


「あの土砂降りの日だよ。僕達三人で秘密基地まで行ってさ、雨が酷くなったから雨宿りしてたんだ。でも凄い音がして、入り口が塞がれて……」

「それって……」

「ウインが衛兵の皆に教えてくれたんだろ、僕達があの洞穴に居るかもしれないって」


 何の話をしているんだろうか、見当もつかない。


「うぇぇん……。私もう一生ウインに会えないんじゃないかって。ヒグッ……」

「あの、エンリ落ち着いて?」


 泣きじゃくる彼女をなだめようとするも、いっこうに治まりそうもない。女の子に抱きつかれて悪い気はしないが、ここまで泣かれると流石に困る。


「エンリはずっとお前の事を呼んでたんだぞ?お前に伝えてないって、私の……」


 何かを言いかけた瞬間、目の前で何かが破裂して、ギルの身体は明後日の方向に飛んでいった。隣でオックスが真面目な顔になっている、エンリを見つめて苦笑いだ。


「ウイン、何でもないの、何でもないから……。グスッ、グスッ」

「うっ、うん、大丈夫」


 エンリが魔術を使って、ギルを吹き飛ばしたんだろう。騎士団にも入れると噂のエンリの魔術だ、僕には何が起きたのか見えなかったが。それにしても、土砂降りの日って僕は何をしていたんだ……。


「でもさ。僕達もお母さんにも、お父さんにも、ウインにも一生会えないんじゃないかって思ったよ」

「グスッ、グスッ……。名無しの怪物が助けてくれたの……」

「あははは、確かに僕達もそう思ったんだけどね。ほら、あれは勘違いだって皆も言ってただろ」


 名無しの怪物は僕の一番好きな絵本に登場する、優しくて、強い森の守り神だ。昔々に本当にあった事だと言われているし、街の近くの森が今でも名無しの森とも呼ばれている。


 大人は隣の国と戦争をしていた時の教訓話だって言うけど、僕は今でも名無しの怪物が森に住んでいて、困った人を助けていると思っている。


「あのさ、オックス達は土砂降りの日に危ない目にあったんだよね?そこで名無しの怪物にあったの?」

「いや、勘違いだって。僕達が洞穴に閉じ込められた時、気を失ってさ。よく覚えていないんだけど、街に帰る時に白いふわふわしたものに包まれてた気がして。もしかしたら、名無しの怪物の毛皮だったんじゃないかって」

「そうだそうだ、俺もそう思ったんだよ」


 先ほど吹き飛ばされたギルもあっけらかんとして戻ってきた。タフな身体をしているものだ、毎日鍛えているんだから当たり前か。


 しばらく四人で話をしてから、皆は帰って行った。今は街中で大人しくしていなさいと、両親から言われているらしい。


 彼等と別れた後で、僕は真っ白な絵本の事が気になっていた。何か大切な事を忘れている、そんな気がずっとしていた。

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弱虫ウインの冒険譚 とんぼとまと @tonbotomato

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