ラーメン食べたい

柚木ハッカ

ラーメン食べたい

『次は西荻窪にしおぎくぼ 西荻窪』

 車内アナウンスで我に返る。間違って乗ってしまったようだ。あれだけ避けていたのに。無意識に下唇を噛んだ。

 大学の同級生が初めて個展を開くからと三鷹まで呼ばれた帰りだった。今はもうない美術の短期大学だった。彼女は卒業後に四年制大学に入り直し、目標も決まっていて当時からキラキラしてた。

 わたしは何の目標も見つけられず、やりたいことも曖昧だった。結局学生時代から続けていた新宿の居酒屋でそのままずるずる働いていた。

 彼と出会ったのはその頃だった。



『新しい人が入るからよろしくね』

 やる気がなく出会い系サイトに夢中な店長はそう丸投げしてきた。仕方なく適当に返事をした。教えないと自分の首を絞めるだけだし、とりあえず挨拶だけはするか。そう思って休憩室の扉を開けた。

「お疲れさまです」

「……うっす」

 そこには全身黒ずくめで髪の長い細身の男の子がいた。前髪も長くて顔もよく見えなかったけれど、どう考えてもバンドマンだ。背を丸めた姿はそんなふうに見えた。愛想もよくなかった。

 わたしは名乗って教育係だと説明した。彼は微動だにしなかった。

「せめて返事くらいしてくれないかな? こっちが分かんないから」

「……すいません」

 彼はそう小さな声で呟いた。先が思いやられる。


 彼は愛想のないわりには教えたことは上手くこなした。けれど殆ど聞きに来ることはなく、仕事も積極的に取り組む気はないように見えた。特に週末は忙しい。わたしは仕事を抱えていっぱいいっぱいだった。

「ねえ、ボーッとしてるんなら手伝ってくれない?」

 そう口に出した後すぐに後悔した。ちょっとキツい言い方だったかもしれない。

「……ごめん」

「いえ。バイト初めてだからどうしたらいいか分かんなくて。手伝ってもいいんすかね?」

 そう困ったように眉を下げて答えた。そして高い背を更に丸めた。

 同じくらいの年齢なのにバイト初めてってどこの御曹司かと思った。これはどうにも齟齬がある気がしてならない。

「今日って終わったら時間ある?」

 彼は頷いた。円滑な仕事のために強引に誘った。それが最初だった。


 居酒屋はラストまでだったからこれからとなると終電に間に合わない。彼に確認すれば黙って頷いていた。わたし達は朝までやっている居酒屋に入った。新宿はそんな所を難なく探せるから助かる。

 彼は酒を飲んでもあまり喋らなかった。大学に再入学していて今年卒業の学生で、わたしより三つ年上だった。

「就職活動とかしないんだ?」

「……音楽で食っていきたいんで」

 バイトが初めてなのは仕送りでやりくりしてたかららしい。少し羨ましくなる。けれどどうやら殆どお金のかからない生活をしていて、バンドも最近始めたそうだ。音楽で食って行くって言ってた気がしたけど。

「友達とかこっちにいないからずっと一人でやってて。卒業だから何とかしなきゃと思って最近始めたんす」

 確かにこれだけ喋らなかったら友達を作るのも大変そうだ。いま喋ったのがもしかしたら最長かもしれない。

「もともとあんまり話さないタイプなんだ?」

 まあ……そう答えて彼は黙った。サワーのグレープフルーツを器用に絞っていた。綺麗な長い指だと思った。

「──俺、訛りがずっと抜けなくて。恥ずかしいから」

 わたしが彼の顔を見上げると、ほんのり赤くなっていた。意外な一面を見た気がした。

 少し考えてわたしはカラオケに誘った。すると彼は嬉しそうに頷いた。その照れたような薄い微笑みを好ましいと思った。

 それからわたし達の距離は近くなった。時折朝までカラオケに行くようになった。もともと言葉で伝えるのは上手くないのかもしれない。けど音楽を通じてなら彼の伝えたいことを理解できる気がした。


「今度の日曜日、西荻窪ニシオギに来ないか?」

 ある日そう誘われた。馴染みのない街だったけれど、それも面白そうだと思ってすぐに快諾した。

 駅の待ち合わせにやってきた彼は何故か不機嫌だった。どうかしたのかと思ったけれど何も聞かなかった。

 駅からすぐの商店街は道が狭いわりに人が多い。けれど彼はペースを変えずに歩いて行く。背中が遠くなる。土地勘もないし迷ったら携帯を持ってない彼とは会えなくなりそうだった。そう思ったら小走りで彼のもとへ行き手を握っていた。彼は驚いたようにわたしを見た。そして何故か繋いだ手を自分に引き寄せた。


「……初めてのデートでこんな所に連れてきて後悔してた」

 彼はポツリとそう言った。告白もないのにデートっていうのにも驚いたけど、こんな所って?

「……渋谷とか下北沢シモキタにすればよかったって後悔してた」

 相変わらず分かりにくいな。わたしは苦笑した。

「全然いいけど。ねえ、どっかでご飯食べようよ。いつもどこ行くの?」

「ラーメン屋くらいしか」

「じゃあ一番美味しかったところに連れていって」

 そう言うと彼は目を丸くしていた。

 けど今日は連れて行きたいカフェがあると言ってわたしの手を引いて歩き出した。彼はカフェに行くことはないけれど見てるのは好きだと言った。きっと行ってみたいに違いない。わたしは繋いだ手にきゅっと力を込めた。

 そして彼がカフェの近くのアパートに住んでいることを知った。部屋に入ると最低限の物しかなかった。彼は窓を開けてわたしを呼んだ。二階の窓からだったけれど、駅から歩いたせいか高い建物はなかった。空が広かった。

「けっこういい眺めでしょ」

「そうだね。あ、川も流れてる」

 窓から身を乗り出して眺めていたら、辿々しい手つきで肩を抱かれた。


 わたしは彼のアパートに時々誘われるようになった。けれどなんの進展もない。それでなんとなく焦れて、こちらから不意に口付けた。彼は目を丸くしていたけど、そのまま真っ赤になって何か小さな声で呟いた。わたしがそっと頷くと、震える手で頬を撫でた。彼にとってはなにもかも初めてだった。

 その日の夜、やっと初めて二人でラーメン屋に行った。昔ながらの小さなお店だった。もやしとそぼろの醤油ラーメン。オススメの味付け玉子を二人でトッピングした。固茹での玉子は懐かしい味がした。熱々を啜っていると、不意に“ラーメン食べたい“という曲が流れてきた。いまラーメン食べてるよ、そう思ったら可笑しくなって目を合わせて笑った。


 それ以来、頻繁に彼の部屋に行くようになった。やっぱりあまり話さないけど居心地のいい空間だった。彼は音楽に夢中で、わたしは再び絵を描き始めた。

 彼のバンド活動は順調だった。わたしも初台の小さなデザイン会社にアルバイト出来ることになった。彼はデザイン会社にバイトで入れる回数が増えると喜んでくれたし、わたしは彼のライブを友達に紹介してチケットを買って貰った。

 寒い日は二人でラーメンを食べに行った。どこの店も美味しかった。ある日の帰り道、彼は連れていってあげたい店があると突然言った。そこは営業時間も短くて、なくなったら営業終了らしい。一度だけ食べたことがあるけど食べさせてあげたいなあと言ってわたしの肩を抱きしめた。今度行こうね、そう言って彼の肩口に頭を寄せた。幸せだった。


 うまくいってるはずだった。

 けれど彼のバンドは急に解散してしまった。彼はプロになることに拘り、プロデューサーという人に月謝を払って弟子入りすることになった。うまくいけばデビューできるって話だった。けれどそれはいつまで経っても果たされなかった。わたしの方は順調だった。バイトから契約社員になり、仕事も任されるようになっていた。

 彼の三十歳の誕生日が過ぎた。二人でお祝いした。相変わらず寡黙だったけれど、それでも口数が減った気がした。


 それから程なくしていつものように部屋に誘われた。

 部屋の扉を開けてわたしは息を飲んだ。梱包された段ボール箱が転がっていた。

「──田舎に帰ることにしたんだ」

 彼はそうポツリと言った。

 もともと彼は親の会社を継ぐことになっていた。父親はかなり強権的な人だった。そのせいか小さい頃から自由などなかった。だいぶ父親とぶつかったらしい。彼が敵うわけもなく、そのうち話すことを放棄してしまったそうだ。大学を卒業したら帰って来いと言われていたのに抗って帰ることはなかった。

 けれど夫と息子に板挟みになった母親が体調を崩してしまった。それで決意した。

「母には迷惑ばかりかけていたから。病気にさせてまでやることじゃないなって」

 そう彼は言った。もう決めたことだった。だからわたしが何を言っても無駄だった。頭では理解していたはずなのに。

 ぱたぱたと瞳から大粒の涙が止まらなかった。

「──どうしてついて来いって言わないの?」

 わたしがそう言うと彼は困った顔をした。

「だって夢を叶えて欲しいから」

 そんなの狡いよ。そう言われたらそうするしかないもの。

 彼はそっとわたしの頬を撫でた。

「俺の分まで叶えて」

「別れたくない」

「うん」

「でも別れることになる」

「うん」

 またわたしは涙を零した。

「出来るだけ早く仕事を覚える。三年で一人前になる。そしたらプロポーズさせて?」

「……三年後のことなんて分かんない。彼氏いるかもしれないし」

「けどプロポーズはするから」

 何その変な話。わたしは涙を零しながら笑った。どうしてこの人は言葉を紡ぐのが下手なんだろう。三年待てって言われたら待ってるのに。

「とりあえず言わせて? ね?」

 わたしは仕方なく頷いた。この不器用な人が大好きだった。



 けどわたしがプロポーズされることはなかった。

 彼の会社は海辺の町だった。そして震災で津波にのまれた。彼は責任者として残ってる人はいないか確認するために逃げ遅れた。責任感が人一倍ある人だった。



 電車のドアが閉まる。あれ以来一度も西荻窪で降りてない。できれば中央特快に乗って通り過ぎたい。ラーメンだって好きじゃない。


『ラーメンたべたい ひとりでたべたい』

 そんなの嫌だ。一緒にたべたい。


 けれど今日は食べたいと思った。いつか一緒に食べに行くはずだったラーメンを思い出しながら。


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