愛だの恋だのの、世の中にありふれたものの始まりは、本当のところはフィクションでよく見るような劇的なものでは全くなくて、偶発的で、ささいで、だから、そこから始まるふたりの世界も、端から見れば月並みで、ありふれている日常だ。
若者が華やかな未来を追うことも。
それが叶わないことも。
やっぱり、ありふれた現実だ。
でも、そこがいい。
ありふれていることの尊さが、いい。
いいからこそ、この物語の結末の寂しさは、胸を打つ。
中央特快に“間違えて”乗ってしまった「わたし」の心象のほんとうのありかを、探りながら読んでほしい。
作者の着想は言わずもがな、矢野顕子の名曲であろう。
「ラーメン食べたい」。
この曲の本来の意味は、女性一人でラーメンを食べることの難しい時代の赤裸々な告白だった。そこから時代は経った。主人公の女性はラーメンを食べることに、同時に彼氏の存在を重ねている。音楽に没頭して夢を見る彼は不器用で、オシャレな街でデートしようとするが、結局西荻窪のラーメンが一番落ち着くのだ。そして彼女もそれを微笑ましく見守る。見栄を張る彼氏に、「バカね」という彼女。昔から変わらない青春の一コマだ。
西荻窪という土地も良い。現代ではそこが武蔵野と言われてもピンと来ない空間も、かつては雑木林だけが広がる場所であった。同時にそこには開けた頃より、音楽というカルチャーが芽生える土壌でもあった。今では音楽とカフェと荻窪ラーメンの街だが、底に流れる人を寄せる磁力は変わらないのかもしれない。
さらりと語られる川の描写も、古代から玉川上水へ続いていく現代の武蔵野の光景だ。
中央線は若者を引き寄せてしまう。そして夢を見せる。それは人が営みを始めてから変わらない。ただ、いつかは現実を見せる。その時に若者は現実と向き合わなければならない。
「わたし」の武蔵野と「彼」の東北はかつてとは違い、歴史だけではなく人と人が繋ぐ時代になったのだ。それでも繋がれないものが、確かにある。それ故に、ラストは切なく胸を打たれる。
つい、武蔵野を西に向けて横切る中央線に乗って、あの独特の空気に溺れに出かけたくなる。
そして、ふらりとラーメン屋に立ち寄りたくなるのだ。
そんな武蔵野を描いた美しい物語だ。