D.S. al Coda(ダル・セーニョ・アル・コーダ)

白猫亭なぽり

D.S. al Coda(ダル・セーニョ・アル・コーダ)

 風薫る武蔵野の森に、グランドピアノの音色が朗々と響き渡る。

 その出どころである音楽学校のレッスン室では、一人の女子生徒が白黒の八十八鍵に向き合っていた。大人の階段を登る最中の、丸みを多分に残した可愛らしい面立ちながら、ピアノ奏者らしい大きな手を存分に駆使し、密度と完成度の高い旋律を積み上げてゆく。指を鋭く振り下ろし、重い音で体の芯を揺さぶったかと思いきや、一転して跳ねるような指使いを見せ、鼓膜を撫でるような柔らかな調べを生み出したりと、まさに自由自在だ。少女――美里みさとが長い十指を動かす度に、音の群れが先を争って部屋を駆け巡り、開け放たれた窓から飛び出してゆく。


 この調子なら、本番も心配なさそうね――。


 その傍らでは、もうひとりの女子生徒・凜音りおんが腕を組んで演奏を見守っていた。先輩らしく鍵盤の上を踊る指に視線を走らせ、耳と体でずっと旋律を感じとっていた彼女だったが、一方でその心は、いつしか妹分と出会った日の記憶へといざなわれつつあった。


 桜舞う入学式の日。あの戸惑いは、忘れたくても忘れられない。


「わたしを捕まえて開口一番、『弾き方を教えて下さい』だもの。びっくりしちゃった」


 正直なところ、迷惑だった。いくら同門とはいえ、師を差し置いて後輩を指導するなど、そもそも言語道断だ。申し訳ない気持ちを隠し、それなりに強い言葉で断ったのだが、美里はまったくへこたれない。教えを請う後輩を袖にする先輩、という構図は都合十日ほど続いた。

 その不毛なやり取りは、師の一声で終焉しゅうえんを迎えた。

 ピアノの世界でも師の言葉は絶対だ。よろしく頼むと言われたら、従う以外に道はない。不満をおくびにも出さずに請け負った凜音だったが、形良い耳の奥では淡い目論見が崩れ去る不協和音が響いていた。自分の練習に差し支えてはいけないから乗り気になんてなれず、どう手を抜くかをずっと考えていたのだ。


 あの日、美里の演奏を聴くまでは。


 国内外のコンテストで受賞経験を持つ凜音からすれば、当時の美里の技術は極めて稚拙ちせつなものだった。音楽学校の求める最低限のレベルは満たしているけれど、せいぜいそこ止まり。でも、漆黒の筐体きょうたいから解き放たれた音色は、体を突き抜けざまに背筋を震わせて去ってゆく。


 ――ピアノが唄うとはこのことか。


 単にピアノを従わせているのではなく、その気持ちすら汲み取って導き、音を出す後押しをしているとさえ錯覚させられる。そんなはじめての経験に、音楽が止んでなお、凜音はその場に縛り付けられたままだった。

 心が、足が、指先が震えるのを抑えられなかった。

 いつかこの娘に負ける、という恐怖があったのは確かだ。でもそれ以上に、「さっきの演奏どうでした?」と無邪気に問う少女が化けるさまを見たい、という好奇心がまさったのだ。


「今はね、ちょっとわかる気がする」


 二人が共に過ごしたレッスン室の真ん中で、一転してピアノがむせび泣き始める。凜音は少し離れた壁に寄りかかり、遠くなりつつある日々に思いを馳せた。


「わたしなんかより、あなたのほうがピアノを愛していたのね」


 凜音が人生の九〇パーセントをピアノにけているとしたら、美里のそれは、おそらく限りなく一〇〇に近かったであろう。そうでなければ、先輩をためらいなく引っ張り回し、レッスン室にこもって深夜まで練習に打ち込む、なんて常軌を逸した行動にはでるまい。

 ある夜、凜音は美里を誘い、とある演奏家のCDを聴いた。プロの技術と表現を心ゆくまで堪能できたのはよかったが、妹分のハートにしっかり火が点いてしまったのは、彼女の想定の範囲外だった。そんな美里の行動はただ一つ、強引に先輩の袖を引き、ピアノの前に陣取って試行錯誤を重ねる、それだけだ。余韻に浸るいとまが凜音に与えられることはなかった。


「演奏会につれていっても、あなたは変わらなかったわね。上手い演奏を聴けば、どうにかして自分のものにしたがる」


 凜音を含む多くの学生達が演奏会に出向くのは、半分勉強、半分は気分転換のためだ。普通なら帰りしなにオープンカフェにでも立ち寄り、紅茶だのケーキだのを楽しみながらおしゃべりに興じるところだが、二人の場合、腰を落ち着かせるのは音楽学校のレッスン室で、会話のお供はヤマハやカワイだった。

 美里の熱意の根底にあるのは、生来の生真面目さのせいか、それとも技術に欠けている自覚と劣等感の裏返しか。寝ても覚めてもピアノ漬けの彼女は変わり者ぞろいの音楽学校でも異彩を放つ存在だったが、職人気質かたぎなフシのある凜音は、この熱心な後輩に誘われるとつい付き合ってしまうのだ。

 ピアノに対して純真に、そして真摯しんしに向き合う。いさぎよささえ感じる美里の姿勢と演奏が、凜音は好きだった。


「夜遅くまで練習して、二人揃って寝坊して。寮から校舎までよく一緒に走ったわね」


 クライマックスの盛り上がりが近づくと、美里に呼応するように、ピアノも高らかに声を張り上げる。音圧とは異なる気迫めいた何かが勢いを増し、周囲の空気ごと凜音の肌を震わせる。


「ねえ、美里。あなたと一緒に過ごせて、わたしは幸せだったわ」


 振り返ってみれば、二人の関係はやや特殊だった。

 音楽学校では、どんなに仲の良い友人同士もピアノの前に立てばライバルとなり、競争が始まる。そんな環境では、友人づきあいも演奏から離れて育まれるのが普通だ。

 一方、凜音と美里の間には、いつもピアノがあった。

 話題といえば演奏のことばかり。流行りの映画やドラマの話をし、本や料理の好みを知り、秘密――たとえば好きな人は誰なのか――を共有する、そういった女の子同士の通過儀礼めいたことは、ついぞなかった。


「ちょっと色気のない青春だったとは、思うけどね」

 

 そうつぶやく凜音の眼差しに、後悔の色はない。妹分と心ゆくまでピアノの練習に没頭できたあの日々を、彼女は決して忘れないだろう。互いに負けまいと意識し、練習に励む時間は苦しくもあったけれど、それ以上に楽しく、かけがえのないものだった。


「あなたはどこまで、自分の演奏を高められるかしら?」


 旋律のみならず、そのいしずえたる譜面に込められた情動にまで寄り添おうとしている美里の小さな肩に、凜音はそっと手をかけた。


「行く先はどれくらい遠いの? 世界? それとももっと広いどこか?」

 

 成長著しい妹分を前に小さく微笑む凜音だが、口の端に浮かぶ淋しさを隠しきれていない。

 この恐ろしい才能の主は、そもそも彼女とはむ領域が違うのだ。凜音がどうこいねがっても、美里がどこまで高く翔ぶのか見届けることは叶わない。それがほんのちょっとだけ悔しいのだ。

 そんな姉の想いは、妹に伝わっているだろうか?

 冴える運指と裏腹に、美里の両眼からは涙が溢れて止まらない。感情は雫のまま柔らかな頬を滑り落ち、チェックのスカートを音もなく濡らす。譜面も読めない大洪水の最中さなかにありながら、しゃくりあげる気配はない。長くきれいな指を繰っては、見えない音を紡いで糸に替え、縦横に織り込んで布と成す。


 やがて、虚空に溶けて消えた最後の一音に、孤独な拍手が取って代わる。


 演奏会直前の通し練習を終えた美里は、鍵盤から手を下ろすやいなや顔を覆ってうつむいてしまった。頑張った後輩の頭をねぎらうように撫でた凜音は、相変わらず嬉しさと淋しさがないまぜになった顔をしている。手のかかる妹分が自分の手を離れていくのが喜ばしくもちょっぴり残念、といったところか。

 ひとしきり感情を吐き出し終えた美里は、ハンカチで顔を拭って立ち上がる。誰が見ても泣きはらしたとわかる眼だが、演奏に微塵みじんも影響がないことは証明済みだ。さんざん流した涙とともに、気持ちの折り合いはついている。

 不慮ふりょの事故で命を落とした先輩の追悼演奏会まで、あと十五分。

 制服のブレザーに黒いリボンをつけた美里は、譜面台に置かれた写真立てを手に取ると、瞬きにも似た短さの口づけを捧げた。


「行ってきます、凜音先輩」


 廊下へ出てゆく美里の足取りは軽やかだ。大勢の前での演奏を控えながらも、露骨に緊張したり、無闇に気負ったりしている様子はない。練習でやったことを本番で披露すればいいだけと、今の彼女は知っている。

 小さく手を振って後輩を見送った凜音は、取り残された写真立てを覗き込む。いつ撮ったかは定かでない、ちょっと険のある見慣れたよそゆき顔。かつて美里におねだりされたうちの一枚だろう。


「こんなことになるなら、もっといい顔したのに」


 過去の自分の振る舞いを悔やんだところで、時は逆様さかしまには帰らない。

 レッスン室にさしこむ陽光にかれ、凜音は開けられたままの窓から外の景色を眺める。眼に映る武蔵野の青空、木々のざわめきに彩られた季節の輝きは、初めてこの地を訪れた頃と変わらない。大好きな後輩と共に過ごした日々の思い出が、彼女の胸中でさざなみのように寄せては返す。

 未練たらしいのは私ばかりね、と凜音は自嘲した。

 涙を流し尽くした愛すべき妹分は、悲しみを振り切って演奏本番に挑む。凜音が愛した音楽学校も、死者に演奏を捧げて一つの区切りをつけようとしている。多くの思い出が残るこの学舎は、もう、彼女がいていい場所ではない。

 可愛い美里が、自分の死にとらわれることなく、前へ進むと決意する。多くの心残りを抱えて旅立つ凜音にとって、それはささやかな救いだ。旅路は長い、背負う荷物は少ないにこしたことはない。


「先に行ってるわ。またいつか、あなたの演奏を聴かせてね」


 その時まで、心の片隅にでもいいから、わたしのことを覚えていて――。




 誰もいなくなったレッスン室では、武蔵野の風がこだまし、青葉の爽やかな香りが漂いつづけていた。

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D.S. al Coda(ダル・セーニョ・アル・コーダ) 白猫亭なぽり @Napoli_SNT

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