(8
――春が過ぎた。
枝垂挫は現実と夢の世界を行き来しているのだという。
面会に行くときはいつだって眠っていて、目を覚ます気配がない。個室の病室で、伸びた甘栗色の髪に頬をうずめている。味気ない出来事の数々を、傍らに座って語る。それが僕の日課になりつつあった。
放課後になると自転車で病院まで通い、バイトをして、受験勉強もして。上手くいかない日々にウンザリして、彼女に愚痴をこぼすこともできるけど、枝垂挫のまえでそんな話はしたくなくて。
しつこいほどに傍にいた少女がいないだけで、僕の世界は灰色に染まってしまった。呆気ないもので、ひとり欠けるだけでも人生は価値を損ねるのだ。例えるならば完成しないジグソーパズルのように。けれど、足りないピースが一個というにはあまりにも大きい損失だ。
空虚で寂しい。何をしても不安が抜けきることはなく、夏を迎えた。
受験勉強も熱を入れて取り組まなければならない季節。刻々と迫る試験日もあって、重圧で息苦しい。枝垂挫が可笑しくなる以前の僕は、どうしてあんなにも孤独が苦ではなかったのだろうか。単に恵まれた時間というものを知らなかっただけか。
何にせよ、足りないものは明らかだ。
授業の合間に泣きついてくる枝垂挫はいない。
放課後に付き合わされる枝垂挫はいない。
休日に出かける枝垂挫はいない。
楽しい時間を共有する枝垂挫はいない。
この日々に、枝垂挫はいない。
かつての騒々しさが色あせていく。
教室の空席を、クラスメイトはさも当然のごとく受け入れている。その事実を思い知らされる度に、僕はひとり心を痛めている。誰にも理解されない。
透明な死を、『枝垂挫ゆい』は遂げてしまった。
だけど今の彼女――人生を継いだ枝垂挫は、透明でも何でもない、くっきりと残る死を遂げてしまったみたいだ。
僕は窓の外の青々とした木々の変遷を眺めながら、幾度となくため息をこぼす。
夏の暑苦しさが徐々に薄れ、夜から肌寒さが顔を出す。さすがに半袖では寒い時間帯は、夜からゆっくりと昼を覆っていく。
季節の節目を感じながら、秋がやってくる。
夏のおしまい。
冬の予兆。
あるいはこう言い替えることもできるだろう。
枝垂挫と出会った季節、と。
◇◇◇
体育の授業で長袖の生徒が増えた。
図書委員会で読書を推奨するイベント案が出た。
さつまいもやカボチャの食べ物を見かけるようになった。
気が早く、もうハロウィンに備える世間を見た。
僕は檜倉駅から駐輪場を抜けて、ほうと息を吐いた。
木々の葉が色づき、緑と黄が混ざり合った並木道を歩いていた。枝垂挫ゆいが可笑しくなったあの日から、もうすぐ一年になる。初めて喫茶店に誘われたときほどのイチョウではないけれど、すでに黄色一色に染まる葉も見受けられた。
進路に関わる色々が佳境に入る億劫さよりも、今はただ彼女がいないことが気がかりで、毎日呼吸しながらも死んでいるような心境である。
「間違ったかな……」
すこしでも気分を紛らわせたい――いいや、そんな理由じゃない。僕は枝垂挫を思い出にしたくなくて、記憶に明確に残しておきたくて、だからこうして独り赴いている。思い出深い場所を訪れるのは、ただ自分の首を絞めているだけのような気もするが。
それでも、病院を移されてほとんど面会にも行けなくなってしまった僕には、じっとしているなんて到底むりな話だったのだ。
イチョウの天蓋を見あげる。
舞い落ちる葉はまだなく、目を細めるような色彩はない。
だけどひとたび視線を戻せば、一年前の幻覚がそこにあった。
亜麻色の髪。
白いブラウスとベージュのジャンパースカート。
厚底の革靴でもまだ足りない背丈。
イチョウの葉を口元にあて、薄い、けれど見とれるような笑みを浮かべる枝垂挫が見えた。
なんてことない瞬間だったはずなんだ。だけど、ひとつの絵画みたく綺麗な彼女に釘付けだったのは間違いない。
「『私』のやりたかったこと、私とやってほしい!」――そう、彼女は言った。
それが可笑しくなった枝垂挫と僕の、最初の縁だったように思う。
「懐かしいな……」
通行人が誰もいないことをいいことに、僕は独り言をこぼした。
鏡を見たわけではないけれど、きっと自嘲的な表情をしていた。ため息は、何もできずにいる自分に向けてのものだった。
◇◇◇
平日が始まる。
卒業が見えてくる都、大人たちは「卒業まであとちょっとしかない」と変な発破をかけてくる。彼ら彼女らは、大学受験を控える生徒たちを緊張させ追い詰めたいのだろうか。
憂鬱な月曜日。
再び現れた文化祭までのカウントダウンも、僕はそこまで乗り気になれない。元々文化祭自体あまり盛り上がる方ではなかったけれど、一番会いたい人が居ない今は、どうしようもなく期待感が薄い。
靴箱を閉めた僕は、両手をポケットに突っ込み歩き始めた。
廊下の木目を睨みながら、眠気を噛み殺し、三年生のクラスに行く。決まったルート、決まった日常。今日も変わらず、世界は灰色だ。
可奈浦がいつもの面子で駄弁っている。相変わらず誰かの噂話に夢中。
いつか枝垂挫を睨んでいた男子たちが、勉強ではなくゲームの話をしている。
その他様々な会話、空気。そのどれもがいつも通り。あの日となんら変わらないように思えて。僕は俯きがちに机の間を縫う。
自分の席に着いて、カバンから教材やらノートやらを取り出す。残されたホームルームまでの猶予を、すこしでも睡魔を和らげる時間に充てようと考えていた。
――しかし、その手が止まる。
「……?」
机に入れた手に、かさりと何かが当たった。
普段、プリントはクリアファイル行きだ。机の奥に突っ込んでおくことはない。何かの拍子に混ざったのだろうか、と訝しげに思いながら、僕はソレを引っ張り出した。
白く、軽い封筒だった。
宛名はなく、誰からのものなのか、本当に僕のものなのかも不明。真っ白で色味がない、重さを感じない手紙だ。
僕は少し逡巡して、やはり中身を確かめてから本来の人に届けようと決めた。
さわり心地の良い封筒をひらき、中身を引っ張り出す。
しかし、出てきたのは便せんでも紙でもない。
一枚の黄色いイチョウだった。
目を見開く。
周囲の音も、人の気配も、過ぎていく時間意識も遠ざかる。
ただ、手元に届けられたイチョウの葉から目を離せなかった。つい先日、いや、遡れば去年から。自分の中で、黄色い扇形の葉はひとりしか連想させない。
勢いよく顔をあげた。
誰がいれたのか。ふたりだけしか知らないあの瞬間を誰が知っているというのか。いいや、そんなことはわかりきっている。こんな風にイチョウを送れるのはひとりしか思い至らない。『枝垂挫ゆい』の事情を知っていて、同じ季節の記憶を持っている人物。
僕は唖然としながら、イスを引いた。
目を離した瞬間に消えてしまうのではないかとすら思う小柄な背中を見つめて、歩き出した。
知っている。可笑しくなった枝垂挫の戦いを。
知っている。イチョウの花言葉が鎮魂であることを。
ずっと過ちであると認識していた、あの頃の一歩。それと同じくらい、もしくはそれ以上の緊張を胸に踏み出す。
傷つける可能性だとか、自分の負うべき責任だとか、贖罪だとか。そういったしがらみを今は忘れる。
ただ、今ある奇跡を噛みしめるために。透明な死との訣別を経て帰ってきた彼女を、迎えるために。
僕は喧噪の中で、名前を呼んだ。
「枝垂挫」
ちいさく跳ねる肩。
さらりとした明るい髪。
イチョウの鮮やかさに負けないぐらいの笑みを浮かべ、彼女は振り向いた。
――fin.
枝垂挫ゆいは可笑しくなった。 九日晴一 @Kokonoka_hrkz
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