(7

 停車した車両から、利用客が降りてくる。

 ひとつしかないホーム、黄色い点字ブロックの内側を、あるいは上を、数人の大人が出口の方へ向かう。スーツ姿の男性はしごと帰りなのだろう。足元がふらふらしている女性はきっとお酒を飲んできたに違いない。その他にも、様々な人々が僕を避けて去っていく。

 列車はドアを閉めて、彼らと僕を置き去りにするように次の駅へ動く。徐々にスピードをあげて抜けていく車両。青白い光に目を細めるが、それらしい人影は見つけることができなかった。

 風が吹いて、長い車両は音とともに遠ざかった。すでに降車した人々はいなくなり、僕はひとりでホームに立ち尽くしていた。すぐさまやってきた暗さと静けさ。

 小さく、それほど広くもない雨飾駅は、夜にぽつんと浮かんだ孤島を思わせた。

 僕は深く息を吸って、ゆっくりと吐き出す。

 冷たさが肺のなかを満たした。僕は携帯を取り出しながら踵を返す。どうせなら、次の上り列車でこっちから行ってやる。そう意気込んで、缶コーヒーでも飲もうとポケットをまさぐりつつ歩き出す。

 誰もいない待合室を目指して。


 と、そんな僕の背中に何かがぶつかった。


「っ、」


 危うく倒れ込みそうになり、僕はそろりと後ろを確認する。


「……」


 亜麻色の頭が、何も言わず背後から抱きついていた。

 名前を呼びかけて、やめる。華奢で力強い腕がわずかに震えていることに気づいたから。尋常ではない怯えが伝わってきたから。

 ただされるがままで、僕は言葉を探していた。彼女も何も言わず、ずっと顔を埋めているようだった。


 可笑しくなった枝垂挫ゆい。

 天真爛漫で、世間知らずで、距離感がわからない女の子。だけど軽そうな身体の内側にはどうしようもなく重い真実を抱えていて、必死に生き方を探している。

 彼女は僕にとって贖罪の対象だ。

 かつての『枝垂挫ゆい』にした過ちを、僕は許していない。許すつもりもない。だから、本人が自分をどう思っていようと、物言わぬ機械のごとく尽くそうと決めた。物言わぬ、は言い過ぎかもしれない。優しい機械と言えるくらいには親切に、そして僕なりに誠実に、透明な死を遂げてしまった彼女のために生きようと決めた。

 だけど、今はそれよりも重要なことがある。


 僕は、枝垂挫が本来の『枝垂挫ゆい』のために、自分を蔑ろにするのが許せなかった。


 身体は同じかもしれない。

 顔つきも変わらない。笑顔を見せるところも声がうるさいところも、明るい色の髪をばっさりやってしまったところも大違いだけど、事情を知らない人にとっては同一人物でしかない。

 けれど、枝垂挫は『死』を明かしてくれた。

 であれば、僕は……僕だけは、君を同一視できない。してはいけない。かつて君を追い込んだ瑞枝実とは関係なく、枝垂挫には『可笑しくなった枝垂挫』として生きてほしかった。自分の振る舞いを探すのに手一杯なくせに、律儀にこちらの気遣いを優先する優しい君だからこそ。


「枝垂挫、」


 僕が言えること。言うべきこと。

 悲しいかな、やはり色々と考えてみてもこの一言に集約されてしまう。


「ごめん」


 ふるふる、と頭を振る枝垂挫。

 構わず、薄く笑って続ける。


「いいや。全部僕が悪いんだ。突き詰めれば、僕がかつての君を追い込んでしまったのが原因なんだ。枝垂挫には責める権利も、恨む権利もある」


 また、否定する枝垂挫。

 駄々をこねるようだと思いながら、ゆっくり話す。


「……正直なことを言うと、怖いよ。また枝垂挫を追い詰めてしまうんじゃないか、何気ない一言が今を生きる君を消してしまうんじゃないか、って。僕はもしかしたら君と同じくらい――いいや、君以上に臆病で、だから変に距離を取ってしまったんだ。ごめん」

「ちがう。瑞枝くんが悪いなら、私も悪い」


 くぐもった声で、ようやく枝垂挫が話す。そのことにすこし安堵した。


「私だって、瑞枝くんの考えてること、真剣に考えてこなかった。勝手な思い込みであなたを助けようとして、それで……」


 数秒の間。

 しばらくの沈黙のあと、小さい声音が肩越しに聞こえた。


「結局、周りのみんなと同じことを、君にした」


 ごめん、と。絞りだしたようにか細い声で枝垂挫が謝る。

 気にしてない、と。僕は当たり前に彼女を許した。

 ゆっくりと振り返ると、鼻を啜る枝垂挫と視線が合った。見あげた瞳は夜空にも負けない綺麗さで湿っていて、目尻は赤くなっていた。可笑しくなって以来、初めて見る表情に少々驚かされながらも、僕は微笑む。

 すると、枝垂挫は羞恥ゆえか目線を彷徨わせた。

 そして、気を取り直すみたく前に向き直り、口を開いた。


「私、瑞枝くんが好き!」

「え、」

「君を好きだったあの子に負けないぐらい、好き!」


 思わぬ告白に、目を白黒させる。衝撃の事実があっさり告げられた気もするが、それを確認する暇も与えてはくれない。

 僕は感情をこれでもかと真っ直ぐ伝える枝垂挫から、目を離せなくなる。唖然として、ただ枝垂挫に釘付けになって、声を耳にしていた。言葉の一字一句、そして切なる表情を焼き付けていた。


「君だけが、あの子と私を別の存在として扱ってくれた。ただの副産物でしかなかった私を真剣に考えてくれた。瑞枝くんだけが、他でもない私を見てくれて、踏み込んでくれた!」


 そっと、手が握られる。秋の凍えるような気温になっているというのに、柔らかい手は熱い。

 枝垂挫は僕の手を両手で包んだまま、祈るように俯いた。


「でも、私はバカだから……どうすればいいのか、ずっと、ずっとわかんなくて、」


 感情の吐露が途切れる。

 葛藤、恐怖……僕には想像もつかない感情をいくつも背負いながら、枝垂挫は整理しているようだった。

 ホームに吹き抜ける風が冷たく煽って、枝垂挫は打ち明ける。

 助けてほしい、と言わんばかりに。


「たまに、自殺衝動に襲われるの」

「自殺……?」

「気づくとナイフとかカッターとか持ち出してて、首筋に当てたりとか手首に添えてたりとかしてて……踏み切りのまえで記憶が飛ぶこともあったし、屋上で飛び込もうとしてたこともあった。そのたびに耐えてきた。でも、段々強くなってる」


 どこかで、腑に落ちたところがあった。

 ずっと前からあった、不可解な行動や仕草の意味。笑みで誤魔化した気配。その裏にあった苦しみを、僕はようやく理解した。

 衝撃に貫かれる。

 認めたくなくて、途切れ途切れの乾燥した喉を意識した。

 何か解決する方法はないのか、と顔に出ていたのかもしれない。枝垂挫は悲しませまいと笑った。それがあまりにも澄んでいて、目を背けたくなるほどに痛々しい。透明になって消えた『枝垂挫ゆい』の後を追っていってしまいそうで、近づくのも怖くなる。


「もう、時間がない」


 枝垂挫が思い詰めた表情で言った。

 僕は顔を歪めた。

 言葉にせずとも、どこか遠くへ行ってしまうのだとわかった。直感と言い替えてもいい。


「ねえ、瑞枝くん。返事、きかせて」


 深く深呼吸した。

 儚い存在であることを再認識させられたような、そんな感覚だ。

 目の前の彼女が浮かべる笑みを、途端に手放したくなくなる。まだやりたいことがたくさんある。『やりたかったことリスト』とか関係なく、ただ可笑しくなった枝垂挫とふたりだけの時間をともにしたい。今まで後回しにしてきたあらゆる日常を、一緒に。


「……帰ってきてよ、」

「それは、オーケーってことでいい?」

「頼むから、約束して。死ぬことだけは許さない。今度は絶対に。だから……だから、……っ」

「私のこと、好きっ?」

「――、ああ。ああっ、好きだよ! 悪いか!」


 思わず声を張り上げてしまう。容赦なく心を暴こうとする彼女に打ち明けてしまう。今まで抑制してきた感情が、一気に爆発してしまうようだった。

 自分でも薄情だと思う。『枝垂挫ゆい』が透明な死を遂げてしまって、可笑しくなった枝垂挫が目の前に現れた。そんな彼女に好意を抱いてしまうなんて、これまで生きてきた『枝垂挫ゆい』本人を否定しているようで嫌だ。可奈浦の言葉を借りるなら、下心ありきの関係というヤツだ。軽薄な理由で彼女に接するのはどうしたって許しがたい。ゆえにこそ、僕は感情を抑制してきたのだから。


 しかし、言ってしまった。

 認めてはいけないことを、認めてしまった。


 そんな僕の頬に、枝垂挫は優しく手を添える。顔が近づいてきて、目をつむる。

 背伸びした彼女と額を合わせる。彼女の香りが鼻腔をくすぐる。薄く見つめると、枝垂挫は愛おしそうに、今まで見てきたなかで最も嬉しそうに破顔していた。


 だれもいないホーム。

 相変わらず吹き付ける夜風。

 互いの体温を感じながら、僕らは感情を共有しあっていた。



「ありがと」



 その日。

 彼女は優しい声色で、僕に別れを告げた。






 枝垂挫が自殺未遂で病院に運ばれたのは、翌朝のことだった。

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