第3話




 野球、とそいつは言った。


 ――なんであんなところにいたのか、そうたずねると、バットやグローブもなければキャッチボールする相手もいないくせに、そいつは「野球をしていた」と答えた。


「マンションの壁でやってたら、近所のおっさんに怒られたから……」


「世知辛いな……」


 すっかり打ち解けた、とでも言えばいいのか。

 俺は「歩き疲れてもう動けない」などとのたまうそいつを背負い、すっかり日も落ちてしまった住宅街を歩いていた。ランドセルを背負う子どもを背負う俺の影……なんだか動く山のように見える。


 キャッチボールしながら聞き出したことを要約すると――野球をしたい、野球チームに入りたいと言うも親に反対され、家出したらしい。子どもらしい無鉄砲さ。あるいは純真さか。そうやってもう家に帰るものかと息巻いていたが、まさか信頼した大人に騙され、これから連れ戻されることになるとは想像もしていないようだ。

 ただまあ、それを成し遂げるためには、まず俺が無事に――不審者だと通報される前に――実家に辿り着く必要があるのだが。通報されても結果的にこいつは家に帰れるが、なるべくなら穏便に済ませたいところである。


「……しょっ、と」


 背中のそいつを担ぎなおす。

 小学生とはいえ人間一人を背負ってここまで歩いてきたが、案外疲れを感じないものだ。

 これも、学生時代の――野球部での日々があったからだろう。特にトレーニングもしていないから全盛期よりは劣るだろうが、それでも今の体力があるのは、野球部時代の賜物だ。


 あの日々、全力だったから――その慣性が、今も俺を動かしている。

 あるいは、惰性だろうか。

 今はもう、目的もない。野球をしたい、なんて――ただそれだけで、それを反対されただけで家出できるような、無鉄砲なこの子どもをうらやましくさえ思う。


「…………」


 こいつの家の事情は知らないが……少なくとも、うちは恵まれていた方なのだろう。野球をやりたいと思った俺に、それをやらせてくれたのだから。


 久々の実家だからか、妙な感傷に浸ってしまうが――それもここまで。

 さて、到着だ。




 事前に連絡をいれていたこともあって、実家ではどこの馬の骨とも知れない子どもを迎える準備が万端だった。


 まず、母が顔を合わせて数分であっさりとそいつの名前を聞き出した。

 エム、というらしい。イニシャルかよ、用心深いなと思っていたら、「笑」と書いて「えむ」と読むそうだ。これもキラキラネームというやつだろうか。


 キャッチボール中もほとんど個人情報を吐かなかったのだが、名前が分かれば町内会のつてを使って家を調べられる。両親が見つかるのも時間の問題だろう。


 残る問題は、エムがこちらの思惑に気付いて逃げ出さないよう、なんとか時間を稼ぐだけ――準備万端とはこのことで、お腹すいてるだろうと夕食を与え、汗をかいてるからとお風呂に入れるなどしてヤツの注意を逸らし、まんまと抵抗する意欲を失わせたのである。我が親ながら、子どもの扱いによく慣れていた。


 家出とキャッチボールの疲れもあるのだろう、なんの因果かうちの親父が監督を務める少年野球チームのユニフォームに着替えたエムは、明らかに眠そうな顔をしていた。


 それにしても、だ。

 こうして明るい部屋のなかでそいつの姿を改めて確認し、俺はその両親が野球をすることに反対していた理由を知る。


 てっきり男子だと思っていたその子どもは――なんと、女の子だったのである。


 ……こういう心理現象を俺は『あとからリボ』(正確にはリポだが)と呼んでいる。つまり、あとになって自分が直面していた出来事の実態、真実を知り、心がゾッとする現象である。


 ヘタすると、俺は女児誘拐の濡れ衣を着せられていた訳だ。

 いやまあ男子が相手でも罪の重さは変わらないが、女児相手だとより人聞きが悪い。

 職業フリーターの成人男性……まったくそれっぽい明日の事件記事が思い浮かんで軽く身震いする。少なからずアルコールも入ってるしな。


 何事もなく帰宅できたことに密かに胸をなでおろす、と。

 その横で、人の気など知らないエムが新しい玩具を見つけたかのように瞳を輝かせていた。


 実家のリビングにあった子供用のバットである。


「おじさん! 野球しようぜ!」


 うちの親父に言ってるのかと思えば、その目は俺を向いていた。


 ……おじさん。おじさんか。よくあるやつ(初めて呼ばれたが)……。地味にショックで固まっていると、視界の端で横たわっている親父がにやにやしていた。ここはクールに返したい。


「お前は中島か」


「?」


 ……通じなかった。

 一応、奥から母の噴き出す声が聞こえてきた。俺の笑いのセンスは母親譲りなのである。


 ただまあ、気まずいものは気まずい。


「……ったく。なんでこんなもんがここにあるんだよ……」


「物をとったり背中かいたりするのに便利でな……」


 孫の手とか使えよ。……などと言ったら、孫の顔を見せてくれとか言われそうで口をつぐんだ。


 実を言えば親父と口をきいたのはもうずいぶん久しぶりのことだし、高校を卒業以来、野球に関する話題は一切してこなかったからだ。

 バットがあったのも、本当に偶然だろう。エムがユニフォームを着ているのもちょうどいい着替えがなかったからだが、ヤツはもうすっかり準備万端といった感じで、バット片手に玄関に向かうと靴を持ってきて、リビングに面した縁側から庭に出た。


「お前な……風呂入ったばっかりだろ」


 さっきまでの眠そうな顔が嘘みたいに、狭い庭に出たエムはぶんぶんとバットを振り回している。


 キャッチボールならまだしも……親父が少年野球チームの監督をしているとはいえ、うちの庭は普通の庭だ。ネットもないから、ヒットが出ればボールは家の外に飛んでいく。他の家屋と離れているとはいえ一応は住宅街の真ん中である。手元にあるのはゴムボールだが、どこかの窓にぶつかればそれなりに音もするだろう。そもそも、夜中に外で騒ぐなという話で――


「ピッチャーびびってるー」


「はあ……?」


 口が悪いなこのクソガキは……。俺がボールをぶつけてやろうかと思っていると、横で親父が「よっこいしょ」と腰を上げた。


「父さんがキャッチャーするから、思いっきり投げていいぞ」


「は……? いや、無理すんなよ。というか、打たれてボールがどっかいったらどうすんだよ――」


「打たせなければいいだろ?」


「――――」


 ……ああ、その通りだ。たかが小学生に、打たれるようなピッチャーじゃない。


「全部きれいにストライクにしてくれれば、父さんも動かなくて済むしな。腰にも障らんだろ」


「……キャッチャー舐めすぎだろ。絶対腰にくるからな……」


 言いながらも、俺はボールを握っている。縁側にあったスリッパを履いて、庭に出る。


 バットを構えるピッチャー。キャッチャーが待っている。


 ――夢想のマウント。

 燃え尽きてもいい、倒れてもいい。あの場所で死にたいと、何度思ったことだろう。


 あの炎天下とは比べ物にならない、涼しい夜の空気。熱気もない、歓声もない。

 それでもここはマウントで、俺はもう一度その場所に立っている。


 目の前には、ただ野球がしたい、ボールを投げたり打ったりするのが楽しいという、純真さだけの女の子。

 思い出すのは、昨夜のコンビニ。野球を続けているという同級生。

 たぶんあいつも、野球が好きだから続けているのだろう。


 ……どうして敬遠していたのか。

 好きだったら、やればよかったのに。


 ただ、なんとなく――二度とは戻れないあの頃を、諦めきれなかった青春を、思い出したくなかったから。


 馬鹿みたいな理由だな、と思う。


 投げたければ、投げればいい。打ちたいヤツもいるし、受け止めてくれる人がいる。


 ――よし、じゃあ感傷はここまでだ。


 実に大人げないと思うが、大人こっちにも事情がある。

 一発たりとも打たせてやるものか。




 ――少しして、〝野球〟の時間はおひらきとなった。


 親父が呻き出したのもあるし、エムの両親がやってきたのもある。


 ……当人は不服そうにしていたが、両親そろって迎えにきてくれるとは、ちゃんと愛されてるじゃないか。


「ほら、ボール」


 軽く投げ渡すと、エムは犬みたいに飛びついてキャッチすると、何かもの言いたげにこちらを見つめていた。両親の手前、口に出来ないこともであるのだろう。

 俺としても、大人だし、相手の保護者の前で言うのは躊躇われるが、


「まあ、また今度すればいいだろ、野球は」


「……!」


 あの時の――本当にまぐれだが、ピッチャーフライを上げた時のように、そいつは目を輝かせて、大きくうなずいた。

 軽くフライを捕った時みたいに何か言ってその表情を曇らせるのはさすがに野暮だろう。相手の両親に微妙な顔をされたが、まあ、お互いに大人の対応でごまかした。


 そうやってエムが去り、そして。


「親父、あのさあ……」


 母に湿布を貼ってもらっている親父に、俺はなんとなく思ったことを口にした。


 それはたぶん、まだ昼に飲んだアルコールが残っていたのかもしれないし、熱に浮かされていただけかもしれないが。


「野球チーム、俺が代わりに見るか? ほら、その調子じゃしばらく無理だろ」


「――――」


「どうせ暇だし――あいつにも、ちゃんとした〝野球〟ってもんを教えてやらないと」



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在りし日の慣性 人生 @hitoiki

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