第2話




 ――別に、野球選手になりたかった訳じゃない。


 赤くなった空を見上げながら、懐かしい帰り道を辿る。

 まだ実家にいたころ……学生時代、部活終わりの帰路。あの日々と変わらない空の色に目を細めながら、思う。


 ただ、一生懸命だったのだ。

 一年、ベンチにすら座れなかった。二年、一瞬のチャンス、敗北の悔しさ。

 そして、三年――当たり前のように来ると思っていた、その夏。

 今年こそはと思っていた。だからこそ余計に。


 そもそも。

 甲子園に出られたかと言えば、正直怪しい。振り返れば俺の母校にそんな歴史はないし、あの頃のチームにそれだけの実力があったとも思えない。俺自身、別に才能があった訳でもない。甲子園、出られたらいいな、それくらいの気持ちだったはずだ。


 でも――試合が出来るなら、負けるつもりはなかった。


 将来を考えない部活なんて、遊びのようなものなんだろう。勝っても負けても、出られなくても、終わってしまえば周りはあっけなく夢を手放した。

 俺だって、将来を見据えていた訳ではないけれど。

 そう簡単には割り切れなくて――勉強も、受験も、何も手につかなかった。

 それでも家を出て一人暮らしを始め、バイトをしているのは、ただ全力だったあの日々の慣性が、その余熱が俺を動かしているだけだ。


 夢もなければ希望もない。

 ただぼんやりと生きている。

 負けてもいいから、せめて試合が出来たなら――夢破れることさえ出来たなら、踏ん切りがついたのだろうか。


 あの頃に戻れたら、なんて。

 そんな取り留めのないことばかり考えて、生きている。


 ……戻ったところで、結局は同じ時間の繰り返しだ。たかが学生に変えられる現実ではない。


「……くそ……」


 昨夜あいつと出遭ったせいで、余計なことばかりが心を覆う。

 早くも二日酔いが来てるのか頭も痛いし、それに……この風景だ。


 飲み疲れて眠り、目覚めると、外は日が暮れかかっていて、ケイタイには実家の母からメッセージが入っていた。

 先日も父がぎっくり腰になったとかいう連絡があったから、また何かあったのかと思えば、田舎から野菜が届いているから貰いに来い、とのこと。

 別に無視してもよかったのだが、冷蔵庫を見れば何もなく、せっかくだしと気分転換がてら重い腰を上げてみればどうだろう。


 ひと気のない河川敷を視界の隅に映しながら歩いていれば、どこからかボールの弾むような音が聞こえてきた。

 実を言えばその音は遠くからずっと聞こえていて、近づくにつれ、ようやくその正体に思い至ったのである。


 ボールが壁にぶつかって、地面にバウンドし、間があって、また壁にぶつかる。ゴムボールだろう。誰かが独りで壁打ちでもしているのか。


 ……昔、河川敷でキャッチボールなどをする野球少年をたまに見かけた。今は人っ子一人見当たらないが、そのガキどものボールがたまにこちらに飛んでくることがあった。ふつうなら拾って投げ返してやるのだろうけれど。その時の、なんともいえない気まずさ。親父が地元の少年野球チームの監督をしていることもあって、ガキどもは俺の顔を知っているのである。

 俺が実家を出たのも、それが嫌だったからの一言に尽きる。


 ただ、野球から離れる為だけに生きている。

 実家に向かうのはその気持ちと逆行しているような気もするが、時が戻る訳でもなし、ただの一時帰宅に過ぎない。


 それなのに、なんだろうこの音は。

 まるで胸騒ぎのように、どこからか聞こえるボールの音。


 むこうの住宅街からか? それにしては近すぎる。しかし、誰の姿も見えない――


 ふと、河川敷の暗がり――橋の下で動くものが目に入った。

 すぐに分かった。誰かがボールを投げているのだ。

 川を背に、橋を支える橋台に向かって投球する人影。


 ……なかなかリスキーなことをする。足がつく程度の川とはいえ、流れは早い、跳ね返ってきたボールを取り損ねたらどうするつもりだろう。

 しかも、投げているのはまだ子供だ。小学生くらいか。場合によってはリスキーというか普通に危ない。


 辺りも暗くなってきている。しかし、その子供はひとりキャッチボールをやめる様子がなかった。


 それはまるで、在りし日の亡霊が俺の足を止めさせようとしているようだった。


 ……この時代、いい年した大人が見ず知らずのガキに声をかけることほどリスクのある行為もないだろう。


「無視だ、無視」


 しかし、そうやってわざわざ声を出したにもかかわらず、だ。


 ちゃぽん、と――取り損ねたボールが川に飛び込んでいった。

 ただえさえ橋の下は暗いにもかかわらず、日も暮れかかっているときた。そんな中で川に落ちたボールを探そうなんて……。


 きっと明日は、この界隈で死亡事故がなかったかと気が気でなくなることだろう。

 そうなるくらいなら、と。




「……なんでこんなところで、一人で遊んでたんだ」


 ボールは思いのほかあっさりと見つかったが、俺の心配は見事に的を射てしまった。

 具体的には、助けてやったにもかかわらずその子供は、突然声をかけてきて川に入っていった見知らぬ大人に警戒感を丸出しにしていた。めちゃくちゃ顔に出ている上、逃げられる距離をキープしながら決して俺から目を離そうとしない。つまり、睨まれている。ここまで他人に警戒されたのは初めてで、地味にショックだった。


「…………」


 そいつは応えない。まるで俺のことを、ボールを人質に迫ってくる犯罪者か何かを見るような瞳で睨んでいる。投げ渡してやれば脱兎のごとく逃げ出していきそうだ。


 さっさとボールを返せばよかったのだが、ゴムボールとはいえ久々に手にする白球の感触を確かめてしまって……つまりにぎにぎしてしまっていたからか、すっかり不審者扱いされている。


 ともあれ、だ。ここは大人らしい対応をしよう。


「さっさと家に帰れよ」


 と、俺はそいつに向かってボールを軽く放り投げた。


 柔らかいゴムボールが放物線を描きながら飛んで、地面に落ちてわずかに弾んで転がった。


 ……惨めだ。気持ち悪い。


 思いっきり――力の限り投げられたら、どんなに気持ち良いことだろう。

 夢の中で何度もそうしたように。

 しかしそのボールは、どこにも届くことはない――いや、とうの昔にこうやって、地面に落ちて転がって――


 転がって、子どもの足元に辿り着く。


「……帰らない」


 と、そいつは呟いて、ボールを拾った。


「帰らないって……」


 じゃあどうするつもりだよ、と言いかけて、橋台の暗がりに青いランドセルが転がっていることに気付いた。学校帰りなのか。それにしても青か。最近の小学生は実にカラフルだが、この子どもの表情はパッとしない。学校で嫌なことでもあったか、それとも親とケンカでもしたか。

 こういう子どもの相手は良識ある他人に任せたいところだが、生憎と近くにひと気はないし、仮にこんな橋の下に誰か現れたとしても、あまりロクなことになりそうにない。放っておくのも翌朝の事件記事が脳裏にちらつくし――


 ……そうだ。実家の両親に任せよう。親父ならこの界隈に顔もきく。


 問題は、どうやってこの子どもを実家まで連れて行くか、だが……。うちの親に来てもらうのが手っ取り早いが、親父はぎっくり腰だし、母は夕飯の準備に忙しくしているだろうから……。


「キャッチボールでも、するか……?」


 まずは言葉を交わそう。うまく懐柔し、とりあえず実家に連れ込むのだ。



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