くろめの湧き水

葛西 秋

 この地を流れる水は湧水だ。なに、その辺りに投げ捨てられているペットボトルのミネラルウォーターほどに上等なものではない。

 数日前に降った雨がゆっくりじわじわと地面に沁み込んで、気まぐれの様に低い土地にちょろちょろと湧く。

 雑木林の落ち葉を湿らせ、枯葉を寝床に育つ虫たちを育む水。落ちたどんぐりの芽吹きをもたらす水。


 ざわざわと涌いて地の表面に這い出す虫どもや、芽吹き前にうたた寝を始めた木の実を求めてカケスや狸がやってくる。

 昔とそうは変わらぬそいつらの顔を草の影に隠れて見ているのは楽しいものだ。


 秋の終わりなど奴らは夢中で餌をあさるから、こちらがぽんっと一つ、栗の実を投げてもなんの不思議も感じずにばくっと一口に喰い齧る。

 そうして目の前のキノコや草の実を食べ終わってようやく何かに気づいたように顔を上げ、余計なものを投げて寄越したのはいったい何者か、ぽかんと呆けた顔で辺りを見回す。

 なあに、絶対にみつからない。奴らを観察する手管についてはこちらは長年の修練を積んでいる。


 タイマー付きのカメラに、暗視野スコープ、赤外線センサー。いろいろなものが世にはあるらしい。

 だが、そんなものは必要ない。ただ尻が湿るのをちょっとばかり我慢して柔らかな草の上にじっと座っているだけでいい。

 朝の冷たい露が手の甲に落ちるのも、昼の風がうなじを吹き過ぎるのも、夜に地中深くから滲み出る土の匂いに包まれるのも、すべてが心地良く、この地の自然と我が身が一つであることを実感する。


 百年流れて変化なく、千年流れて変容なく。


 ただほんの少し前に、この地が大分削られた。

 赤い土は運び去られて、雑木林は切株だらけ、白く四角い建物がたくさん建てられた。

 水が沁みこむ大地がなくなり、虫を育む落ち葉が消えた。

 降った雨は直に地面を滑り落ち、不安定な新しいものは次々と流された。


 そうして。

 天からこの地に降る雨は、すべて石の樋に閉じ込められて要らないものとして捨てられた。


 落ち葉を湿らせ、虫を育み、鳥を獣を呼び寄せた水がなくなれば、この台地から見るべきものは無くなって、つまらないからしばらく外に出るのを止めた。


 百年流れて変化なく、千年流れて変容なく。

 いや、そんなに時は経っていないはず。ある日、ねぐらの入り口を覗き込んでくる奴がいた。なんだなんだと這い出してみると、青く輝く鳥が飛んで行った。

 チイチイと鳴くあの声は、伴侶を求めるあの声は、まだ若い雄のカワセミだ。しばらく見ることがなかった青く光るその羽毛。

 ごそごそと湿った草に腰をおろしてじっくり眺めた。


 チイ


 若い雄のカワセミは、こっちを見て直ぐに逃げた。これだから羽の生えた奴らの視力は侮れない。ただの気まぐれ、自分のなわばりを確保できずに追い出された若雄が流れ流れて辿りついたのに違いない。そう思って塒に戻る。


 だが久しぶりの青く輝く羽色は、夜の空を見上げてみるかという気を起こさせた。

 塒の外に出てみれば、さて辺りは異様に静かだった。


 これはいったいどうしたことか。塒にこもる前ならば、眠りにつく人々の気配、バイクとやらのやたらと煩い音を響かせながら辺りを駆け回る若者や、夜を徹して行う工事の音など、さて、いろいろ聞こえて来たものだが。


 こう暗くては様子が分からん。明るくなったら久しぶりに外の様子を見てみよう、そう思って塒の中へと這い戻り、今夜はこれで寝るとしよう。


 チチイ、チイ


 けたたましい鳴き声で起こされた。昨日飛び去ったカワセミが、なぜか塒の入り口で騒ぎ立てている。なんだなんだと追い払おうとすると、こっちの手を突いてきた。やたら攻撃的だ。どころか体をねじ込んで、手だけでなく、頭も体も突いてくる。


 溜らず外に逃げ出すと、塒の入り口でチチイチチイと勝利の声を張り上げやがる。心地のいい塒を追い出され、かなり不機嫌になっていたので足元の小石を拾い上げた。追い払わなければ、あのとち狂ったカワセミを。


 そうして振りかぶってのトルネードスタイル。目標を定めていよいよ足を振り下ろそうとしたその時に、チイチイと鳴く別のカワセミが目の前の枝に止まった。下のくちばしが紅い。雌のカワセミだ。


 塒の前で胸を張ってチイチイ鳴いていた雄のカワセミはさらに声を張り上げる。

 

 チチイ、チチイ


 ははあ、嫁さん探しのこの雄は、マイホームを見せびらかしたいらしいが、それはお前さんのではなかろうて。尻が湿るのをちょっとばかり我慢して、柔らかな草の上に腰を下ろした。そうして、おや、と目を細める。


 人の姿がやけに少ない。目につくのは年寄りばかり。

 これでは辺りが静かなはずだ。


 人の数だけではない。

 人参白菜小松菜に葱。それらを育てる黒土の畑は無くなったけれど。

 ミズナラ、コナラにトチノキの雑木。人の手の行き届いた雑木林の整然とした姿は無いけれど。


 耕す者がいなくなった荒地にススキの穂が秋風に柔らかく揺れて。

 どこかから持ち込まれたらしいクヌギやケヤキが遮るもののない空に勢いよく枝を伸ばす。

 合間に生えるミツマタは鳥が運んだか獣が運んだか。


 百年流れて変化なく、千年流れて変容なく。

 目の前に広がる光景が、千年前のそれに重なる。


 けれど。


 あのススキは百年前とは同じ物ではなく。

 あのクヌギは千年前とは同じ物ではなく。

 戻ってきたカワセミは新たな世代のさきがけであろう。


 巡るこの世の営みに、己の塒を奪われたことを忘れて思いを馳せる。


 歴史は繰り返すようでいて、同じ地点には消して戻らない。

 ぐるぐると回る円環は、先へ先へと伸び続ける。

 生き物すべてがその細胞一つ一つに有している遺伝の分子の螺旋の様に。


「あ」

 いきなり後ろで声がした。

 丸い目をしてこちらを見つめる幼い兄妹。


 互いにしばらく身動きできず、けれど湿った尻をそのままに、くるりと足元、湧き出る水の中へ身を躍らせた。


 数日前に降った雨がゆっくりじわじわと地面に沁み込んで、気まぐれの様に低い土地にちょろちょろと湧いた水はやがて土の表面を流れ出して。


 雑木林の落ち葉を湿らせ、枯葉を寝床に育つ虫たちを育んで、落ちたどんぐりの芽吹きをもたらす水は、地面の底からこんこんと湧いていた。この湧水こそが本来の住処すみかだ。


 頭の上には水の輪が延々と広がって、先程の幼い兄妹の声がする。

「カッパだ、カッパがいるよ」

「カッパ、カッパ」


 さてまたしばらく身を隠さなくては。けれどこの水は澄んでいるから外の様子が良く分かる。これから先のこの土地が、果たしてどのように変わっていくのか、しばらくはここで眺めていることにしよう。


 この世の全て、変転せざるものは無し。そのことは。


 百年流れて変化なく、千年流れて変容なく。

 かつて住んでいたこの古い住処には海の魚の骨がある。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

くろめの湧き水 葛西 秋 @gonnozui0123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説