最終話 再
1985年4月4日、エール・フランス273便のボーイング747は成田空港発アンカレッチ経由シャルル・ド・ゴール空港に向かう旅客機である。21時の出発まであと20分ほどであった。その機内に木佐貫の姿があった。
昨年10月15日にブルーファルコンが墜落してその後千賀子がアメリカの諜報員だと知れてから、木佐貫は伊藤と共に松島基地から撤収するための作業に取り掛かった。その間、公安や調査隊の事情聴取にも応じ、木佐貫と伊藤が松島基地を去ったのは10月の末だった。
11月に入り三川重工小牧南工場に一旦席を置いた木佐貫だったが、すぐさま東京の本社総務部へ異動させられた。畑違いの仕事、しかも本社に移されたことには、なんらかの意図が窺えたが従うしかなかった。
総務部に着任早々木佐貫は部長に呼び出された。部長は今回のブルーファルコンの件を本社の殆どの人間が知っているだろうと話し、そして、
「始めのうちは居づらいかもしれないが、人の噂も七十五日と言う、時が経てば普通になるからそれまで我慢して働いてくれ」と言った。
本社の総務部には各部署のいろいろな人たちが出入りする。始めのうち、総務部を訪れる人たちは木佐貫に好奇の視線を向けた。木佐貫も好奇の視線に晒されていることは分かっていた。アメリカの諜報員と関係していた事に皆興味津津なのだろう。しかも、その諜報員が女性であるということがさらに皆の興味を煽った。ある役員が訪れた際には、「君が木佐貫君かね」と言って、諜報員はどのようにして君から情報を聞き出そうとしたのかとあからさまに尋ねてきた。
木佐貫は、「その件に関しては口外を禁じられていますので」とそっけなく対応した。木佐貫は人にどう思われようがどうでもよかった。それが上役だったとしてもそうである。ただ与えられた仕事を淡々とこなすだけに専念した。社内では仕事中にはもちろんのこと休憩中でも雑談などせず、話すことは仕事のことに限られ、愛想笑いなども見せることなく、常に無表情でいた。周りの者もそんな木佐貫には仕事以外では話しかける事も無く、近づく者もいなく、好奇の目はやがて変わり者を見る目へと変わっていった。しかし、仕事に関しては完璧に迅速にこなすようになり、総務部内での仕事に関しての信頼度は増していった。木佐貫にとっては意識して皆と距離を開けたり話をしないようにしている訳ではなかった。これが、いつも通りであり彼にとっての自然体なのであった。周囲の者も木佐貫のことを次第に理解するようになり仕事中には普通に接しても、休憩中や仕事が終わってから彼に話しかけたり食事や飲みに誘うようなことは無かった。
年が明け1985年に入った頃には木佐貫に対し好奇の目を向ける者はいなくなり、仕事のやり取りも総務部内においては普通に行われていた。木佐貫も総務部の仕事に随分と慣れてきた。しかし、アメリカの女諜報員と関わりブルーファルコンの情報を渡していたと思われている自分は、この先ずっと孤立した状態のままだろう。このままここで疎外感を味わいながらこの仕事を続けなければならないのだろうか?これまで設計や製作に関わってきた木佐貫にとって今の仕事は一時的なもので、何れは設計や製作の現場に戻される、と思いたいのだが、ブルーファルコンの件がその希望を阻んでいるのだと思った。
そんな1月の18日、金曜日のことだった。一人の男が木佐貫を訪ねてきた。
「木佐貫さん、丸赤商事の鈴木さんと言う方がお見えになっています」と女性社員から言われ、「私にですか?」と木佐貫は訊き返した。
「はい。3番の応接室にお通ししていますので」と言って女性は自分の席へと戻って行った。人に合う約束など無かったが、丸赤商事は取引相手でもあり、こちら側で応接室に通しているのだから取り敢えず合うしかないと思い席を立ち3番応接室へ向かった。
丸赤商事は日本では大手の総合商社である。世界の主要都市に支店を構え、国策事業に係わる仕事もしていると聞く。そんな大手の商事会社の人が私に何の用なのだろう?
木佐貫は応接室のドアを軽くノックしてから中へ入った。男はソファーから立ちあがり名刺を差し出し、「はじめまして、丸赤商事の鈴木です」と名乗った。名刺を受け取りながら年齢は私と同じくらいか、と思いながら名刺に目をやる。そこには欧州統括部、鈴木修二とだけ記されてあり役職名などは無かった。木佐貫も名刺を渡しソファーに腰を下ろした。
「どのようなご用件でしょう?」すぐに本題に入るのは木佐貫のスタイルである。
「実は、会っていただきたい方がおります」鈴木も即座に答えた。
「どなたと?」
「グッソーはご存知ですか?」半身を前に乗り出し声を少し絞って鈴木は訊いた。
「フランスの戦闘機メーカーですか?」
「はい、そこの方が内々にお会いしたいと」
木佐貫は暫し考え込んだ。グッソーがなぜ私に?ブルーファルコンか?グッソーが私のことを知っているということは世界中の軍事産業界にはもうブルーファルコンのことは知れ渡っているのか、そして私の事も。木佐貫は表向きの表情は変えていなかったが血の気が引いていくのを覚えた。戦闘機を造るとはそういうことなのか。三川重工の一社員である私が会社の命により受けただけの仕事だというのに、ブルーファルコンの主任設計士と言う肩書が私の名前を世界中に拡散させたというのか。
「木佐貫さん、いかがでしょう?」
「目的は何なのでしょうか」
「木佐貫さんを必要としているのだと思います」
「私を?」
「はい。実は私どもの方で少し調べたことがございまして」
「何をですか?」
「木佐貫さんは三川重工にいる限りはこのままだと思われます」
「総務部と言うことですか?誰がそんな事を?」
「誰とは申せませんが、上層部の人間です。スキャンダルを起こした人間は追いやられてそのままです。それが日本の社会です。しかし、海外では違います。能力さえあれば道を切り開けます。グッソーは、木佐貫さん、あなたの能力を必要としていると言っていました」
木佐貫はまた考え込んだ。この初対面の鈴木の言うことを信用してよいのか?しかし、ストレートな受け答えには嘘が無いような気がした。あとは私自身の問題か。このまま三川重工で本意でない仕事を続け定年を迎えるのか。36歳の自分にはまだ可能性がある。そう信じたい。私の能力を必要としているのならそれに応えてやりたい。必要とされ、評価されているところで働けるのであるならば迷うことは無いのではないか。しかし不安はある。
「話を聞くだけでもよいのです。納得いかなければその場で断っていただいてもよいのです。その席には私も通訳として同席しますので」少し間を置いて木佐貫は答えた。
「承知しました。では、話を聞くだけということで」木佐貫はグッソー社の者と会うことにした。
翌日の土曜日の午前、木佐貫は鈴木が指定したホテルのロビーでグッソー社のジャンと名乗る男と会った。ジャンは笑顔で木佐貫に握手を求めてきた。それに応え握手を交わした木佐貫は相変わらず無表情のままだった。ジャンの話したことは鈴木が訳して木佐貫に伝えられた。それによると、グッソー社では新型の戦闘機を開発する計画がありそのスタッフに木佐貫を招きたいということだった。
「私はまだ御社にお世話になるとは言っていないが、そのような重要な事を私に言っていいのですか?」木佐貫の言葉を鈴木がジャンに伝えると、
「今回の新型機のコンセプトが日本が造ろうとしていた戦闘機に近いものがある。その図面を見た時にあなたの名前を知り是非とも協力していただきたいと思ったのです。もし、あなたの協力が得られないのなら、このコンセプトが変更されることになり違うタイプの戦闘機が造られるでしょう」と鈴木が訳した。
「図面はどこから入手したのですか?」木佐貫の問いにジャンはそれは答えられないと言った。そして、この世界では情報はとても重要で、どんな手を使ってでも入手しようとするし、自社の情報は厳重に管理しているという。
「今回、あなたが不幸だったのは日本の会社で戦闘機開発に携わったということです。その為にアメリカの諜報機関から狙われたのです。グッソーは長い間軍事に関する仕事をしています。技術者の安全と情報を守る術は構築されている。安心して働ける環境が我が社にはあります」
「そうですか。もし、私が御社にお世話になるとしたなら何をすればよいのですか?」
「木佐貫さんには機体の設計に係わっていただきたいと考えております。スタッフの選定は既に始まっています。出来れば返事は今月中に頂きたいのですがいかがでしょうか?」
ジャンは木佐貫を真っ直ぐに見て言った。鈴木もまた同様の眼差しで木佐貫に伝え、そして付け加えた。
「ジャンは信用できる人物です。何かあったら彼を頼ってください。そして、私も4月からパリ支店への移動が決まっています。微力ながらお力になれることがあるかもしれません」
鈴木の言葉は、もし、この話を受けた時には独りで異国へ行くことになる不安を和らげるものとなった。鈴木とは昨日と今日の僅かな時間しか会っていないが彼は信頼に足る人物だと木佐貫は考えるようになっていた。その鈴木が近くに居るとなれば何とも頼もしい限りである。
「分かりました。この話、お受けいたしましょう」
「本当ですか?」鈴木は大きく目を見開き驚いた。その表情はすぐに笑顔へと変わった。木佐貫が見る初めての鈴木の笑顔であった。鈴木は立ち上がり、「ありがとうございます」と言って木佐貫に握手を求めた。木佐貫は鈴木の想定外の喜び様が少し可笑しく思わず表情を崩し、座ったまま手を差し伸べ鈴木と握手し訊いた。
「どうしてあなたがそんなに喜ぶのですか?」
「え?そうですね。どうしてでしょうかね」鈴木は照れ笑いを浮かべた。
鈴木はジャンからこの件のことを依頼された時に、日本が造ろうとしていた戦闘機の事と木佐貫の事を聞いた。その戦闘機は図面から推測するに、優れた性能を発揮すると思われるということだった。その主任設計士である木佐貫は情報漏洩の疑いがかけられ三川重工で不遇の扱いを受けているということも聞き、自分でも木佐貫に関していろいろ調べてみたのだった。
すると、木佐貫は三川重工で設計の仕事に携わると才覚を現し重要な設計に次から次へと係わるようになったという。そして、次期支援戦闘機の開発が持ち上がると即座に開発スタッフとして召集され、その後主任設計士に任命された。三川重工において国策事業に係わる重要な仕事に若くして抜擢されたことは異例中の異例だったということだ。彼の仕事ぶりについては寡黙に打ち込むタイプだが独りよがりになるのではなく周囲の意見も聞き協調性を持って取り組むためスタッフから信頼される存在だったという。しかし、仕事以外での付き合いは苦手なようでプライベートで彼と親しかった人物はいなかったようである。アメリカの諜報員に係わる情報漏洩疑惑には、木佐貫を知る人たちは一様に「彼がそんな事をするのは信じられない」と口を揃えて言った。
鈴木は調べていくうちに木佐貫の人物像を自分なりに膨らませていった。始めは機密情報を漏らしたという疑いから、悪いイメージがあったが次第に好印象へと変わっていったのである。そして彼の才能を三川重工の総務部に埋もれさせてしまってよいのかと思った。自分と同年代の木佐貫にはまだまだ可能性がある。その可能性を世界で発揮できるはずだと思った。鈴木はそのことを自分にも重ね合わせていた。だからこそ鈴木は木佐貫がグッソー社に行くことを喜んだのだった。
二人の様子からジャンは木佐貫が了承してくれたものと確信し、彼もまた立ちあがり木佐貫に握手を求めた。
木佐貫は彼自身にとって未知の地への旅立ちを決断した。考えてみれば今の自分には失うものは何もなかった。千賀子を失い、設計の仕事も失い、疎外された中で本意ではない仕事を続けることより、自分を必要としてくれ、信頼に足る人たちとやりたい仕事ができるのなら迷うことは無く、期待が不安を凌駕し、フランスへ渡ることを決断した。
ジャンの話だと新型機の開発は5月頃から始める計画だと言うが4月の早い段階でグッソー社に出社できる状態にしてほしいということだった。木佐貫は2月いっぱいで退社する意向を会社に伝え、フランス渡航の準備を始めた。
パスポートは持っていた木佐貫だったが長期のフランス滞在となる為ビザを取得するための申請や、引っ越しの手配などを2月、3月で行った。向こうでの住まいはジャンが確保してくれた。また、フランス語の勉強もした。これには鈴木も協力してくれた。
そして、4月4日の日本出発の日を迎えたのだった。木佐貫は機内に入り自分の席を探しながら周囲の人たちも見ていた。フランス行きという事も関係しているのかどことなく華やかな装いの人たちが多く感じられた。フランス人と思われる乗客も多くいたが、日本人乗客の中には木佐貫のように仕事でフランスに向かう人たちもいるのだろうが、大半が観光でフランスに行くように思えた。ほとんどが楽しげな表情をしているように木佐貫の目には映った。そんな人たちを見ながら木佐貫は窓際の自分の席を見つけ腰を下ろした。
右手にある窓から外を見やろうとしたが外は暗闇。その窓には自分の顔が写し出された。
「おい、大丈夫か?これでいいのか?」窓に映った顔がそう問いかけているような気がした。
「自分には今、何もない。これからまた始めるだけさ。自分なら出来るはず。そう、自分を信じて進むだけなんだ」
窓に映った顔に心の中でそう答えた。そして、窓から視線を外し、背もたれに寄り掛かり目を閉じた。
まもなく出発するとアナウンスがあり、機内のざわめきから座席の殆どが埋まってきた様子が目を閉じていても窺えた。木佐貫の隣の席にも人が来た気配がした。香水の香りがふわっと目を閉じている木佐貫の鼻を撫でた。女性か。この良い香り、どこか懐かしい。女性は座席の上の棚に荷物を入れてから席に座ったようだった。
この懐かしい香りは、そうか、千賀子がつけていた香水の香りと同じなんだ。不意に千賀子の顔が脳裏から瞼の裏側に投影された。木佐貫は隣に座った女性が気にかかった。ふだんだったら気になる事は無いのだが、この香りが木佐貫の好奇心を煽った。目をゆっくり開けると、ひじ掛けに置いた女性の右腕が視界に入った。ふんわりしたブラウスの袖口から出ている手は透き通るような白い手をしていた。ゆっくり視線を左に移すと彼女の顔が視界の左隅に映り込んできた。その女性は大きめの茶褐色のサングラスをしていたが鼻の形や口元の様子から日本人のように思われた。黒髪は長めで右肩の所で束ね、その先端は右肩口から胸のあたりまで伸びていた。顔の肌も透き通るような白い色をしていて薄く化粧しているようだった。年齢はよく分からないが自分よりも若いのではないかと思われた。
女性は、木佐貫が自分を見ていると気付き、サングラス越しに木佐貫を見てニコッと微笑み会釈した。そのほほ笑んだ口元の右側に薄化粧を透してほくろが微かに見てとれた。木佐貫は目を見開き女性の顔を正視した。淡い茶褐色のサングラスの奥から見覚えのある瞳がこちらを見ていた。
才器の翼 寺池 魔祐飛 @mayuhi
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