第16話 翔太と美香

 1985年3月20日、午後7時過ぎ、霞がかったほの暗い闇が松島基地を覆っていた。その闇の中、霞に反射された淡い光を纏った格納庫がぼんやり浮かび上がっていた。その格納庫の中ではブルーインパルスの5番機だけが照明に照らされ、美香は一人でその5番機の前輪部分で屈んでなにやら整備をしているようだった。

 「どうした?美香。何か不具合でもあったか?」翔太が美香の背後から声を掛けた。

 不意に声を掛けられ驚いた様子で振り返り翔太を認めると、美香は驚いた表情を和らげ立ち上がった。

 「何もないわ。メンテナンスしているだけよ」

 「いつも、ありがとな」翔太は美香がいつも遅くまで翔太の愛機である5番機の機体を整備しているのを最近になって知った。いつか感謝の言葉を掛けようと思いながらもなかなかできないでいた。あらたまって言おうとするとどうしても照れくさくなり「ありがとう」の言葉を飲み込んでしまっていた。だが、今日は違っていた。

 「あら、今日はどうしたの?気持ち悪いんだけど」

 「いや・・、いつも、言おうとしていたんだけどね。なかなか・・」翔太は照れくささをごまかすように自分の愛機であるT2のコクピットの方に歩み寄り右手で機体に触れ擦るようなしぐさをした。

 「ふ~ん」美香は、いつにない雰囲気の翔太に「あのこと?」と訊いた。

 「ああ、うん。あれ以来話していないからさ」

 あのこと、とは美香の父である寅夫が言いだした美香と翔太の結婚話の事である。

 スパイ騒動が一段落し、冬の空気が基地を覆い始めた昨年の師走はじめの夜、美香は母であるヤヨエからその事を電話で聞き、翌朝出勤前に翔太の部屋まで問いただしに行ったのだった。

 美香は「ちょっと、どういう事なのよ」とドアを開けた翔太を睨みつけ、ただならぬ形相でまくしたてるように話し始めた。

 「なに勝手に話進めてんのよ」

 「え?何?」はじめ翔太は何の事か分からずあっけにとられ美香を見て訊き返した。

 「とぼけないでよ、夕べお母ちゃんから電話があって、あんたとうちの親との間で結婚の話をしているって」

 「あ」翔太は別に忘れていたわけではなかった。寅夫に基地まで送られてきて以降しばらくの間その話は美香の両親からも、そして美香からも無かった。それで、やはりあの話はあの時の状況であの両親が自分のことを気遣い、基地まで送っていくために吐いた冗談だったのだろうと思い頭の片隅に追いやられていたので、急にはピンとこなかったのである。

 「そのことね」

 「そのことねって、軽く言わないでくれる。私、頭にきて夕べ眠れなかったんだからね」

 「まあまあ、それには訳があってさ。今話すから、ちょっと中入って。寒いしさ」

 そう言われ、美香は狭い玄関の中に入りドアを閉めた。冷えた澄んだ空気に代わり、ほんのり暖かい灯油くさい濁った空気が美香を包み込んだ。

 「上がって」翔太の言葉に美香は上がろうかどうか少し迷ったが、「ここでいい」と上がり口に止まった。

 「そうだね、出勤前で時間も無いしね」

 そうではない。実は美香は独りで男の部屋に入ったことが無かった。学生時代には女友達複数人で男の人の部屋に入ったことはあったが、たった一人で男の人の部屋に入ったことが無かった。普段、小突き合いながら冗談を言い合い、周りから見たら仲の良い友達以上の関係に見える翔太の部屋でも、足を踏み入れるには躊躇いがあった。翔太を意識している自分に気付いたから躊躇ってしまい上がる事が出来なかった。

 「フライトレコーダー取りに行った時の事は話したよね」翔太は火の点いた反射式の石油ストーブを静かに居間から玄関まで運びながら話し、美香にそれを向けて置いた。

 「ええ、帰りに白バイに追われて私の実家に逃げ込んだって」

 「そう、その時なんだよ、その話が出たのは」

 「そんな話、あの時、してなかったじゃない」

 「それは、美香のお父さんとの約束があって話せなかったんだ。それに、美香のお父さんとお母さん、どこまで本気で、どこから冗談かもわからないとこがあるし」

 「それはそうなんだけど・・、でも、一言言ってほしかったわ」

 「うん、そうだね、ごめん」

 「で、なんで白バイに追われて私の実家に逃げ込んでそういう話になるわけ」

 「それがね・・」翔太はその時の事を話し始め、外の冷気で強張った美香の体が石油ストーブの熱でほぐれてきた頃ひと通り話し終えた。

 「交換条件ってお父さんの考えそうなことね」

 「おばさんも凄く乗り気だったのにはびっくりしたけど」

 「お母ちゃんの方がうるさいのよ、早く結婚しろって。特に最近は」

 「そうなんだ」

 「で、翔太はOKしたんだ」

 「仕方なく」

 「仕方なく?」美香は睨むような目つきで翔太を見て「あ、そう」と2、3度頷くようなしぐさを見せた。

 「いやいや、だってしょうがないでしょ。OKしなきゃ匿ってくんないって言うんだから」

 「しょうがない、ねぇ。ふ~ん。わかったわ、じゃあ、翔太はこの話は本心でOKしたわけじゃないから、無しってことでいいのね」

 「え、そうじゃなくて、あのぉ~」しどろもどろしながら(なんでまた機嫌悪くなってんだ?)と思いながら取り繕う言葉を探している翔太に、

 「だいじょうぶ。お母ちゃんたちには私からそう言っておくから。それじゃあ、時間も無いことだし、朝からどうも失礼しました」と言って美香は玄関のドアを開けて外に出た。

 そして、「あ、ちょっと・・」と呼び止めようとする翔太を無視するようにドアを閉めて行ってしまったのだった。

 その後は二人ともあまり会話する事も無く、翔太は飛行再開に向けての訓練メニューをこなし、美香は格納庫で戦闘機の整備に追われ、二人にとって様々な事があった1984年は暮れた。

 年が明けるとすぐに翔太は空に復帰した。愛機であるブルーインパルス5番機で再飛行を開始したが、チームのメンバーとは別メニューでの訓練がスタートした。しばらくブランクがあっての復帰飛行となった初日は緊張もしたが、フライト後には笑顔がこぼれた翔太だった。5番機の整備スタッフの一人である美香も笑顔を見せ翔太の飛行再開を皆と祝した・・、様に見せかけた。複雑な心情から漏れ出た笑顔は自分ではぎこちないものだと分かった。しかし、それに気付いた人は誰もいなかった。

 それからの翔太は翼が癒えた鳥のように自由に大空を飛びまわり飛行感覚をみるみる取り戻し、今となっては以前のようにブルーインパルスのチーム飛行に加わっていた。

 その間、翔太は美香とのことは気にかけてはいたけれど空の方が優先されていた。そして今、落ち着きを取り戻した時に、美香の事がひどく気懸りとなってきたのである。翔太が空に復帰して以来、美香は黙々と翔太の愛機を整備していた。以前にも増して時間を掛け丁寧に整備をする姿に翔太が気付いたのは最近になってからだった。それを、美香と同じ5番機の整備スタッフの松本に訊くと、

 「復帰飛行してからずっとですよ。自分たちが帰った後もしているようで、あまり根を詰めるなよとは言っているんですが、よほど墜落の事がショックだったんでしょうね」と話してくれた。

 飛行再開してからだって?最近までその事に気が付かなかった翔太は自分を情けなく思った。美香の事を気にかけていると自分では思ってはいたが、美香の事が全然見えてはいなかった。また空を飛べるようになった事が嬉しく、はやくブルーインパルスに戻れるようにと飛行訓練の事だけを考えていた。美香とは飛行前点検の時とフライト後に機体について話す事ぐらいで、その他にはほとんど話していない事にあらためて気付く。

 昨年12月のあの朝の事があって、多少気まずくはなっていたが、そんな気持ちも4、5日もした頃には仕事の面では普通に会話もできるようにはなっていた。にもかかわらず、翔太は結婚話の事も切り出さず、美香が遅くまで自分の機体を整備していてくれた事も気付かず、自分の事だけを考えていたことに嘆き、不甲斐ない自分を責めた。

 あの時、美香は結婚話を終わりにしたが、翔太の中では終わってはいない。美香もそれには気付いている。しかし、終わりにした美香からその事は言いだせないだろうし、自分が飛行を再開してからは彼女の気遣いから敢えてその事には触れないようにしていたのだろうとも思った。

 情けないだの不甲斐ないだの思っている暇は無い。ここは一刻も早く美香に自分の気持ちを伝えなくてはならない。そう決意した翔太だったが、これには相当な勇気が必要だと気付き一瞬躊躇った。その躊躇いを美香を想う気持ちが振り払った。

 そして、みんなが帰り美香が一人で翔太の愛機を整備している時に意を決して声を掛けたのである。

 「おじさんから匿う代わりに美香と結婚しろって言われた時、はじめは冗談だと思ってた」翔太の言葉に、「そうでしょうね」と美香は相槌を打った。

 「でもね、嫌な気持ちが全然しなかったんだ。むしろそうなれればいいなって思った」

 「え?」

 「美香と結婚した時の事を想像してた。なんか、ずるいけど、これで美香と結婚できればいいなと思ったんだ。その時」

 美香は黙ったまま翔太を見ていた。

 「やっぱずるいよね、他人任せじゃ」薄っすら苦笑いを浮かべ翔太は言った。

 「うん、ずるい」美香の言葉に翔太は促され、

 「俺、その時気付いたんだ。美香のことが好きなんだ。結婚したいと思うほど好きなんだって」そう言って真顔で美香を見た。

 「結婚してくれ、美香」

 翔太が見詰めていた美香の瞳が潤んでいるように思えた。

 「ありがとう、翔太」そう言って美香は俯いた。地面に滴が落ちた。美香は俯いたまま右手の人差指で目もとの涙をぬぐうと顔を上げ翔太を見た。

 「私もね、お母ちゃんから電話があった時、口では怒っていたけど、内心は嬉しかったの。翔太と結婚できればいいなって。でも・・」美香は少し口ごもり、

 「でも、できない。結婚できない」そう言うと再び目から涙が溢れ出た。

 「え?ど、・・どうして?」

 「わたしね、今月いっぱいで自衛隊辞めるの」

 「え?なんで?どうしてなんだよ。そんなの全然聞いていないぞ」翔太は思わず美香の両肩を掴んでいた。ちょっと痛がる美香を見て、翔太は我に返り、「あ、ごめん」と美香の肩を掴んでいた手をパッとひらいた。そして、落ち着こうとして息を吸い込み「何かあったの?」と静かに訊いた。

 「もう、無理なの。苦しくて、おかしくなりそうなの」

 「何が・・苦しいの?・・俺にできることがあれば何でも・・」(するよ)と言う翔太の言葉を美香は苦しそうな笑みを見せながら、

 「それは無理。翔太にはできないよ」と遮った。

 「どうして?俺、美香のためだったら・・」

 「この子から降りられる?」美香は5番機の機体に掌を当てコクピットを見上げた。

 「何言ってんだい。そんなこと・・」

 「できる訳ないよね」悲しげな目で翔太を見て「嫌な女でしょ、私」と目を伏せた。

 美香に何があったんだろうと翔太は思った。空に憧れ、飛行機が好きで、いつも生き生きと楽しそうに戦闘機を整備していた美香。今思えばそんな姿をここ最近は見てはいないような気がした。何が美香を変えたのか?

 「話してくれないか・・美香」

 美香は少しの間考えていた。話せば翔太を苦しめることになる。でも、自分の気持ちを知ってもらいたい。そして、助けてほしい。あなたに。

 「私、翔太が空に復帰した日に気付いたの。・・あの日、翔太が飛んでいる間、ずっと心配で不安で胸が苦しかった。もう、以前のような気持ちで翔太が飛んでいるところを見られなくなったの。墜落したら、翔太を失ったらって」震えた息を静かに吐いて「毎日が怖いの」と声を絞り出した。

 「美香・・、だいじょうぶ。たとえ、こいつを失っても、俺は美香のもとへ帰ってくるから」5番機に手を当て美香を安心させるように言った。

 「そうね、あの時みたいに翔太なら上手く脱出できる。何度もそう思おうとしたの。何度も」目を伏せゆっくり頭を左右に振り「でも、もうだめなの」そう言うと美香は翔太を見て口元に不自然な笑みを浮かべた。

 「私ね、しばらく実家にいるわ。もし・・」口ごもり5番機を見上げながら機体に触れ「ごめんね」と声をかけ、それから翔太に視線を戻し「翔太がこの子から降りられるのなら・・待っているわ」と一縷の希望を絞り出した。その眼差しは救いを求め、悲しみを映し出していた。

 「美香・・」

 「私って、ずるいでしょ。ずるくて嫌な女でしょ。もう・・もうどうしょうもないの。こんなに自分が弱くておかしくなってしまうなんて・・」

 翔太は言葉を探した。どう言えば美香を引き留められる?どう言えば美香を助けられる?だが、探しあぐねて、ただ、美香を見つめるばかりだった。

 「嫌いになったでしょ、私のこと。その方が楽かも・・」美香の口元が震えている。

 「さよなら」美香は翔太に背を向け小走りで去っていった。

 「美香、待って・・」声を出して引き留めようとしたが足は前には出なかった。何て声をかければいいんだ?戦闘機から降りるって言えばいいのか?そんなこと俺に出来るのか?そんな考えが翔太の足が前に進むのを遮った。俯き加減に走り去ってゆく美香の背中を目で追うばかりだった。

 「俺は・・、俺は」なんて情けないんだ。美香があんなに苦しんでいるのに自分のことしか考えられない。最低だ。翔太の呵責と自己嫌悪が喉から吐き出され格納庫に響き渡った。

 背後に翔太の叫び声を聞き格納庫から外に出た美香を弥生のやわらかい闇が包んだ。春の霞が溢れる涙を覆い隠すように優しく美香の頬を撫で、漏れ出る嗚咽は闇が吸い込んでくれた。優しい闇に抱かれ悲しみを抑えることなく泣きながら美香は走った。

 翌日、美香の姿を松島基地内で見ることは無かった。

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