武蔵野閑遊

椿恭二

武蔵野閑遊

 妻と口喧嘩をした。私憤を晴らしても自分に嫌気が差し、晴らさなくても頭を抱えるという性分なだけに、外套を羽織って早々に家を後にした。今にもシクシク始めそうな女を前にしているよりは、呑み屋に出る方が良かった。

 初冬。東郷平八郎元帥が逝去し、帝人事件が起きた年だった。

 私は荻窪駅北口前、青梅街道角にある、行きつけのおでん屋へ向かう。この界隈は震災後より文士たちの巣窟である。とは云え、近辺に大した食べもの屋はない。洋品店、提燈屋、下駄屋、布団屋、時計屋、それから駐在所。

 早く連中のどんちゃん騒ぎで、妻の目に薄ら浮かんだ涙を払拭したかった。

 格子越しに灯りの漏れる扉を開くと、湯気から出汁の旨そうな匂いがした。私は隙間風に身体を丸めて、胸を焼く熱燗を舐める。のぼせた大根が臓腑に染みた。味など知らぬ。もっと安酒が良く回り、酔ってしまえば良い。

 暫くするとガラガラと扉が開き、四人組が颯爽と店に入ってくる。常連の文士だ。五尺七寸くらいはあろうか男。痩身で、哀感に耐え忍ぶように猫背で歩く。一人は、背の低い気取った帽子の男だ。同人雑誌か、仲睦まじく話し込む。

 比べて一冊の本も出せずにメソメソして、妻の涙で隠に籠る私だ。薄給を家に入れ、本心では戯作三昧に興じていたいが、夢を語れば互いの小言も漏れる。めとった手前、遊び呆けられないのも性分だと思うと、器の小ささが情けない。文士を気取るにも、金も時間もない。

 刻と酒が深まると、店に剣呑な空気が流れ始めた。奥で長身が、小柄に絡まれている。相当に酒癖が悪い。長身は応じているが、不審と拒絶の薄笑いで余計に酒乱の根性を逆撫でする。

 気が付けば、あっという間に乱闘である。

 四人の取っ組み合いが始まって、床でもみクシャだ。硝子扉が木っ端微塵に割れたのを見て辟易した私は、勘定も疎かに五円払うとさっさと店を逃げ出した。そこへ下駄を抱えた男が、てんやわんやで逃げ出して来る。喧嘩の渦中の長身の男である。

 逡巡して私の姿を見つけると、

「君、歩かないかい?」と云った。

「良いですよ」私は二つ返事で答えた。

「助かるね。ああいう酒癖が悪いのは嫌いなんだ」

 私たちはトボトボと歩き出した。

 男は背後からの追っ手を気にしてそぞろ脚になっている上、随分と酔い草臥くたびれて一層猫背になっている。蓬髪を整え、シャンとしていれば男前なのに、と思った。

 街灯の少ない微かに雪の残った路地が珈琲色に染まり、二人の吐息だけが白んでいた。

「近所なのですか?」

「そうだよ」

 この男、店では見栄坊だ。学生の身分で荻窪なぞに住んでいる。風の噂では実家は青森の名家で、随分と金持ちだとも聞く。

 対して私は甲州を後に上京し、原稿を書いて日銭を稼ぐのに心身精一杯で、今は妻の親の持ち家だ。

 しかしこの鉄道沿線、妙な居心地の良さがある。道端の雑木林を見ると、故郷の山々の尾根が頭を過ぎる。

 我ら都にて母を捨て、書くこと、生きることに疲弊せねばならない。落葉から乳臭い香りが鼻を突く気がする。喧騒を忘れて迷い込んでしまえば、胸の中に包まれるよう安眠できるかもしれない。都会では、現代人ぶらなければならない。恋路も悪くはないが、この男も、文士連中も、遥か故郷を後にしてポッカリ空いた何かを、この雑木林で埋めようとしている。皆が皆、心の片隅には失った母なる大地を抱えている。

 だから、酒を呑まずにはいられない。

「君、夫婦喧嘩でもしたのかね」

 私は気恥ずかしさで曖昧に返事をした。

「ダメだよ、細君は大切にしてやらねばならないよ」

 はあ、と嘆息した。

 男、薬とカフェに入り浸り、情婦絡みの醜聞ばかりが耳に入る既婚者だ。生意気に細君は、ときた。そちらの夫人こそ気苦労は多かろうに、と内心思う。

「散歩が良い、散歩だ。女の機嫌を直すのには一番だ」

 歩いて酒が良く回ったのか、饒舌に語る。

「では、銀座にでも連れて行きましょう」

「ダメだ、ダメだ。銀座なんてキザだ」

「では、何処へ?」

「決まっているだろう。郊外閑遊こうがいかんゆう、郊遊だ。良いかい、文士は皆、国分寺や小金井へ行くものなのだよ、君。こいつもキザだ」

 そう云って男は、喧嘩などスッカリ忘れてしまったか、眉を下げて愉快に笑う。金歯が見え隠れするが、拭えぬ自己憐憫がある。

 私も釣られて吹き出した。

 十字路に差し掛かった。男は右。私は左だ。

「ありがとう。では、失敬」そう云って、二重回しが闇に消えた。

 その背中は、今にも川の飛沫に消えていきそうな孤高があった。

 私が男と話したのは、それが最初で最後だ。

 家に帰ると爆ぜる火鉢の横、ちゃぶ台を囲んだ背中がある。名家の出で、凛として気立てが良い大層な美人だったが、最近は草臥くたびれている。私のせいだと思うと、またこれ気が滅入る。

「お早いのね」私には振り返らない。

「ああ、乱闘があってね。逃げてきた」

「家でも喧嘩、外でも喧嘩。荻窪で呑む人は」

「ロクデナシばかりだ。明日、散歩でも行こう」

「何処へ行くの?」

「国分寺村だ」

「イヤ、そんな所」

「ダメだよ、行くんだ。郊遊だ。キザだろ?」

 妻は振り向くと、此方に真っ直ぐ視線を向けた。そして目尻を下げ口元を綻ばすと、情けない文士崩れの夫に対して、馬鹿ね、という同情とも憐憫とも違う、何とも云えぬ表情を見せた。

 そして、すっと立ち上がると、私の外套を丁寧に脱がせた。


 私と妻は甲武鉄道に乗ると、南下する車窓から外を眺めていた。

 流れる冬枯れは一寸前の記憶を消し去り、また新たな光陰を産む。私も妻もその刹那に走る閃光で、気まぐれな時代にたまたま交錯した人生だ。

「国分寺村なんて、武蔵国分寺の仁王門にでも行くのですか?」妻が不思議そうにしている。

「そういうのは抜きだ。尋常小学校の勉強は忘れちまおう」

「でも、他に見るものなんてあるのですか?」

「江戸の頃に新田開発が行われ、幕末まで徳川の御鷹場だろう。林地田圃のそこに、最近、萩山まで多摩湖鉄道が開通したときた。今年になってからは、下河原線が競馬場に引込線を設けて、開催時には運行もしているらしい。田舎なのに面白そうだ」

「荻窪だって田舎でしょう」妻は何処か不満そうだ。

「あそこはもう都会が来ている。しかし、国分寺。最近になって地価高騰とも聞く。更に奥へと、それが郊遊だ」

「そんなものですかね」

 国分寺停車場で電車を降りて、三角屋根の駅舎を背にすると欅並木が広がる。米屋、八百屋、牛乳屋、肥料屋、燃料屋、材木屋、薪炭屋らが続く。洋館の医者もある。明治大正の頃より別荘地として売られ、駅前に立派な別邸もある。鉄道開通で街道沿いの宿場の府中から人が流れたのかもしれない。だが、矢張り辺りは雑木林と田畑の方が目立ち、その合間に人々の冬籠の営みの気配だけがある。人と自然が逆にある。

「あなた、少し歩きましょう」

「ああ、美しい村だ」

「でも、近くに工場もあるみたいね」

「南部銃製造所が此方に来たと新聞にあった。戦争があると変わるものだ」

 私たちは古い民家の軒並みを背に、幽寂に冬枯れした雑木ばかりの方へ歩を進め、透明な迷路に迷い込む。

 妻は気分が良くなっていた。

「お前、此処は荻窪でもない。故郷の山々でもない。東北や西国でもない。本当に東京なのかね」

 私もいつの間にか、郷愁を耐え忍ぶように猫背になる。

「おかしな人。寒いけれど見事な見晴らしね」彼女は両手を広げた。

「都会が来ていない。僕も都会人らしくしなくても良いのかな」

「また、おかしなこと」

 無理して妻にも都会にも文化人を気取る。しかし、この枯れた田畑と雑木林だけの世界は、逆に内へと籠らせる。もっと奥底まで自分を追いやり、そこから世界を描画してみたい欲望に駆られる。同時にお前は一人であるべきだ、孤独でなければ立ち入れぬぞ、とうそぶく風がある。妻が、まるで禁忌である気さえもする。

「僕は一人なのかもな」

 浮き足立って、先行く妻の後ろ髪が見える。妻とは何なのであろう。

「何を仰るの。ずっと私と一緒じゃない」

 この村は狂おしい程、愛おしい。余りにも寂しいのに壮麗だ。

 ふっ、と振り返った妻の笑顔もこの大地と同じで、私はハッと我に帰った。

「矢っ張り、あの男のたぶらかしそうなキザな趣味だ」

 妻が畦道から、僅かに葉を残す木々を見つめている。

「あなた、入れるかしら?」

 母なる場所へ、ようやく私は足を踏み入れるのだ。

「雪があるわ、危なくないかしら?」

「見てごらん。コクラ、クリ、クヌギにイヌシデの広葉樹だ。人の手の入った落葉林だよ。古代のシイやカシはもうないが美麗だ。足元に気を付けて」

 二人して先へ進み、ザッザッと踏み鳴らすと、残った雪が靴底で弾けて泣く音が響く。焦がれた落葉の雀色、鳶色、栗色が土を隠している。枯葉と枝の影が斑に落ちて、木枯らしと共に陰影を変える。

 此処は懐かしい。訪れたばかりで私は何も知らないのに。

「濡れるが、座ろう」クヌギの袂に座した。

 妻はそれに従って、私に肩を寄せた。

「この村で、二、三年、二人だけでゆっくりしようか」

「それも良いかもしれないわね」

 しん、として百舌がチリチリと鳴く声だけがする。

「此処もいつか変わってしまうのかしらね」

「そうさ、どんどん人が入って来るからね。ビルヂングが出来て、辺りを一望出来るようになるかもしれないよ」

「百年後にはどうなっているのかしら」

「案外、若者ばかりの音楽や美術の街かもしれない」

「また、そうやって揶揄からかって」

「いいや、人が街を作る。でも自然が人を作るんだ。そこで物語が生まれる」

「ロマンチストね」

「ロマンチストさ。そうでなければ、こんな仕事やってられない」

 ほら、もうすぐ黄昏る。

 いっそのこと、此処で月でも見ようかしら。

 凍えてしまうさ。

 妻の横顔を見た。空から注ぐキラキラと乱反射する木漏れ日が、今まで見たことのない程、彼女を可憐に仕立て上げた。

 百年後に、私と妻はどうしているのであろう。

 私は目を閉じると、ここでいつかまた二人で肩を寄せられるよう静かに祈りを捧げた。


(了)

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武蔵野閑遊 椿恭二 @Tsubaki64

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