おかあさん

尾八原ジュージ

おかあさん

 風呂掃除は主に母の仕事だった。毎晩家族全員が入ったあとにすぐお湯を抜いて、その日のうちに洗ってしまう。

 そのとき、何かが母に声をかけるらしいのだ。

「なぁにー? まりちゃん?」

 風呂場からのんびり呼びかける声を、わたしは何度も聞いたことがある。

「呼んでないよぉ」

「あら、またなの。何でか呼ばれたような気がするのよね」

 何がそんな風に聞こえるのかしらね、と母は首を傾げていたけれど、その実さほど気にしてはいない様子だった。


 ある夜、課題を終えたわたしがキッチンで夜食を食べていると、風呂場から水音がする。ああ、母がお風呂を洗っているな、と思っていると声が聞こえた。

「なぁにー? まりちゃん? あっ!」

 大声の後、途端に水音が止んだ。風呂場からスウェット姿の母がふらふらと出てきた。

「どうしたの? お母さん」

 わたしが声をかけると、母は「まりちゃんじゃなかったのよ」と答えた。

 その顔は極端な笑みを浮かべていた。目尻を下げ、唇の両端をいっぱいに吊り上げたその表情は、見えない手が母の顔を押さえつけているように見えて、わたしをぞっとさせた。

「ちょっと、お母さん!」

 大声で呼びかけると、母はぱっと普段の顔に戻った。

「お母さん、ちょっと出てくるから」

 そう言ってスウェットのまま出かけていった母を、わたしは近くのコンビニに行くのだろうと思って見送った。それくらいよくあることだったのだ。でも何気なく風呂場を覗くと、珍しくバスタブの中に泡が残っていた。厭な予感がした。

 母はコンビニには行かなかった。徒歩十分ほどのところにある踏切に足を運び、回送電車に飛び込んだ。

 遺書の類はなかった。


 専業主婦だった母がいなくなり、遺された父と兄とわたしで家事を分担することになった。一番不器用なわたしに、風呂掃除が回ってきた。

 母がやっていたように、わたしも皆が入り終わったらその日のうちに栓を抜き、風呂を洗うことにした。

 スポンジでバスタブや椅子を擦り終え、床にも一通りブラシをかけて水を流す。母のことを思いだして涙が出そうになる。そのとき、

『おかあさん』

 水音に紛れて、女の子の声が聞こえた。

 わたしはシャワーを止め、脱衣場の方を見た。誰もいない。

 水に濡れた素足の下から、じわじわと怖気が上ってきた。



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おかあさん 尾八原ジュージ @zi-yon

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