兵どもが夢越えて



「あら~、かわいいわね、ダダデド、ダダデド」

「ダダデドね~。ほんと」

 体毛がクルクルとしたケットシーを、おばさま二人が可愛がっていた。そんな町の広場の噴水の傍では、魔術師の男が魔法を使って人々を喜ばせている。その諸手もろてからほとばしる魔力は花火のような華麗さで、思わず見とれてしまいそうだった。

 いや、違う。自分はケイを探しているのだと、ドリーは頭を悩ませる。同時に泳ぐ目で手掛かりも探した。もしかしたらこの町に彼女がいるのかもしれないし、そもそもこの夢は彼女のものではないのかもしれない。今のところ、どうも彼にはこの世界で彼女の気配が感じられない。もし彼女が自分のことを探し求めているのなら、心にその実感があるはずだった。自分が求められているという実感。それが現実世界であったかは忘れてしまったが、とにかく夢では最も頼りになる道しるべである。だからおそらくここにはいない。ここはケイの夢では無いのだろう。

「ケイさん! どこですかー」

 大声を振り絞って呼びかける。すると周囲の人々も一緒に叫び出した。建物の屋根にとまる鳩すら叫び出す。

「ケイさんはどこですか」

「ケイさんはどこですか」

「ケイさん! ケイさん!」

 群衆の声を快く思わなかった黒の魔術師が、黒魔術で様々な妨害をし始めた時、彼の頭に直感が舞い降りた。向こうの森だ。

 直感に合わせて振り向くと、大通りの一番向こうには開かれた門があり、その先には森がある。黒魔術の極悪非道な魔法を避け、群衆を倒しながらようやく森にたどり着くと、また一段と「ケイの実感」が強くなる。夢ならではの能力に誘われて次々進むと、一つの小屋があった。

「ケイさん?」

 そこには一匹の猫がいた。先ほどのケットシ―だ。ドリーはその猫を、一瞬でアイルランドの王女であると知る。可哀そうに、悪い魔女に姿を変えられていたのだ。よく見ると、首輪には真っ青な宝石が埋め込まれている。やはり、王女だ。

〈こちらが、先日行方不明になったアイルランド王女、メアリー王女です。ご高齢ながら、その年をまるで感じさせない見事な剣さばきで〉

 その姿は確かに老婆だったが、ドリーの記憶ではまだ十六のはず。しかもメアリー王女が剣術とは考え難い。この猫は、では。

「ドリーさん、また会えました」

「あ!」

 驚くしかない。ケイはあのアイルランド王女だったのだ!

「ケイさん、王女だったんですね!」

「え? あのテレビの? 違いますよ」

「あれ」

 ドリーはそれで、自分の意識が夢に侵食されつつあることを知った。

「じゃあ、僕はちょっとこの夢の影響をかなり受けてるらしいです」

「大丈夫ですか」

「やあやあ! お嬢様方、大丈夫ですか?」

 突然小屋の粗末な壁をぶち壊して、白馬の王子様が姿を現す。

「えっとぉ」

「我こそは、黒猫のピュアハートを持つ、フランス駐日大使アドルフにして、親善講和条約を結ぶもの!」

 収拾のつかないことを言い始めた王子は、腰に佩いていたエストックを抜き、それを真後ろの森めがけて勢いよく突き付けた。すると、夢が変わる。王子もいないし、もちろん小屋の外は森ではない。古き良き、日本のあぜ道だった。それも日の明かりが一切ない、深夜の田んぼ道。

「なんか、すごい、怖いです」

 ケイは異様におびえている。確かに街灯は一本もなく月明かりのみで、現実世界なら、ひとたび足を踏み外すだけで大けがをする恐れがある。だが、ここは夢の世界。足を踏み外したとしても

「あ!」

 死ぬわけでも、怪我をするわけでもない。ケイは過度な恐怖が祟ってか、足を滑らせてそのまま夢から脱落してしまった。一人になっても、ドリーは進むしかない。こういった暗い夢には、経験上何かしらの事件やきっかけが起こることが多い。彼はそれをじっと待つ。地面に触れても手や足に泥が一切つかないことを確認して、彼はその場にあぐらをかいた。さきほどまで彼らがいた小屋は消えている。

 月はとても黄色く、大きい。満月である。見とれていると、ようやく夢が動き出した。かすかに聞こえたのは、汽笛。いつか、病院が汽車になって飛んで行ったことがあったが、今度は本物の汽車の気配がした。どんどんこちらへ迫ってくる。線路は無いはずだったが、身を乗り出して覗くと、畔道がそのまま線路にかわっていた。ついに光が見える。黒煙も、宵闇に馴染めずにはっきりと見えた。そしてその汽車が轟音と振動をもって最接近したとき、彼は強い風を感じ、その汽車の中に移動していた。

「お客様、月の紹介にあたりましょう」

 どうやら老齢の車掌自ら、月を見せてくれるようだ。黙って彼についていくと、汽車の最後尾にたどり着く。その扉を開けると、背後は一面の湖だった。

「あれが、満点の満月です」

 車掌は水面に写る月を指す。

「そしてあれは、最悪のおぼろ三日月です」

 いつの間にか空に浮かぶ月は三日月となっていた。また異様に強くなった風により、水面が波立つ。それによって湖に写る月ももやもやとぼやけていた。

「おぼろ三日月世もつれづれ。赤の魂烏滸おこの沙汰。月も終点です」

 その言葉を最後に、車掌は動かなくなった。またそれは汽車も同じで、そういえば振動も、黒煙を吐く音も、あらゆる騒音が無い。汽車すらぴたりと止まっている。周囲は相変わらず畔道だったが、左を見るとかなり近くにスーパーがあった。彼はその中へ、無意識のうちに入店する。

「ばっきゃろう! 早く目障りな服を脱げ!」

 いきなり後頭部を殴られたドリー。中は銭湯だった。いや、品物も並んでいる。ここは何なのだろうか。ただ一つ、裸にならないと殴られることはわかっていたので、急いで服を脱ぐ。そしてロッカーから桶とタオルを取って陰部を隠す。

「あの、そこ私の席なんですけど」

 ひとまず体を洗おうとすると、若い女がそう言う。何か細かな文字が書かれた葉書を見せているが、よくわからない。ただ従うに越したことは無いので、席は譲る。看板を見れば、ここは銭湯スーパーらしい。野菜やキノコ、海産物が売られている入り口付近にシャワー席があり、その先には中央風呂がある。そこまでの通路からして足湯のような温泉で、人々はこうした足湯や湯船につかりながら買い物をする。

「ごめんなさい!」

「ああ、いえいえ」

 ケイが合流した。曰く、尿意で起きてしまったと。ただ他の来店客や自分と同じように彼女も裸であり、互いに隠すところは隠しているとは言え目のやり場に困った。

「あのう、ちなみにですけど、ドリーさんは、この夢の世界になぜいるのかとか、分からないって言ってましたよね」

「そうです」

「現実世界、戻りたいですか?」

「まあ、戻れるなら戻りたいと思いますけど、どうすればいいかわかりませんし、そもそもぼく、ほんとは夢の世界の住民で、現実の人ではないかもしれませんし」

「じゃあ私が捜索しますよ」

「そんなことできるんです?」

 気まずさのあまり俯きながら話していたドリーが、思わず顔を上げる。ケイは目を合わせることこそできなかったものの、首を数回縦に振る。

「私、動画投稿してて。あと昔はイラストを練習してたんです。だから、ドリーさんの顔と、ある程度の情報を現実にもっていけば」

 ドリーは思う。彼女は女神なのではないかと。実は夢を司る存在だったりするのではないか。夢の人物とは意思疎通ができないのに、彼女とはきちんと会話ができる。またそれ以上に、彼女とはもう三回、夢を隔てて会うことができた。それに、彼女の正体がどうであれ、彼女が提案してくれている。ドリーだって、自身の存在がはっきりするかもしれないし、運がよければこの世界から抜け出すことも可能となる。乗らない手はなかった。まさか、夢の中での詐欺など出来るはずもない。

「お願いします。ほんと、できる限りでいいので」

 湯けむりに包まれたケイは、より一層女神のように彼の目に映る。



「だから、あなたは現実では、鳥居悠平とりいゆうへいって名前の、えーっと、人間で、病院にいるらしいんです」

「だからか!」

 夢はファミレスで、叔父の最後の晩餐に参列するというものだった。ドリーはそこでケイと合流を果たし、ケイは現実で手に入れた情報を説明していく。

「僕は、ずっと幽閉ドリーって名前を引きずってたんです。もうかなり前に訪れた夢で、占い師の女の人に言われたもので」

「ほんと! じゃあやっぱり、私の情報は間違ってなかったんですか。安心しましたよ。それじゃあ、ドリーさん、もとい鳥居さんの現実での状態だけど、あなたは三年前におこしたバイク事故で脳に損傷を負って、今は三年間昏睡状態らしいんです。お母さんに話を聞きましたので、間違いないかと」

「あ、それも……、いえ、何でもないです。そういうことでしたか」

 ドリーには心当たりがあった。今思い返せば、今まで見てきた夢の中で、彼に関する情報がたくさん出ていたのだった。しかし、何も知らない彼にとって、そうしたかすかな情報の関連性から自分の記憶を蘇生させるのは至難の業。ケイは本当に現実世界で調査をしてくれたのだろう。そして彼の心を、今覚醒させようとしてくれている。だが、やはり彼女すら、ドリーの心が生み出した存在かもしれないということは、完全に否定できない。この世界そのものが彼の作りものかもしれないし、彼は現実とか夢とかを越えた存在なのかもしれない。では、彼の存在意義は? 彼は誰? 自分は何者で、ケイは実在するのだろうか。そんなことを考えても仕方がないことなど分かっていたが、もう長い間夢の中にいるためか、「思考の独り言」が増えていた。

「ドリーさん?」

「ああ、すみません」

「あ、いえいえ。でも、もう一通り説明は終わりましたから、大丈夫です」

「まとめると、まず僕は現実世界の、というよりケイさんと同じ世界の住民で、僕はバイク事故で昏睡状態になっていて、今はそれによる、夢の世界をさまよってるってことですよね?」

「おそらくは」

「スパゲ***、と、**」

「え?」

 いきなりドリーは肩を叩かれる。そこには叔父の姿があり、何かを離しているようだった。ただその声はかすかに聞こえるだけで、全く言語としての機能をなしていない。

「や**、が*****」

「聞こえないんです!」

 聞こえないのは雑音のせいだった。人々の話し声はどんどん耳に入って増幅するし、あるいはカレーのルーをスプーンで掬う時に鳴る、カンカンという音が、鼓膜にこびりついてくる。また、そのせいで困っていたのはドリーやケイだけでなく、叔父もそうだったし、ウェイターから招待客なども皆困っていた。見ると、レジ横のステージには、あの大人気タレントが何やら演説をしており、どうやらこの騒音は、それに対する歓声らしかった。 

 こんな場所のこんな環境ではとても話し合いなど出来るはずもなく、ドリーとケイは必死に身体言語を用いてこの場所を離れることに合意し、店を出ることにした。そうしていざ出てみると、そこは普通の街中などではなく、アメリカや南米によくある荒野だった。また、ケイの場合はどうなのかわからないものの、ドリーの視点は自分の頭上を真上から俯瞰するような、一昔前のゲーム的な視点となっている。ただ、別に体の操作に難があったわけでもないので違和感はない。それよりも大変だったのは気温で、こうした夜の荒野に似つかわしく、上着を着た二人ですら思わず腕を組んでしまうような寒さだった。

「とにかく進みましょう。火を起こさないと」

 これまた夢の直感によって、二人は迅速に行動することができた。いくつもの丘を越え、意味不明な巨大建造物を三つ過ぎたころ、突如として空から宇宙船が降ってきた。外見は深緑色で、冬眠ポットが三つとたくさんの物資が周りに散らばる。二人はすぐさまその物資を漁り、無事火打ち器具を使って焚火を起こし、携帯食料を食べることで食欲も満たすことができた。

 荒野の中、キャンプファイアーを前にして語り合う。これもドリーにとってはどこか記憶に引っかかるところがあった。恐らく自分はキャンプが好きだったのだろうと思いを馳せていると、突如として警告音が鳴る。これは夢による処理で、二人の脳内だけに響いていた。

「人狩り集団ですって」

「はい。僕も、知ってます」

 ケイがいると何かと襲撃されがちであることを思い出し、それも彼女の本質によるものなのだろうかと、ドリーが悩ませた。その思考を中断させるようにして遠くから迫ってきたのは、狂犬病に罹って怒り狂ったモルモットの大群である。

「ピュ、ピュウ太、なんで」

「ペットですか? ケイさんの」

「うーんと、私のっていうより、夫が世話してくれてるので、どっちかと言えば夫のかもしれないです」

 だが、事態はそんな呑気な会話ができるほど和気あいあいとしたものではない。ピュウ太をはじめとする狂犬病のベクターたちは、常識的なモルモットの速度よりもかなり速い。それで二人は考えて、焦る。このままでは追いつかれて殺されることは必死だった。

「宇宙船は」

 ケイが指摘する。突然の声掛けにより鼓動を早くしたドリーが機体の確認に向かうと、突如としてその残骸は、残骸なりに変形してスクラップバイクと化す。

「乗って!」

「運転できますか?!」

「早く!」

 意外なことに、ケイもバイクを操縦できるらしい。しかも、彼女の走りは荒々しくも、あらゆる障害物を避け、常に最適解で動いているようだった。モルモットの大群はみるみるうちに遠ざかっていくが、俯瞰視点の二人にはまた新たな心配事が芽生えつつある。この宇宙船から散乱していた冬眠ポットから、ドリーの父親がものすごい殺気をもって体を起こしていたのだ。そして彼はすぐさま超人的な速度で走り出し、ものの数秒でバイクに差し迫ってきた。

「ケイさん! もっと出せます?」

「いや、これ以上は無理そうです」

「麻雀をするなよ!」

 ドリー父は夢の住民らしく、意味不明な言葉をまき散らしている。麻雀を禁止しているということは、それをやっていないといえば説得できるだろうか。二人の考えが一致した。

「ねえ、麻雀なんてやったことないんだけど!」

「賭け麻雀で役満チューレン上がったのは誰だあ?」

 説得どころかさらにその怒りを引き出してしまいそうだったので、次の作戦に入る。いつの間にかケイの思考とドリーの思考は繋がっていた。だから今や、次なる行動を二つ分の頭で考える事が出来る。

「これ」

 ケイがどこからともなく取り出したのはスモークリーフだった。これを口に含み、毒霧の要領で拡散して吐き出すらしい。

「あああ! クソ! 緑一色リュウイーソー

 スモークリーフの液体を吹きかけられた彼の顔や体はたちまちしわくちゃになり、緑色に変色しているのに、それでも、ドリー父は走るのを止めない。ドリーはもはや、この怪物を自分の父親だとは思わなかった。たとえ思っていたとしても、哀れみなどは一切ない。自分たちの命を脅かす存在だったからだ。

 そして四つ目の巨大建築物が目に入ったころ、ついにドリー父がバイクに横づけをする。たまらずケイが蹴りを入れる。ドリーも真似をするが、よろめいた父親に噛みつかる。二発目の蹴りでついに父親は倒れて動かなくなったものの、その代償として、ドリーの右足は、もう「麻酔なしでメスを入れて五つに肉を分割して膿を出さなければならないほどに化膿」してしまったが。

「もう、ここで終わりかもしれませんね……」

「え?」

 どうやらケイの方が、より遠くまで見渡せる視点を持っているらしい。彼女の視点を借りると、ここから五キロほど離れた場所に、サイクロンの魔神である、スピネルがいた。彼もまた緑の様相を呈している。そして彼は暴風と天災の化身であるがゆえに、近づきつつある夢嵐をも自らの体に引き寄せようとしているようだった。

「スピネルが来たらもうおしまいだ」

「ドリーさん」

「ケイさんは覚醒できるでしょうが、もう僕はここで死ぬんですよ」

 ドリーは化膿した右足を絞り、たくさんの膿を出す。それによって、もはや右足は骨と皮だけになっていて、とうてい歩行など不可能だった。この間にもスピネルは高速で急接近している。彼は既に夢嵐の一部と融合していて、肉体から解放されている。しかしその顔だけが精神体として、緑と黒の陰翳をもって、嵐の中央に泰然と浮かんでいる。

 とにかく彼らにできることは、そのスピネルから逃げること、それしかない。ケイの視点によれば、スピネルは既に赤い屋根の小屋を巻き込み、今や巨大建造物すら飲み込もうとしている。しかしフルアクセルで逆方向に進んでも、なぜかスピネルから遠ざかることはできない。彼はもう、二人が思っている以上に巨大化しすぎているのかもしれない。遠近法が混乱するくらいに肥大したスピネルは、二人の視点を合成しても距離感がつかめなかった。下手をすればもうあと数メートルの場所まで迫ってきているのかもしれないし、まだキロ単位で差は開いているのかもしれない。

「わ!」

 ケイが急ブレーキをしたせいで車体が岩にぶつかり、二人は地面に放り出された。ドリーは文句を言おうとするが、それらの言葉は彼が知覚した光景によって、遮断された。目の前に、もう夢嵐が迫っていた。後ろにはやはりスピネル。そして前には夢嵐。八方塞がりとはこのことを言う。

「やってみる価値はありますよ?」

 そうしてケイとドリーは一通り考え抜いた結果、もはやその身を夢嵐に投じることが一番の得策であるという結論に至った。ドリーはその中へ突入したことが無く、また夢嵐は夢主の覚醒によって生じる。であるならば、ドリーがそれに巻き込まれれば、彼も覚醒できるのではないか。それ以外の可能性だって無数にあるし、第一彼自身が消滅する恐れもある。しかし、この悪夢を少しでも早く終わらせるためにはそれしかなかったし、こうしているうちにも夢嵐はすさまじい速度で大地を削り取り、今や徒歩で突入できるくらいに、嵐と夢の境界は近い。

「行きましょう」

 頷きあって、身を投じた。その様子はまるで心中のようだったが、それとは違い、二人の心には希望がちらついていた。

 そして二人は、夢律によって成り立つ夢嵐の不思議な力によってあらゆる方向に分散され、拡張され、切り刻まれながら時空を移動していった。これによって、夢の世界と現実は、そもそも異なる世界であったことが、二人の脳内へ直接知らされる。そのまま白い渦に吸い込まれるようにして、二人は意識を失っていく。



 最初に起きたのはケイだった。そして彼女は見慣れた自分の部屋に安心しながらも、わずかな期待を胸に、扉の方を振り向く。そして、間違いなくそこにはドリーがいた。床に横たわって、まだ目覚めていないようだった。奇跡としか言いようがない事象を目の前にして、ケイは、今度は自分が夢の中に入ってしまったのではないかという心配にすら陥る。

「あ」

 それでも、その心配はドリーの覚醒によってかき消される。彼のその目は、いつもとは違った。夢の中とは比べ物にならないくらい生気に満ちている。きりりと見開かれた目からは、数年間昏睡していた間に溜め込んだ、驚異的な生命力がほとばしっていた。

「現実!」

 彼のあまりの喜びように、ケイは言葉を発する隙も無い。そうして五分ほど狂喜したドリーは、ようやく落ち着きを取り戻してくる。

「す、すみません! でもうれしくて!」

「お気持ちはわかりますよ。ここは明らかに現実ですから」

 そういわれて、ドリーはまた笑い転げた。

「と、ところで、その、ここの住所って」

「千葉県のね、東金市、丘山台」

「え、じゃあうちの近くじゃないですか!」

「そうなんですよ」

 ケイは、以前ドリーの母親に会った際に、家がごくごく近所同士であることに驚きを隠せなかった。全世界の垣根をなくすインターネットでつながったにも関わらず、両者はほぼ歩いて五分もかからない場所に住んでいたのだ。こうしてドリーは帰省の為、そしてケイは、彼の母親への連絡のために、二人は鳥居家へと向かった。

 

 扉は、ドリーにとってなぜかとても重々しい。ここが自分の生家であることを嫌でも見せつけてくるために、得も言われぬ重圧が彼にのしかかる。

「開けましょうか?」

「すみません」

 扉を開けると、もやりと暖かい空気に包まれる。全てが懐かしい。情人では感じられないような微細なにおいまで、彼には懐かしい。

「お邪魔します」

 ケイが言葉を投げかけるも、返事はなかった。二人は極度に緊張しながら、居間へと進む。

「うそ、うそ」

 鳥居美知子は夕飯の為に炊飯器をセットしている最中だった。

「うそ、ゆう」

「えっとー、自分昏睡状態だったらしいよね?」

「お母さん、悠平さんをこの世界に連れてきましたよ」

 美知子はわなわな震える手で、悠平の肩に触れる。そのまま腕を触りながら下げていき、腰をしっかりとつかんだ。精神的な衝撃があまりに大きすぎたか、もう彼女は立ってはいられない。膝立ちをしながら、三年ぶりに再会した息子に縋りついた。

「病院は、ああ、嫌そんなことはいいね。ああもう、無事でよかった、やっと起きてくれたんだね」

「うん。ずっと、夢見てたらしくて」

 この親子の絆に、ケイは入る隙がない。少し気まずくもある彼女は思わず俯いて、次に顔を上げた時、自然に窓際へとその目線が誘導された気がした。それで彼女は、見た。窓の外にぴたりと張り付く、いつかの悪夢で襲ってきた黒い靄の人間を、見た気がした。

「ねえ」

 ドリーは美知子に尋ねる。

「ところでこれって、現実だよね」

「もちろんそうだよ。当たり前でしょう?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドリー夢 凪常サツキ @sa-na-e

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ