ドリー夢

凪常サツキ

兵どもが夢の跡



「むーらんどっと、むーらんどっと、蚊はプラン?」

「いえ、結構です」

「蚊はカクンテ」

「それはそれは」

「ぷわんぬ?」

「うん、ぷわんぬ。ありがとう」

 ドリーはメルヘンチックでアニメ調の世界にいた。ドリーというのはもちろんこの男で、外見の特徴は、皆無。徹底的に無個性な一人の日本男児である。ただ、そんな平凡な彼も、このどぎつい原色カラフルな世界観からすれば「地味すぎる」という点で、別の目立ち方をしている。

「レモンええど」

 また別のノームからレモンをもらう。目が痛くなるほどの黄色に多少食欲はそがれたが、それでもさすがは夢の中。酸味は程よく、キッチリ甘い。最高級のレモンだと、一口かじるだけでわかる。

 夢を旅するのも、彼にはもう慣れたものだった。空を自由に飛べる楽しい夢から身の毛がよだつ悪夢まで、彼は一通り体験してきたと自負している。だからこのアニメ世界での振る舞い方は何となく理解しているし、町と城が合体した「お菓子の町城」から出た瞬間、彼のいる世界が一変して、いきなり小綺麗な病院になったことにも驚かない。それどころかあのけばけばしい世界からようやく抜けられたと安堵するほどである。

 ドリーが移動してきたこの病院の夢世界は、見る限りどこまでも続いている。廊下には大きな窓がふんだんに取り付けられており、どこにいてもとても爽やかな日の光が感じられる造りになっている。次に目に入るのが観葉植物で、徹底的に除菌されているであろう純白の院内に、緑色がいいアクセントになっている。

 ただ、何か違和感があった。全てが整っている病院なのに、どこかよそよそしい。そして彼は気づく。人がいなかった。いや、生物すらいない。例の観葉植物は作り物で、近くから見ると途端に美しいとは思えなくなった。また病室の扉は全て半開きで、どの部屋を見ても患者の姿は見当たらない。

 得体のしれない恐怖がじわじわ押し寄せてきたところで、彼はこれが悪夢だと知る。どこを見ても、どこまで言っても、病院の廊下は続いている。皮肉にも大量にある大きな窓の澄んだ透明さのおかげで、どこまでも中央廊下が続いているのを見たのだ。さながら立体迷路。とにかく彼は、夢の主を探すことにした。この夢を司る主に接触すれば、何らかの変更がなされるはずだ。

 出口を求めて足が棒になるくらい歩き続けた彼は、とある院内アナウンスを耳にする。

〈こちら放送部、放送部です。院内の皆様に申し上げます。次の駅は、房総ぼうそう駅~、房総駅~。お出口は右側です〉

 別に、景色は電車に変わってなどいない。彼は今でも入り組んだ病院に立っている。ただ、夢も現実も、全てが何らかの因果関係を持っているはず。だからさっきのアナウンスがどうも気になって、彼は右を見る。何もない。では、左。

「嵐だ!」

 無意識に出た言葉を、自分に言い聞かせる。夢嵐が、遠い平原や林を全てめくり上げるようにして飲み込んでいる。この夢の主が覚醒しているということだった。彼は急いでこの夢からの脱出を図る。あれに触れては一巻の終わりであるなど、触れたことが無くても十分承知している。本能的な恐怖である。

 嵐の音がちょうどかすかに聞こえるくらいになって、彼はやっと放送部を発見する。その一室だけ、病院というよりはどこか公立の中学校を思い起こさせる内装で、奥の長机に一つ、マイク装置がある。

「こちら放送部です。院内の皆様に申し上げます。この病院は、間もなく崩壊いたします。つきましてはー……」

 彼の頭の中に、夢律という言葉がちらつく。夢を改変すること自体は容易ではあるものの、夢は必ずその均衡を保とうとする。だから安易な夢の改変は、全く予測不能なカオスな状況を招く虞がある。自身の身を危険にさらすことになりかねかった。ただ、彼にはもうこれ以外のしようがないのだ。夢嵐の脅威的な力が、やがて院内の床や壁を大きく揺るがしてくる。

「次は、看護士の、ショッピングモール駅~!」

 夢嵐に飲み込まれるすんでのところで目の前に出現した原稿。そこに書かれていたものを読むことによって、病院自体が汽笛を上げて出発した。黒煙を排出しながら、シュッシュッシュと、小気味良いリズムでどんどん夢嵐から遠ざかっていく。そうして林を超え、山を一つ越えた後、病院は目の前に生えたショッピングモールへと、激突した。

 そうして、彼のいる場所は先ほどの無機質な病院から、大勢の人でにぎわう大型のショッピングモールに様変わりした。壁に大きな穴をあけて、また様々なものを壊しながら病院がめり込んだのに、人々は気にも留めない。助かったのだ。もちろん夢嵐の気配もない。あの原稿を信じるとすれば、ここはまた別の夢主の夢世界なのだろう。様々な状況と雰囲気から鑑みて、この夢には当分夢嵐が来ないことが予想された。そしてせっかく楽しげな夢に迷い込んだのだからと、彼はひとまずこの夢を楽しむ決意を固めた。



 彼は夢に閉じ込められている、気がする。というのも別に、彼は本来夢の住人であり、一生夢をさまよっている存在である可能性だってあるから。しかし彼は直感として、自分は現実の人間であり、今はたまたま夢の世界に迷い込んでいるのだと信じている。ただ、もう何年もずっと夢にいる気がして……、そもそも現実とはどんな所かを、すでに忘れかけていた。

 そんな数々の夢を渡り歩いてきた彼にとっても、この夢はとても新鮮なものだった。場所は、だいたいが灰色のドーム状の建物。そのど真ん中。目の前には、植物状態の男が一人、大きなリクライニングチェアに寝るようにして座っている。ただ、彼は大きなヘッドセットをかぶっており、口から上は見ることが出来ない。また体もその椅子に深く沈みこんでいるため、体型、体格、身長などもよくわからない。恐らく体が直接その椅子と合体しているのだろう。その椅子の後ろには極めて太い金属の管が六本垂れ下がっており、遠くまで続いていた。彼は何者なのか。

 ただ、夢特有の直感によって、彼を取り囲む機材に触れると感電するのはわかり切っていたので、詮索はやめて周囲を探索する。

 この建物はだだっ広い。グレーでまっさらな床に、所々重厚な本棚がおかれており、その題名一つ一つが何やら見覚えがあった。『バイク大全』、『エンジンの機構』、果てには『ワンダー・オブ・ザ・オベリスク 徹底コンプリートガイド』まで。幼いころ読みまくった記憶があるその攻略本を手にするが、いざ見開いてみれば、なぜかモンスターのイラストが全て様々な木々の葉脈の写真に入れ替わっていて、全く楽しめなかった。

 そんな本棚の領分を超えると、お次は「眉目秀麗な」バイクがまばらに放置されている。

「嘘だ、こんなバイク、一体だれが」

 ドリーはこれが夢だとわかっているから、欲に忠実に、バイクにまたがる。エンジンをふかすと、これまた懐かしい感じがした。初めてではない、しかし慣れ親しんでいたわけでもない。でもそんな違和感は、どうでもいい。

 彼は運転すら容易い事を知ると、どんどん速度を上げて、たくさんの本棚の間を通り抜ける。吹き付ける風で速度を感じるのが、彼にはとても心地いいのだ。そしてあの装置に繋がれた男のことを忘れかけていたころ、カーバ神殿を思い起こさせるような、黒い立方体が見えてくる。近づくと、本当に隙が無い形状をしており、調べると四方の内一面にだけドアが一つあったので、中に入ってみる。内装は、正面一面を小型モニターが無数に占領していて、よく見れば、その映像は全てドリーが体験したことがある夢の光景だった。そこにはあのファンシーなファンタジー世界もあったし、無限回廊を持つ病院や、例のショッピングモールまである。そしてその最後は、見慣れぬ一般家庭。そのひとつ前が今の、椅子と融合した男の夢であることからして、次の夢はそこなのだろう。妙な納得感をもって出口の扉を開くと、やはりそこはさっきの映像で見た、家の中だった。 

「ちょっと食事を」

 夢の中とは言え、生命維持のための栄養補給だけは必要なのだ。彼は夢の旅人。現実とは違い、夢ではとにかく食べられれば良いのだが、その最低限腹を満たせるものですら、彼はもう四夢の間、口にできてなかった。だからこの、いかにも生活感あふれるシーンで栄養補給をしておく必要がある。見れば見るほど、そこはドリーと同じく何の特徴もない家だ。だからこそ安心ができるほど夢は秩序立ったものではないが、とにかく彼の腹を鳴らせるには十分だ。

 彼は脱衣所や倉庫を一通り捜索した後、ようやく居間に出る。ゆったりした昼下がり。時計は昼の三時を指している。窓からはそよ風に吹かれる木が見えるし、小鳥のさえずりが心地よい。そしてそんな雰囲気を一気にぶち壊す、黒い人間の存在。シルエットというか、靄というか、とことん捉えどころのない、男か女かもわからない黒い人間が、今にこの夢の主たる一人の主婦を襲わんとしていた。

「あ!」

 大人しい彼にしては珍しく、声より先に手が出た。だがそれでいい。黒い人間は靄らしく、その体に接触した瞬間空気中に霧散していった。バランスを崩して倒れかかるドリーは、その女に覆いかぶさってしまう。羞恥心は、ない。どうせ夢の中、彼はその心持で落ち着こうとするが、

「あ、ありがとう、ございます」

「ああ、すみません」

「えっと、あなたは?」

 ドリーはこのやり取りで度肝を抜かれた。経験上、夢の世界の住民は、例え夢主であろうともその発言は曖昧で、時に不明瞭、また時に意味不明というように、会話が成り立たないのがセオリーだ。ただ、この女は違う。

「え、あなた話せるんですか?」

 そして相手の方も、ドリーの返しと表情、また行動などから何やら奇妙な感情を芽生えさせたらしい。眉をひそめた。

「じゃあ、とりあえずお茶しながらでもどうですか?」

「よろこんで」



「あー、つまりドリーさんは、夢の中を転々としてる旅人ってことなんでしょうか」

「いや、別にそんな、ケイさんが言うようなたいそうな者じゃないですよ。旅人なんて。迷い人って感じです」

 ドリーはこのケイという女のおかげで、ほんのり甘いレモンティーと茶菓子にありつくことができた。それはそれでありがたかったが、今はこうしてきちんと意思疎通ができる人間にあえたことのほうが、格別の希少性を持っている。

「やっぱり、思ったんですけど」

「はい」

「あなたは、私の夢の存在じゃないですよね?」

「そういうことだと思いますよ」

「そうですよね、フシギ」

 ドリーは、自分が彼女の夢の存在でないということを証明できない。でも二人には、こうして会話できていることが何よりの証明になる。ドリーはその唯一無二の経験によって、そしてケイは、ドリーという存在が明らかに自分の意識の範疇を越えていることによって。

「でもほんと、助かりましたよ。お茶菓子まで」

「いえ、どうせ夢の中ですから」

 ケイが小さな笑いをこぼす。二人はだいぶ打ち解けていた。

「でも、ケイさん、あなたはただものじゃないですよね? だって僕があってきた人は、皆全く会話が成り立たなかったので」

「いえ、そんなことは。私はごく普通の主婦ですから。特別な才能とかは持ち合わせてなくて」

「いや、それでも」

 ケイの背後には、例の黒い人間がいた。ドリーが警告の言葉を発するよりも先に、その人間はケイを吸収した。せっかく会えた意思疎通の相手が一瞬で消滅してしまうなんて、これも所詮また夢。そんな悲観的になるドリーに、黒の人間の左手が触れる。すると彼はまた別の夢に転移していることに気が付く。

「ドリーさん」

 隣にはケイがいた。

「ここは、違う夢じゃないですか」

 初めて目についたのは、空を覆う、分厚い灰色の雲。ただそれよりも前に潮風と潮騒を感じる。彼らは今、岬にいた。そうして近場の状況が整理できた後に目についたのは、目の前にそびえたつ、不吉な城。全てが石造りで、その造形だけは素晴らしいものがあるが、無機質さと荘厳さが、より恐ろしい雰囲気を醸す。

「あれ、ラスボスのいる城ですよ!」

「え?」

「この世界、思い出しました。主人がやってたシャドーマインドってゲームです。ってことは恐ろしいというかなんというか」

 その物言いや声色が物語る。とにかくこの夢は、先の夢に続いて悪夢らしい。二人は無言で駆けだした。得も言われぬ恐怖がそこにはある。空から何かが降って来てもおかしくはないし、そこらへんに放置されている屍が動き出すかもしれない。

「敵がいるのなら、武器が無いと」

「いや、それより圧倒的に防具が必要です。例えば大楯とか。ある程度筋力が無いとダメなんですが」

 岬から海を離れるようにして丘を駆け上がる二人は、いつの間にか白い光に包まれて、そのまま城下にまで移動してしまう。

「敵です!」 

 甲冑を着た巨人。背丈は三メートルはあろうその強敵が、二人の視界に入るだけでも五体いた。さらに、遠い空からは翼を生やした黒騎士が来る。甲冑の巨人はその図体にしては足が遅かったが、何せ大股で、二人の全力疾走に十分ついてこられる速さだった。あの大剣や大まさかりで切られては、ひとたまりもないだろう。ただただ逃げまどう二人の横から、さらに別の怪物が現れる。体は例の巨人より一回り小さいものの、横幅はそれより広い。そして上半身はほぼ裸で、手には曲がりくねった、鎌のような刃物を持っている。

「どうにか、しないと」

 だんだんと二人の息も苦しくなってくる。特にドリーの疲れは顕著で、後ろにいくつもの脅威がありながら、既にヘロヘロだった。

「かん、がえて。何か有用な武器を」

「ど、どうすれば」

「念じて、ください」

 ドリーのそんな助言によって、ケイはバラエティー番組でよく見るようなバズーカ砲を手にした。重みはずっしりとしており、見かけによらずその性能は優秀であるということが、撃つまえから想像できた。

「撃ってください」

「でも、ドリーさんの言っていた夢律が」

「撃って」

 あまりに苦しそうなドリーに背中を押され、ケイは一撃を放つ。物凄い反動でしりもちをついてしまったが、爆炎はそれを超えるすさまじさだった。一気に六体の敵を火だるまにすることができた。

「ああ!」

 そしてケイの心配していた夢律は、やはり夢のバランスを保とうとして、空の一部を同じ爆炎で破壊した。蒼天が落ちてくる。雲が落ちてくる。その破片を必死によけようとした矢先、ケイは転んだまま動かなくなった。ドリーは声をかけても一向に動かない彼女を見て、覚醒したのだと知る。となれば。

 夢嵐の呼び声がする。夢嵐が音を立ててこの夢を食らう。それには丸焦げになった巨人も、例の空を飛ぶ黒騎士もなすすべなく飲み込まれていく。ただ彼の、逃げる運命だけは変わっていない。正面は平原だが、走っていてはじきに夢嵐に飲み込まれるのはわかり切っているし、かといって城へは入れるわけがなかった。それでも必死に探し出す。それしか生きる道はない。彼は石材が一つだけ凹んだ石垣を見つけると、それを足で蹴って押し込む。それでどんどんその城壁が崩れていく。そして彼一人が入れるくらい崩れたところで、彼は急いで飛び込んだ。

 一瞬彼は落ち込んだ。なぜなら、見えた空がさっきと何ら変わりのない、不吉な曇天だったから。しかし、幸いにも夢は変わっている。今度は団地だ。但し、ひとけは全くない。それどころか少し前に見た病院のように、生物すらいないのではないかという不安がよぎるほどに荒廃していた。ところどころに不自然におかれたドラム缶からは、何やらドンドンと、心をイラつかせる音が鳴り響いていた。

「ああ? うるせえなぁ」

「お前は金を稼ぐために産んだんだよ」

「元々期待してねえよ」

「こんなの生まなきゃよかった」

「なんだよ」

「文句あっか?」

「うううう」

 いつの間にか、そのドラム缶から暴言が共鳴し始める。ドリーはうずくまって、耳をふさぐ。それでも声は、いやおうなしに鼓膜を直接震わせる。あまりの気分の悪さに身をよじり、必死に助けを願うと、彼自身が浮いた。彼はそのことがわかっていないかのように姿勢を変えない。そのまま、うずくまったドリーは壁をすり抜けていく。六つほど団地の棟を突き抜けた時、その浮遊と前進はふと止まった。暴言も止んでいる。目の前にいたのは少女。九歳くらいだろうか、おかっぱ頭で、かなり古めかしい印象がある。彼女は先ほどのドリーと同じ姿勢で泣いているようだった。思わず手を差し伸べようとしたが、鼻血を出しているのか、彼女のいる場所に血だまりができる。いや、鼻血などというレベルではない。どこか体が裂けているのだろうか。その血だまりはみるみる広がっていく。ドリーはその子が必然的に伝染病持ちであると解釈して、途端に恐ろしくなる。何を考えるまでもなく手を後ろに伸ばしたところに、ちょうどドアノブの感触がある。行くしかなかった。それを捻って開けると、そこは真夜中の繁華街である。ネオンがきらびやかで、人々の雑踏にまみれた、薄汚い夜の街。彼はとにかくその扉の前から逃げた。とにかく走っていると、時間が逆行していることに気が付く。あたりは徐々に明るさを取り戻し、夕暮れとなっていた。景色も商店街から住宅地になっている。

 唐突に、チャルメラのメロディーが全てを貫いた。まさに今、おじさんがラーメン屋台を曳いてやってきている。昔の香りに、塩系スープの良い香り。

「すいませーん」

「毎度ぉ!」

「味噌ラーメンやってますか?」

「あいよー、あんちゃん。それではお控えなすってぇ」

 番号札のかわりか、神社でよく売っているような、紫のお守りが置かれた。客はドリー一人なので、夢特有のナンセンス要素である。

「あ、お控えなすって」

 とりあえずオウム返しするドリー。淡々と作業を続ける店主の手さばきと作業音を聞きながら、彼は夢の中だというのにうたた寝をしてしまいそうになった。



 ケイは、見慣れた自分の部屋で、自分が起きていることに気付いた。何か夢を見ていたようだが、それがどんなものだったか、すでに忘れかけている。もう一度寝ぼけた頭を回転させると、最初に彼の顔が思い浮かぶ。

「ドリー」 

 彼女はイラストレーター志望の学生だった過去を持つ。その時に培った画力で、彼の似顔絵を描く。そしてスマホに、急いで自分が覚えている夢の記憶を書いて、やっと現実世界に夢の記憶を繋ぎ合わせる事が出来た。明晰夢は、小学校の時から定期的に見ている。それでもこれほどしっかりとした夢ははじめてだったし、ドリーの言葉や行動は、彼女の頭だけで作り上げたものとしては、あまりに出来すぎていた。

「はあ~、四時かあ」

 熱いゲップがこみ上げてきた。それを唾液で飲み下すと、彼女はようやく身を起こす。「買い物」という仕事のために。


「おっけーい。サムネ撮り終わったから、もう食べて文句なし!」

 ケイは主婦でありながら、その主婦の日常を動画サイトに投稿する、いわゆる動画主だった。登録者数は約五万人。大きな尺度で計れば決して多くはないこの数字も、日常系動画の投稿者としてはほぼ敵なしである。

「ねえ、今日すごい夢見たの」

「へえ」

「昼寝してたらね、まるで現実世界の人と話すような感じで、何というかすごいリアルなね」

「まあそういう夢もある」

「でも今日のはほんとに、三十二年生きてきて、初めての経験っていうか」

 彼女が今頬張ったのは、みんな大好き時短レシピで作り上げた照り焼きチキン。ドリーのことを一瞬忘れてしまうくらいの出来と出来映えに、これを新たな定番メニュ―とすることに決めた。

「夢ってのはさ、その日の記憶の整理とか、あるいは鬱屈したストレスとかが出てくるから、もし現実に極力近い変な夢を見たってことは、現実に問題があるってわけじゃないのか?」

 ケイの夫が、彼女をじっと見つめる。その瞳はやや心配をかけているようだったが、結局彼の心配は些細なものであった。なぜなら、

「うんわ、この鶏肉すごいね、どうやってつくった? まだある?」

 その言葉を聞いて、ケイも心の平穏を取り戻した。そうだ、ここは夫婦水入らずの場。団欒の場。動画撮影のため、常に整然と片づけられたキッチンと食卓、そして生け花にペットのモルモット。テレビのニュースは、またパンダの赤ちゃんが生まれたと言う。夢の中では黒いあいつがいたが、ここは現実。ケイはドリーではない。ドリーが実在するかもわからないし、所詮一度見た夢だ。ケイは、そんなわけで平穏な心持ちでもって、自慢の料理のレシピを語り始める。



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