――あんた、あんた。

 天女の声が、別の女の声に変わっていく。

 利平は灰色の霞の中で目を凝らした。

 傍らで誰かが泣いている。それが恋しくてたまらなかったお添だと気づいたとき、利平は見慣れた天井の下で寝かされていた。

 お添は枕元に腰かけ、泣き腫らした目で利平を見つめている。呼びかけようとしたが、声は思うように出なかった。身体中が激しく痛み、土の中に埋められているかのように全身が動かない。幽霊でも身体は痛むもんじゃろか、とぼんやり考えた。

「お前には、おれが見えるんか?」

「何言いよん。寝ぼけとるんかね」

「……寝とったんか、おれは」

「ほうよ。三日三晩、ずっと」

 お添が涙を拭いながら笑った。久しぶりに見る笑顔だった。利平も嬉しくて笑った。どうやら、自分は幽霊になり損なったらしい。

「お添、まことすまんかったのう。……おれには、お前しかおらんけん」

 極楽を諦めて死の淵から舞い戻ったくせに、結局言えるのはそれだけだったが、いまはそれで十分だった。お添は両手で利平の手を優しく包み、頬を寄せてくれた。

 お添が言うには、ひどい水害だったそうだ。

 利平は流された後すぐに岸辺の岩に引っかかって助かったが、又次はだめだった。嵐の中ひとりで獲物を獲りに向かい、鹿ノ森山の山崩れに巻き込まれたのだ。

 泥の中から見つかった又次のむくろは、獣用の括り罠に足を縛られていたらしい。神山に向かう途中で、誤って踏んでしまったのだろう。

 利平は「ほうか」としか返事ができなかった。

「ほうじゃ、あんたが寝とる間に、不思議なことがあったんよ」

 お添が玄関を指さした。

 首を傾けてみると、板壁に蓑が掛けられている。あれは、菊に貸したはずの蓑ではないか。

「夜中に物音がしたけん外に出てみたら、それが置いてあったんよ。まさか、お菊さんが持ってきてくれるはずもなし……」

「いや……」

 利平は夢の中で出会った天女のことを思い出していた。

「菊よ。菊が持ってきてくれたんよ」

 傷が癒えた後、利平は天女との約束通り、庄屋様に夢の内容と天女からのことづてを伝えた。息子の又次を亡くした庄屋様は利平の言葉を聞き入れ、村人たちは協力して神山のふもとに小さな社を建てた。社は白蛇神社と名付けられた。

 白蛇河原が本来の穏やかさを取り戻すころ、利平は鮎釣りを再開した。

 河原に菊が現れることは二度となかった。山崩れで死んだのだろうと末造は言ったが、利平はそうは思わなかった。

 きっと菊は、山神様の使いだったのだ。人間の姿を借りて、神山へ入るなと教えてくれていたのに、又次が撃ち殺してしまったのだ――そうだ、あの猪こそが菊なのだ。蓑を貸してくれた利平に恩返しするために、天女になって会いに来てくれたのだ。

 ――いや、さすがに考えすぎかのう。

 鮎は以前にも増してたくさん釣れるようになり、百瀬村の名物になった。やがて城下町からも、鮎を求めてお侍様がやってくるようになった。なんでも当代のお殿様は、鮎の塩焼きが大好物らしい。

 友釣りを習いたいという若い衆も次々と現れた。利平は快く教えてやった。

 そして今日も、魚籠は鮎でいっぱいだ。

「お添、帰ったぞ」

 晴れやかな顔で、利平は妻の名を呼んだ。

 小さな家の中から、鮎が焼ける香ばしい匂いがした。(了)

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鮎の河原―百瀬村白蛇神社縁起― 泡野瑤子 @yokoawano

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