川に飲まれたことは、よく覚えていた。

 おれはもうだめだ、とはっきりと意識した。だから次に目が覚めたとき、利平はもう自分が死んだものだと思っていた。

 はっとして飛び起きると、利平は河原にいた。

 白蛇河原も美しいが、ここの景色は比べものにならない。辺り一面が白く輝いて、水辺には見たことのない桃色の花が咲いている。きらきら流れる川はまるで錦糸で縫い上げたかのようで、しゆうげんの日にお添が来ていた赤い晴れ着を思い出させた。

 ここは地獄ではなさそうだが、かといって極楽だろうか。妻に暴言を浴びせて、助けられずに溺れ死んだ男が来るところは。

 ――そうじゃ、お添は。お添は無事じゃろうか。

「ご心配なく。奥様なら、ご無事ですよ」

 利平の不安を見透かすように、背後から呼びかける者がいた。

「ようこそいらっしゃいました、利平さん。さあ、私と一緒に参りましょう」

 女の声だ。

 利平が振り向くと、白い着物を着た美人が歩み寄ってくる。知らない女なのに、なぜ名前を知られているのだろう。

 しゃりしゃりと砂利を踏む小気味良い音がする。耳慣れぬ言葉遣いも、赤い下駄を履いた足のさばき方も、いかにも品がいい。

「あのう、あなた様は、これからどこへお行きなはるんですか」

「極楽ですよ」

 訳が分からずに尋ねると、女は向こう岸を指さした。

「とても素敵なところですよ。そこではいつでも宴が開かれていて、おいしい食べ物が何でもあり、美しい乙女たちが清らかな声で歌っています。花は散ることがなく、あくせく働かなくても、いつまでも幸せに暮らしていけるのです」

 なるほどそんな場所があるならば、確かに極楽だろうと利平はてんし、そして自分は死んだのだと確信した。

「私はあなたをご案内するために、ここでお待ち申し上げていたのです。あなたには、ご恩がありますから」

「恩? おれは、あなた様にお会いしたことはないはずじゃが」

「分からなくても結構ですわ。さあ」

 女は艶然と微笑み、利平の手を取った。

 さすが天界の女だけあって、うっとりするほど美しい。この女について行けば、極楽へ行けるに違いない。

 それなのに、利平は歩み出すことができなかった。

「どうなさいました? 極楽へ行きたくないのですか? それとも、ほかに行きたい場所があるのですか?」

 利平は頷いた。

「おれを、妻のもとへ帰してもらえんでしょうか。幽霊になってでもかまんけん」

 ここには、お添がいない。もちろん極楽は死人の行くところだから、いないに越したことはない。お添は生きて、自分よりも立派な男と再婚して、幸せに暮らしてくれたらそれでいい。けれども、彼女にもう二度と会えないのか、二度と触れられないのかと思うと、空からお天道様が消えてしまうような寂しさがこみ上げてくる。

「何を言うのです。いちど幽霊になってしまったら、もう二度と極楽へは行けませんよ。あてどなく地上をさまよい、運良く生きている人に気づかれても気味悪がられるだけです。悪霊として祓われれば、その後は地獄でえいごうの苦しみを味わうことになるのですよ」

「それでもかまん。かまんのです。極楽がどがいにええとこでも、お添がおらなんだら地獄とおんなじじゃ。ひと目お添の無事を確かめられたら、それでええんです。どうか、お願いします。この通りじゃ」

 利平は砂利の上に膝をつき、女に向かって土下座した。

「……そこまでおっしゃるなら、仕方ありませんね」

 利平が顔を上げると、女はどこか寂しそうな顔をしていた。

「あなたを奥様のもとへ帰してあげましょう。ただし、私との約束を守ってください」

 女は言った。山神様のお怒りを鎮めるため、神山のふもとにやしろを建てるよう、庄屋様に伝えなさい。そして二度と人間があの山へ立ち入ることのないよう、村人たちによく言って聞かせるのです―。

 女の言葉が利平の耳に染みこんでいくにつれ、河原の景色が色あせて暗闇に変わっていく。いよいよおれは幽霊になるんじゃな、と利平は思った。

 ――よろしく頼みましたよ、利平さん……。

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