翌朝利平が目を覚ますと、雨はもう止んでいた。ただ、依然として空は暗く、またいつ降り出すとも知れぬ。昨日の雨で白蛇河原の水かさも増しているだろうし、今日は釣りに出かけるのはやめることにした。

 お添はもう起きて、台所に立っている。ばたに刺してあった彼女の分の鮎はなくなっていた。食べてくれたらしいが、まだ口を聞こうとはしてくれない。

 居たたまれない気持ちになって、利平は外出する口実を探した。ちょうど、水甕の水が澱みはじめている。

「また雨が降る前に、水汲みに行ってくらい」

 すぐ帰ってくるけん。最後にそう付け足したのは、少しでも妻の気持ちを和らげたかったからだ。

 利平は桶を抱えて外へ出た。

 水汲みは、普段はお添の仕事だ。井戸に行くのは久しぶりだった。村の女が三人寄り集まって、何やらひそひそと話し合っている。

 そらまことかえ……信じられんねえ……。真面目そうな人じゃのに、見かけによらんいうことじゃろか……ほじゃけど、よりにもよって、あの……。

 利平がおはようと挨拶をしたら、みんなぎょっとした顔でこちらを見た後、嘘くさい愛想笑いを浮かべて蜘蛛の子を散らすように立ち去っていった。

 ――おれに聞かれたら困るような話じゃろか?

 帰りしなに、井戸へ向かう女たちと幾人かすれ違ったときも、みな奇妙な物を見るような目つきをしていた。利平には全く思い当たる節がない。

 雨は再び降りそうで、なかなか降らない。お添と畑へ出たり、釣り道具の手入れをしたり、黙々と夕方までを過ごした。

 雲が赤黒く色づき始めたころ、利平の家に迷惑な客人が現れた。

「おうい、利平よう。ちょっくら手伝ってくれんか」

 そろそろ夕餉にしようと、昨日の鮎の残りを焼いているところへ、又次の胴間声が厚かましく家中に轟いた。内心うんざりしながら利平が玄関先まで出たとき、又次はすこぶる上機嫌だった。

「さっき、大きな猪を撃ったんじゃ。こがいに大きいんよ」

 大げさに両手を広げながら言う。又次は鉄砲を担いでいた。猟の帰りしなにそのまま立ち寄ったようだ。

「重とうて一人じゃよう運ばんけん、助けを呼びに戻ってきたんよ。お前も一緒に来てくれや」

「どこへ? 鹿ノ森山のふもとか?」

 どこに撃った獲物がいるのだろう。日の高い季節とはいえ、これからあまり山奥へ入るのは危ないのではないか。だがそれ以上に気になったのは、又次がどこの獲物を撃ったのかだった。

 ヘヘヘ、と又次は薄汚い笑みを漏らした。答えはなくとも、利平には分かった。

「さては神山まで行ったんじゃろ。いけまいが、あそこは山神様の縄張りぞ」

「まあ、そがい堅いこと言うなや。肉も毛皮も分けちゃるけん」

「いらんわい、罰当たりな! ほかへ頼んでくれ。おれはよう手伝わんぞ」

 信心深い利平には、又次の行いが許せなかった。神山へ侵し入り、あまつさえそこで鉄砲を撃ち獣の血で汚すとは、不敬千万の行いだ。

「罰当たりなんは、お前じゃろが」

 だが又次は悪びれるどころか、不敵な笑みを浮かべたままで利平をなじり始めた。

「何を言うとるんぞ?」

「お添という立派な嫁さんがおるのにから……のう、お添?」

 獲物をもらい損ねたのう、と言い捨てて又次は去って行った。

 なぜお添の名前が出るのか。利平が振り向くと、台所に立つ妻の背が震えていた。

「あんたは、何にも知らんのじゃね」

「『何にも』って、何が……」

 そのとき利平の頭によぎったのは、昨日の末造の言葉だ。

 ――お前も気をつけた方がええぞ。又次のやつ、変な噂を立てて回っとるようじゃけん……。

「村の人はみんな言うとるよ。あんたが猟に行かんと大して金にもならん釣りをするのは、白蛇河原でお菊さんの裸を見たいがためじゃと。あんたがお菊さんを決して悪う言わんのは、お菊さんのことを好いとるからじゃと……もしかしたら、もう通じ合っとるんじゃないかと」

 お添が背を向けたままで打ち明けた。

 利平はひどく驚いた。まるで思い当たる節がなかったからだ。

 猟に行かないのは、ただ臆病だからだ。それに利平は菊だけを悪く言わないわけではない。そもそも、他人の悪口を言うこと自体が嫌なのだ。――そんなことは、誰よりもお添が一番よく理解してくれていると思っていた。

「くだらん。根も葉もない大嘘じゃ」

「初めはみんなそがい思うとったよ。でも昨日、あんたが蓑をお菊さんに着せよるところを見た人がおったらしゅうて、いよいよ噂は本当かもしれんと……」

 あろうことか、又次がでっち上げた大嘘を、お添までが信じてしまったのだ。

 急に眩暈めまいがした。いら立ちが言葉になって、ため息のように利平の口からこぼれ出る。

「おれは、どがいしたらよかったんぞ。裸で震えとる女を、雨の中に置いてんだらよかったんか。それが男のすることか」

「ほうじゃね。あんたの言う通りじゃ」

 暗い声でつぶやくと、お添は立ち上がった。

「お菊さんは、女じゃもんね」

 含みのある言い方だったが、利平にはその真意がすぐには分からなかった。

「何が言いたいんぞ。言いたいことがあるなら、はっきり言えや」

「あんたこそ、なんぞ私に言いたいことがあるんじゃないんかね?」

 お添が潤んだ目で見つめてきた。

 言いたいことならたくさんある。おれが本当に好いているのはお前だ。いつも感謝している。蓑を菊に貸してしまったことならいくらでも謝るから、おれを信じてほしい。臆病で頼りないおれを許してほしい。昔のように、仲睦まじい夫婦に戻りたい。――けれども喉の奥に針が掛かってしまったかのように、何ひとつ言葉にすることはできなかった。

 お添は小さくため息をつき、「行ってくる」と草鞋わらじを履いた。

「どこ行くんぞ。また雨になるかもしれんのに」

「離して。あんたの顔は、しばらく見とうない」

 つかんだ手を振り払われた拍子に、さすがの利平もかっとなる。拒まれた悲しみが、怒りに変わって火のような暴言に変わる。

「おれも、お前の辛気臭い顔にはうんざりよ!」

 本気でそう思ったのは、ほんの一瞬だけだった。

 走り去るお添に背を向けたとき、嫌な臭いが利平の鼻をくすぐった。せっかくの鮎が、尻尾まで真っ黒に焦げている。

 血の気が引いていく。売り言葉に買い言葉で、心にもないことを言ってしまった。いますぐ取り消して、謝って、言葉を尽くして本当の思いを伝えるべきだ。

 けれどもすぐにお添を追ったら、どうなるだろう。村の誰かには必ず見られる。慌ててお添に頭を下げたと知られれば、みな菊と通じているという噂は本当だったのだと思うだろう。あまりにもが悪いことだ。もうこの村では生きていけない。お添が帰ってくるまで、このまま待ったほうがいいのではないか。

 利平の足をしばし鈍らせた葛藤は、しとしとと地面を濡らす雨音によって流されていった。雲に覆われ、夜が迫る空は重たい色に染まり始めていた。

 結局居ても立ってもいられなくなって、利平は笠も蓑もなしに外へ飛び出した。

 村の外れにあるお添の生家に着く頃には、雨脚はかなり激しくなっていた。お添はきっとここだろうと思ったが、老いた義父母は来ていないと言った。嘘ではなかろう。入口から中が全部見渡せるほどの小さな家だ。

 両親のもとではないなら、お添はどこに行ってしまったのだろう。

 ――まさか、菊に会いに行ったんじゃなかろうか。

 根拠のないひらめきではあったが、いったん思いつくとそうとしか思われなくなった。

 菊が鹿ノ森山のどこかに住んでいることは、お添も知っているはずだ。だとしたら、この雨の中で白蛇河原を渡ることになる。危険だ。今すぐ止めなくては。

 雨に打たれてまげを乱した利平を見かねて、義父母は雨具を貸そうと言ってくれた。だが利平は断って、再び雨の中へ駆け出した。お添が作ってくれた蓑を菊に貸したのが事の発端なのだから、それ以外の雨具を着てお添を迎えに行くわけにはいかない。

 雨はますます激しく、荒々しい風に煽られて利平の頬をしたたかに打った。

 思えばひと月前、三人目の子が流れたのも、雨が降る宵の口だった。

 利平が釣りを切り上げて帰ろうとしていたとき、お春が慌てて走ってきた。お添は畑から帰る途中に足を滑らせて転んだと。身重なのだから無理をするなと言ったのに、働き者のお添は聞かなかった。

 急いで家に戻ったとき、女たちの間から見えるお添の足が、血で真っ赤に染まっているのが見えた。駆けつけた村の老婆から、残念だが子どもは助からぬだろうと聞かされたとき、そんなことはどうでもいいと思った。お添を助けてほしい。お添さえ助かるなら、子どもなど二度とできなくたって構わない。どうせ取るに足りない百姓の血筋だ。自分の代で絶えても惜しくはないのだ。

 あのとき利平は、山神様に一心に祈った。そして山神様は、祈りを聞き届けてくれた。

 一命を取り留め、青白い顔で目覚めたお添は泣きながら利平に謝った。次こそはちゃんと気をつけるから、と言った妻に、利平はこう返したのだ――「もうええ」と。

 そこまで思い返して、ようやく利平にもお添の気持ちが分かった気がした。きっとお添は、夫に諦められたと思ったのだ。お前は子をせぬ役立たずだと、そう言われたと思ったのだ。言葉が足りなかった。

 ――おれは、とんでもない阿呆じゃった!

 普段は白蛇の名で呼ばれる美しい川は、今宵禍々しい泥水の大蛇に膨れ上がっていた。これは祟りだ。又次が神山を荒らしたから、山神様がお怒りになったのだ。

 向こう岸に、くぬぎの木にしがみつくお添の姿があった。濁流はその足下にまで迫っている。行きはどうにか渡ったものの、雨のせいで動けなくなってしまったようだ。

 利平が精一杯叫んだ妻の名は、雨風を凌いで対岸へ届いた。顔を上げたお添は、必死で首を振っている。こっちに来たらいけん。家に帰んなはい。そう言っているようだった。だが嵐の夜に、心細さで身を縮めている妻をひとり放って帰るわけにはいかない。

「お添! いま行くけんのう!」

 利平は意を決して、橋のない泥河へと身を投げ出した。だがそれはもはや川とは呼べないものだった。強大な力で利平を押し流そうとする凶暴な蛇そのものだった。泳ぐのは得意なはずだったが、まるで太刀打ちできない。もがいてももがいても、お添との距離は少しも縮まらないままだ。

 上流からの大波が、頭から利平を押さえつけた。抗う術もなく、利平の身体は川底へと沈んだ。

 最後に、あんた、とお添が泣き叫ぶ声がしたのを聞いた気がした。

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