二
ある朝、利平はまた釣りをしに白蛇河原へ向かった。
家を出るときには雲は出ていなかったが、空は何か言いたいことを言えずにいるような、薄く濁った青だった。利平は念のために、いつもの笠に加えて
行きしなに、畑仕事をしている末造と、その妻お
「おはよう、利平。蓑がいるほど、雨が降るかのう?」
「用心のためよ。又次に見つかったら、相変わらず臆病じゃと笑われそうじゃが」
「あいつは嫌なやつじゃけんのう」
又次によほど不満がたまっているらしい末造は、わざわざ
「又次がわしらの獲物までみんな獲ってしまうんで、困っとるんよ。近ごろじゃあ、
「神山にか?」
利平は思わず眉をひそめた。
「あそこは山神様のお住まいじゃのに」
百瀬村に生まれた子どもは、みなそう言い聞かされて育つ。鹿ノ森山よりももっと奥、神山へは入ったらいけんよ、と。
「神様じゃろうが何じゃろうが、又次にはお構いなしよ。こないだも、大きな猪を撃ったが仕留められなんだと、さも自慢げに言うとったい。まことはがいたらしいが、庄屋様の息子じゃけん、わしらも強う言えんしな」
「ほうか。又次に罰が当たらなんだらええが」
「ちいとは当たったほうがええんじゃ。……利平よ、お前も気ぃつけた方がええぞ。又次のやつ、おかしな噂を立てて回っとるようじゃけん……」
「何のことじゃ?」
そのとき、末造の背後から「あんた、いつまで喋っとるんぜ」とお春の怒鳴り声が響いた。
「おーっ、神様よりカミ様のほうが怖いのう。又次より先にわしが痛い目を見そうじゃ。また後での」
末造はそそくさと畑へ戻っていった。
あんなことを言っているが、末造とお春は良い夫婦だ。四人の子どもも大きくなって、元気に村中を走り回っている。末造がしっかり猟で稼いで家族を支えているから、お春もかえって遠慮なく言いたいことを言えるのだろう。少々尻に敷かれたくらいでは、末造の恥にはならない。
――お添が何にも言わんのは、おれが頼りないせいじゃろな。
くよくよと考えていたのは、白蛇河原に辿り着くまでのことだった。
その日は
そんなとき、また菊が現れた。
素っ裸の菊と目が合うと、また「来んなよォ」が始まった。それを言いたいのはこちらのほうだ。せっかくよく釣れているのに。だが菊は利平の気も知らず、肉に埋もれた四肢をばたつかせて無邪気に泳いでいる。
急激にやる気が失せて、利平は河原へ上がった。まあこれだけ釣れば、今日のところは十分だろう。
冷たい風が蓑を揺らした。かと思うと、河原の石にぽたり、ぽたりと黒い染みが増えてきた。空には急に黒雲が拡がり、お天道様を閉ざして雨を降らし始めた。利平の思った通りだ。
早く帰らねばと思うのに、利平はふと菊のことが気になって振り返った。
菊は四つん這いで慌てて向こう岸へ上がり、遠目にも分かるほどぶるぶると身体を震わせている。
利平は少し迷ったが、結局川を渡って菊へ近づいた。蓑を脱ぎ、彼女に着せてやる。身体の大きな菊には小さすぎて背を覆いきれないが、ないよりはましだろう。
知恵の宿らぬ菊の目が、怯えた光を宿して利平を見上げている。
「これを着て早う帰れ。風邪を引くぞ」
紐を結んでやるとき、菊の脇腹にまだ新しい傷があるのが見えた。赤く腫れていて痛そうだ。誰かに乱暴をされたのだろうか。気にはなったが、利平にしてやれることは蓑を貸す以外にない。
「貸すだけぞ。晴れた日に返しに来いよ」
分かったのか分からぬのか、菊は意味をなさぬ声を上げて山へと入っていった。
雨風はいっそう激しさを増し、笠の間からも利平を濡らした。びしょ濡れになって帰った夫に、物静かなお添もさすがに悲鳴を上げた。
「蓑はどしたんぜ?」
「菊が貸してしもた」
お添の顔色がさっと変わった。
「あがいなんでも女は女じゃけん、気の毒でな。……すまんのう」
「ほうかえ。……ほうじゃろうねえ」
明らかにお添は腹を立てている。蓑は冬の間に、お添が編んでくれたものだった。それを返してくれるあてのない相手に貸してしまったのだから当然だ。けれどもお添は、それ以上利平を責めなかった。
「今日はしんどい。悪いが、自分で作って食べや」
少々具合が悪くても、また機嫌が悪くても、欠かさず食事を用意してくれるお添にしては珍しいことだった。
「大丈夫か?」
答えはなかった。お添は布団に潜り込んでしまう。
――また、だんまりじゃのう。
利平は囲炉裏で鮎を二尾焼いた。一尾は自分のぶん、もう一尾は明日お添が起きたら食べられるように。
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