鮎の河原―百瀬村白蛇神社縁起―

泡野瑤子

 ね、と言っているようだった。

 しらへびがわの流れを遡り、あゆが別の鮎を追い立てている。

 川の水は冷たくて清い。鮎たちの追いかけっこが、すねまで川に浸かったへいの目にもよく見える。逃げるほうの鮎も必死で、砂利の溜まった水底に腹をこすりそうだ。

 野生の本能は、よそ者を決して見逃しはしない。

 去ね、去ね、ここはおらが縄張りぞ。

 追う鮎が、追われる鮎の尾ひれめがけて体当たりを仕掛ける。

 ――今じゃ。

 ぴちゃぴちゃと飛沫しぶきが上がり、お天道てんと様の光と一緒に散った。追っていたほうの鮎に針が掛かり、水上に飛び出て打っている。

 もし鮎にも人並みの知恵があったなら、己が罠にかかったことに気づいただろう。躍起になって追いかけていたもう一尾の鮎は、おとりだったのだと。その証拠に、おとりあゆには釣り糸や掛け針とつながったはなかんが取り付けられている。

 罠と知ったときにはもう手遅れだ。釣られた鮎は利平のタモへ、次いで川面に浮かべた木製の友船ともぶねへと移されて逃げられない。この釣り方は「ともり」といって、鮎が持つ縄張り意識の強さを利用したものである。

 一尾釣れた。利平は目を閉じて、山神様に感謝を捧げ、さらなる恵みを乞う。先ほどの囮鮎が弱ってしまう前に、もう少し釣らせてほしいと。

 笠の下で、利平の顎から汗がしたたり落ちた。

「おうい、利平よぉ」

 野太い声に呼ばれて振り返ると、火縄銃を担いだ猟師が二人、利平のそばへやってきた。図体がでかいのがまたで、ひょろりとして細っこいのがすえぞうだ。

「どうよ、よう釣れよるか」

「いや、田螺たにしでも拾うて帰らにゃいけない」

 末造の問いに、利平は苦笑を返した。

「友釣りの名人が、珍しいことじゃのう。鹿か猪でも獲れたら、少し分けちゃらい」

「もらうぎりじゃあ悪いけん。鮎が釣れたら替えさしてくれや」

 末造は気の良い奴だ。鉄砲の腕も良い。ももむらの若い衆の中では、もっとも気心の知れた男だった。

 その隣で、又次がふんと鼻を鳴らした。

「そがい辛気くせえことをせえでも、わしらみたいに山へ入りゃあええのに。いっつも言うとるじゃろが。大きな獲物をドンとやれば、しばらくは食うに困らんぞ。畑も食い荒らされずにすむし、ええことずくめよ」

 太い眉の下で光る黒目が、弓なりに歪んで利平を見下ろしている。

 確かに、この村で漁師をやっているのは利平だけだ。鮎は自分の家で食べたり、末造と獲物を交換してもらうには十分だが、よそへ売るほどではない。

 お上のお触れで獣肉を食うなと禁じられてはいるが、実際にはほとんど守られていない。山の向こうの城下町には肉を欲しがる裕福な町人が大勢いる。猟をするほうが手っ取り早く儲かるのは、重々承知の上だった。だが。

「……おれは臆病じゃけん、鉄砲は好かない」

 利平はうつむいて、細い声で答えた。ハハァ、と又次が嘲笑の息を漏らす。

「鉄砲が怖けりゃ、罠を仕掛ける手もあろうが。なんかは、うまいことくくり罠をこさえるぞ。獲物が仕掛けの板を踏んだら、足首に針金の輪がギュッと締まる仕組みなんと。教わってきたらどがいぞ。……それとも、罠も怖いんか?」

 又次はこういう男だ。他人を小馬鹿にしてはばからない。

「これ又次、誘うたらいけんが。利平まで山に来てしもたら、わしらの獲物が減ってしまうじゃろが」

 冗談めかして末造が場を取りなすと、又次は耳障りな声で笑う。利平は迷惑に思った。鮎がびっくりして、みんな逃げてしまいそうだ。

「しかし、ここで釣りしよったら、アレが来んか?」

 又次が言い終わるか終わらないかのとき、向こう岸からざぶざぶと騒がしい水音が鳴った。

「おお、出た出た、噂をすれば何とやらじゃ」

 来んなよォ、来んなよォ。

 おなごかすれ声がする。利平は反射的に顔を上げ、そしてすぐに顔を背けた。

 目の端に映ったのは、一糸まとわぬ女の姿であった。

 いや、女というよりは、大きな肌色の肉塊だ。垂れ下がった三段腹が股ぐらを隠し、乳房はまるで化け物の目玉が飛び出ているかのようだ。背中や四肢にまでぶよぶよと肉がついていて、とても男が喜ぶような裸体ではない。

 来んなよォ、来んなよォ。

 女は、左右に離れたぎょろ目を見開いて、そればかり繰り返している。醜女しこめだ。

「菊よォ、何を食うたらそがい肥えられるんぞ?」

「お前のせいで、利平の鮎が逃げろうが」

 又次と末造が笑っている。笑う気になれないのは、利平だけだ。

 菊はときどきこの河原にぎょうずいしに来る。川の向こう側、鹿もりやまあたりに住んでいるのだと思われるが、詳しい家の場所までは知らない。家族がいるのかも知らない。年がいくつなのかも分からない。少なくとも、まだ前の利平よりは若くなさそうだが、髪は黒々としているので太りすぎて頬が垂れているだけかもしれなかった。

 利平が菊について知っているのは、彼女の名と、おそらく気が狂っているらしいことだけだ――つまり、ほかの男たちが罵るのを又聞きしたことだけだった。

「来んなよォ」と言うのだから、裸を見られたくはないのだろうが、そのくせ利平ら男衆おとこしゅうがいてもお構いなしである。菊は気が狂っていると言われるのは、そのためだ。

 だが菊だって、好きで狂っているわけではあるまい。馬鹿にして笑うのは気の毒だと利平は思う。火薬が炸裂する音、狩りの血なまぐささ、死んだ獣のうつろな目を恐れて、魚を釣ることを選んだ自分とは違うのだ。

 来んなよォ、来んなよォ。

「いけんいけん。これ以上見たら目が腐りそうじゃ。末造、早う行くぞ」

「ほうじゃほうじゃ。じゃあの、利平」

 二人の猟師はにやにやしながら、浅瀬を渡って鹿ノ森山へと入っていった。

 利平は小さくため息をつき、菊のほうを見ないようにまた友釣りを始めた。漁場りょうばを変えられればいいが、ここが一番釣れるのでそうもいかない。

 又次のせいか、はた菊のせいかは知れぬが、鮎はその日あと一尾釣れただけだった。

 日はとっぷりと暮れていた。さみしい魚籠びくを田螺と沢蟹でどうにか補い、利平は重い足取りで家へと帰った。

 わずかな釣果を水甕へ移し、利平は草鞋わらじを脱いで板の間へ上がった。玄関先に、釣り糸に使う天蚕糸てぐすが束ねて置いてある。天蚕糸もまた山の恵みである。山で取ってきた繭を煮てほぐし、紡いだものだからだ。利平が留守の間に糸車を回してくれたのは、妻のおそえである。

「お添、帰ったぞ」

 かまどの前に立っていたお添が、黙って夕餉を差し出した。

 大根の漬物と青菜のお浸しは程良い塩加減だ。欠けた汁椀には、麦の混ざった粥。十日ほど前に焼き干しにした鮎の身が、上品な味わいを加えている。豪華ではないが、お添が作る食事は今日も旨かった。

「今日は、あんまり釣れなんだい」

「ほうかね。明日は畑を手伝うて」

「うん……」

 それきり夫婦の会話は途絶えた。明日は釣れると励ますでもなく、情けないと責めるでもない妻の態度が、利平には何とも居心地が悪かった。

 お添を娶ってから、もう十年が経つ。同じ村で育った少し年下の娘で、結婚するまではほとんど口を聞いたこともなかった。

 夫婦の間に子はなかった。お添はこれまでに三度孕んだが、三度とも流れてしまった。最後に流れたのはひと月前のことだ。それから四度目の努力はしていない。「もうええ」と利平が言ったからだ。

 真っ暗になる前に、ふたりは別々の布団へ入った。

 お添は利平に背を向けていた。長い黒髪からのぞく白い首筋は、薄闇の中でもぼんやりと浮かんでいる。利平は心惹かれながらも、寝入りばなの妻を起こす気にもなれずに目を閉じた。

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