鮎の河原―百瀬村白蛇神社縁起―
泡野瑤子
一
川の水は冷たくて清い。鮎たちの追いかけっこが、
野生の本能は、よそ者を決して見逃しはしない。
去ね、去ね、ここはおらが縄張りぞ。
追う鮎が、追われる鮎の尾ひれめがけて体当たりを仕掛ける。
――今じゃ。
ぴちゃぴちゃと
もし鮎にも人並みの知恵があったなら、己が罠にかかったことに気づいただろう。躍起になって追いかけていたもう一尾の鮎は、
罠と知ったときにはもう手遅れだ。釣られた鮎は利平のタモへ、次いで川面に浮かべた木製の
一尾釣れた。利平は目を閉じて、山神様に感謝を捧げ、さらなる恵みを乞う。先ほどの囮鮎が弱ってしまう前に、もう少し釣らせてほしいと。
笠の下で、利平の顎から汗がしたたり落ちた。
「おうい、利平よぉ」
野太い声に呼ばれて振り返ると、火縄銃を担いだ猟師が二人、利平のそばへやってきた。図体がでかいのが
「どうよ、よう釣れよるか」
「いや、
末造の問いに、利平は苦笑を返した。
「友釣りの名人が、珍しいことじゃのう。鹿か猪でも獲れたら、少し分けちゃらい」
「もらうぎりじゃあ悪いけん。鮎が釣れたら替えさしてくれや」
末造は気の良い奴だ。鉄砲の腕も良い。
その隣で、又次がふんと鼻を鳴らした。
「そがい辛気くせえことをせえでも、わしらみたいに山へ入りゃあええのに。いっつも言うとるじゃろが。大きな獲物をドンとやれば、しばらくは食うに困らんぞ。畑も食い荒らされずにすむし、ええことずくめよ」
太い眉の下で光る黒目が、弓なりに歪んで利平を見下ろしている。
確かに、この村で漁師をやっているのは利平だけだ。鮎は自分の家で食べたり、末造と獲物を交換してもらうには十分だが、よそへ売るほどではない。
お上のお触れで獣肉を食うなと禁じられてはいるが、実際にはほとんど守られていない。山の向こうの城下町には肉を欲しがる裕福な町人が大勢いる。猟をするほうが手っ取り早く儲かるのは、重々承知の上だった。だが。
「……おれは臆病じゃけん、鉄砲は好かない」
利平はうつむいて、細い声で答えた。ハハァ、と又次が嘲笑の息を漏らす。
「鉄砲が怖けりゃ、罠を仕掛ける手もあろうが。
又次はこういう男だ。他人を小馬鹿にして
「これ又次、誘うたらいけんが。利平まで山に来てしもたら、わしらの獲物が減ってしまうじゃろが」
冗談めかして末造が場を取りなすと、又次は耳障りな声で笑う。利平は迷惑に思った。鮎がびっくりして、みんな逃げてしまいそうだ。
「しかし、ここで釣りしよったら、アレが来んか?」
又次が言い終わるか終わらないかのとき、向こう岸からざぶざぶと騒がしい水音が鳴った。
「おお、出た出た、噂をすれば何とやらじゃ」
来んなよォ、来んなよォ。
目の端に映ったのは、一糸まとわぬ女の姿であった。
いや、女というよりは、大きな肌色の肉塊だ。垂れ下がった三段腹が股ぐらを隠し、乳房はまるで化け物の目玉が飛び出ているかのようだ。背中や四肢にまでぶよぶよと肉がついていて、とても男が喜ぶような裸体ではない。
来んなよォ、来んなよォ。
女は、左右に離れたぎょろ目を見開いて、そればかり繰り返している。
「菊よォ、何を食うたらそがい肥えられるんぞ?」
「お前のせいで、利平の鮎が逃げろうが」
又次と末造が笑っている。笑う気になれないのは、利平だけだ。
菊はときどきこの河原に
利平が菊について知っているのは、彼女の名と、おそらく気が狂っているらしいことだけだ――つまり、ほかの男たちが罵るのを又聞きしたことだけだった。
「来んなよォ」と言うのだから、裸を見られたくはないのだろうが、そのくせ利平ら
だが菊だって、好きで狂っているわけではあるまい。馬鹿にして笑うのは気の毒だと利平は思う。火薬が炸裂する音、狩りの血なまぐささ、死んだ獣のうつろな目を恐れて、魚を釣ることを選んだ自分とは違うのだ。
来んなよォ、来んなよォ。
「いけんいけん。これ以上見たら目が腐りそうじゃ。末造、早う行くぞ」
「ほうじゃほうじゃ。じゃあの、利平」
二人の猟師はにやにやしながら、浅瀬を渡って鹿ノ森山へと入っていった。
利平は小さくため息をつき、菊のほうを見ないようにまた友釣りを始めた。
又次のせいか、はた菊のせいかは知れぬが、鮎はその日あと一尾釣れただけだった。
日はとっぷりと暮れていた。さみしい
わずかな釣果を水甕へ移し、利平は
「お添、帰ったぞ」
かまどの前に立っていたお添が、黙って夕餉を差し出した。
大根の漬物と青菜のお浸しは程良い塩加減だ。欠けた汁椀には、麦の混ざった粥。十日ほど前に焼き干しにした鮎の身が、上品な味わいを加えている。豪華ではないが、お添が作る食事は今日も旨かった。
「今日は、あんまり釣れなんだい」
「ほうかね。明日は畑を手伝うて」
「うん……」
それきり夫婦の会話は途絶えた。明日は釣れると励ますでもなく、情けないと責めるでもない妻の態度が、利平には何とも居心地が悪かった。
お添を娶ってから、もう十年が経つ。同じ村で育った少し年下の娘で、結婚するまではほとんど口を聞いたこともなかった。
夫婦の間に子はなかった。お添はこれまでに三度孕んだが、三度とも流れてしまった。最後に流れたのはひと月前のことだ。それから四度目の努力はしていない。「もうええ」と利平が言ったからだ。
真っ暗になる前に、ふたりは別々の布団へ入った。
お添は利平に背を向けていた。長い黒髪からのぞく白い首筋は、薄闇の中でもぼんやりと浮かんでいる。利平は心惹かれながらも、寝入り
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