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サクラクロニクル
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異性愛。同性愛。どちらでもない、愛。
それを愛と呼んでよいのか、私にはわからない。私には性別がない。正確に言えば、身体は男性であり、心の方がそれを受け入れられないでいる。だから女性かと言うと、女性でありたくない。だから無性ということにしたい。文字にするとやばいね。
ただひとつ確かなのは、セツナという女性個体に対して、好意を抱いているということだ。であれば、これは異性愛であり、正常であるということになる。
問題があるとすれば、私は一般的に女装と呼ばれるような恰好をしていることだ。女性の服を着ていないと心が落ち着かないのだから仕方がない。下着までもが、そうだ。とにかく、自分自身が雄であることに嫌悪感があり、しかし男の欲求には抗えない。快楽と吐き気が同時に襲い掛かるあの感覚を、誰にどう伝えればわかってもらえることやら。だから女性の恰好をしてとりあえず男であることを否定。顔の方も、いまのところ女っぽい。だからと言って自分が女であるだなどと言わない。男の娘って表現もあるらしいけど、明確に男って書いてあるので嫌だ。どうしようもない。
あるヒトに性的欲求部分を省いて事の次第を話すと「異常性癖じゃん」と言うことになった。
私は最初、それに対してこんなふうに返答した。
「昨今は性別に関する問題がにわかに取りざたされているから、そんな物言いは危険だと思うよ。LGBTというのだっけ。性的指向とか、性自認とか、そういう問題とかをまとめて」
「オレは、あんなものまやかしだと思っている」セツナは音声チャット上でそう断言した。「異常というのは正常でないということだ。人間は明確に男女が分化していて、いまのところもう片方に対して自然転換する方法がない。正常な人間の機能の範囲内で、もう一方の性別に変化する方法がないということだ。であれば、身体的機能と精神的機能が一致していない状態は異常としか言いようがない。いま調べたが、性的少数者などと言われているじゃないか。異常性癖確定」
セツナが異次元の速度で打鍵しているのが聞こえてくる。指向性マイクと静音タイプのキーボードを使っていると言っているが、マシンガンの音が心地良いように、彼女の打鍵音も非常に美しく響いてくる。生の音を聞きたいと思わせられるほどに。
だから、彼女の言う異常性癖に関する言論に対して、私は反論することをしなかった。
「確かにね」と返す。「私は別に異常とされてもいいけど」
「そうだろ」とセツナ。「異常でいいんだよ、異常で。イレギュラー。めっちゃかっこいいじゃん。なんで正常であることにこだわるんだろうな。あれ、絶対発言権の強いのがガタガタ言ったから突然にこだわり始めたんだよ。異常を異常と認められないような奴が。これだから大人はダメだ。さっさと全員死んじまえばいいのに」
「きみもいつか大人になるんだよ」
そう私が指摘すると、彼女はいつもこう言うのだ。
「オレはいつまでもキッズさ。身体が大人になっても、永遠にイレギュラーであり続けてやる。大人たちのいいようになってたまるかよ」
その考え方そのものが、どこか大人に操られそうな気がして仕方がなかった。だが、それでも彼女はきっといつまでも不正な存在であり続ける。そんな気がして、だから私は彼女を好きでいるのだろう。
セツナと出会ったのは、小さな競技プログラミングの会場でだった。三年前の、冬の寒い時期。賞金が5万円もらえた。私はそれで新しい服を買いたかった。
だが、セツナが競技課題を誰よりも早く提出し、誰よりも優秀な実行速度を達成した。彼女が選んだプログラミング言語はC++で、競技の審査員も困惑するほど出来がよかった。
彼女のイレギュラーさをぜひ伝えたい。まず彼女のコーディング速度。他の参加者の最低3倍は出ていた。次に使用言語がC++と難易度が高かった。そして実行速度があまりに速く、その大会に出場した名のあるゲームプログラマーですら勝てなかった。そのプログラマーは仲間探しのために大会に参加していたのだが、速攻でセツナを勧誘した。
「キミのプログラミング、スゴイヤバイ。一緒にゲームを作らないか? キミの腕ならオカネイッパイ稼げるぞタブン」
「消えろ、俗物」と彼女は言い切った。「オレの時間は有限なんだ。他人の為にプログラムする気はない」
「ビューリホー」
そのゲームプログラマとは、仲良くなったと聞いた。オープンソースプロジェクトでばったり会ったのだそうだ。私もそこに参加した。前述の変なカタカナ表記は、その彼のチャット上での表記を模したものである。
かく言う私も、その台詞にやられた口なのだ。なんてかっこいいのだろう、と3位のしょぼい盾と3000円分の密林ギフト券を持ちながらぼーっとしてしまった。そのあと、彼女を追いかけて「一緒にSQLインジェクションの勉強しませんか」などと言った。
「断る」と彼女は言った。「お前、マジで気持ち悪いな。男なのになんだその恰好は。声も。めっちゃ女じゃん。そんなやつと一緒に勉強するとか恥ずかしいから嫌だ」
そう言うセツナは、ジャケットとジーンズで武装しており、首から上を見なければ完全に男だった。
「できる限り気配消すからさ」
「うわ……なんかお前、諦め悪そうだな。クソ、たちの悪いやつに絡まれた。アイツみたいだ。何が目的だよ」
アイツが誰かわからないが、ソイツに負けたくなかった。
「きみと一緒にいたい」
「吐きそう」
ストレートに言ったのだが、言えば言うほどセツナには気持ち悪がられた。それでも、音声チャットしながらだったら――まで食い下がることができた。
「お前のプログラムさ、なんか綺麗だな」
彼女が唯一、私を褒めてくれるのはプログラムのこと。参加プロジェクトでお互いのコードをレビューしている時に言われる。
「すげー丁寧に書いてある。リーダブルコードからそのまま取ってきたって言われても信じるよ。お前さ、なんでちゃんとした女で生まれてこなかったんだ? オレさ、お前が女だったら肩を並べて一緒にやってもいいな、なんて思えるよ」
「それ、なんかの罰ゲームかなにか?」
「お前への? そうかもな。けど、罰ゲームってなら生まれてきたことに対する罰ゲだろ」彼女の打鍵が止まる。タァンッ! リターンキーを叩く音が聞こえた。儀式だ、テスト実行の。「生まれてくる時に身体を選ばなかったのか? ちなみにオレは選べなかった。他の奴らも、どうも選べなかったらしい」
「そりゃ、誰も選べないと思うけど」
「はあ? 異世界転生とかだと選んでんじゃん」
「それ、マジで言ってます?」
「マジじゃねえこと言ってどうすんだよ。いるかもしれないだろ、生まれを選んできたやつ。ま、オレはそいつを見つけ出したら、選んで生まれるのがそんなに上等じゃねえってことを教えてやるつもりだけどな。オレの乱数はキレてる」
そういうとこに痺れてしまうのだ。
「オフ会がしたい」
と、私は中古のゴスロリ服に着替えてからそう言った。昔に流行ったやつで、知り合いのオネエ経由で、女性から譲ってもらった。女の人の匂いがしなくてよかったと思いつつ、これを女性が着ていたのだよな、などと思うと、ちょっと興奮してしまう。変態の男じゃん、とスゴーク嫌な気持ちになる。
「それはダメだろ。契約違反だ」契約なんてしてないのにセツナがそう言った。「マジで恥ずかしいから絶対に嫌だ。おまえ、しかもなんでカメラオンにしたよ。女声にすると完全に女の子になれる、っていつものアレか?」
「いやまあそういう魂胆もあるにはある」
「しゃべってもバレねえとか思ってるだろ。多分バレないが、バレたらなに言われるかわかったもんじゃねーだろ。オレのイレギュラ―ズの中に女装趣味のやつがいると噂されてみろ」
「余計にイレギュラーっぽくなるのでは?」
「いや――あまりにも古典的手段過ぎて逆に品格が落ちる。お前、1周半くらいぐるっと回って普通に男装して来るなら考えてやるよ」
「やめます」
それは最大のチャンスだったが、男の恰好でセツナに会ったら何をしでかすかわかったものじゃない。女の恰好をしているから性否認が成立するのであって、男の恰好をしたら性を全肯定してしまい、全力でセツナを奪いにかかる未来が見える。それはダメだ。
「そういうところの潔さ、クールだぜ」
んなこと褒められても全然うれしいわい。
どうにか彼女と一緒にいられる方法はないかといろいろ探ってみたが、いくつも課題があった。まず彼女の近くにはひとりの女性個体の姿がちらついている。彼女がいつも『ヘイボン』と呼んでいるその娘は、どうも非常に諦めが悪く、なにか不徹底をしでかすと恐ろしい剣幕で迫ってくるのだと言う。それのどこがヘイボンなのか問い詰めたところ『名前が平田汎子だから』とテキストチャットが来た。そりゃヘイボンだわ。で、どうもセツナはその娘のことが好きそうな雰囲気だ。イレギュラーっぽくて大変よろしいのだが、私としては非常につらい。相手が男だったらまだよかったのだが、よりにもよって女。しかも生粋の女らしい。セツナ曰く「見た目も行動もめっちゃ普通のオタク女子だけど、粘着性が異常。多分トランザムしようがV-MAXしようが逃げきれない」
やべーなそれ。
「よくそんな古いアニメの言葉知ってるね」
「別にトランザムは古くなくないか? V-MAXはお兄さまの友達がよくスイッチ押してんだよ。なんか青く光ったりリミッター外れたりするんだとさ。確かにVelocity-Maxだったら、なんかスピードが最大になってます感あっていい」
セツナの英語発音はキレキレだ。お兄さまと言うのが彼女の敬愛するプログラマーのひとりで、スタンフォードでプロフェッサー見習いをしている金髪男子らしい。ちなみに一番尊敬しているプログラマーは某有名FPSのコードをグローバルに公開しちゃったあのヒトだと聞いてる。私も好き。お兄さまと音声チャットしたいと言ったら無言で切られた。なんかの地雷を踏んだらしいので、以降は二度とその話題に触れないようにしている。
「そのヘイボンさんにまた絡まれたって?」
「盛大に絡まれ中だ。しかもオレに頼むことがよりによって動画編集だぞ? できる友達いるだろって、なんかどっかで1回言ったこと覚えてたらしくてさ。アイツ、一度言い出したらイカれたトロッコになりやがる。1人轢いた後に戻ってきて5人の方も轢く」
その比喩の方がやべーよ。
「それで手伝ってるんでしょ。他人の為にプログラミングはしないっていってるのに」
「そう。でもしょうがないじゃん。ヘイボンの作動原理は大人のそれじゃない。キッズ。それもオレよりも年下のやつだよ。アイツ、好きな作品が打ち切りになるたびに編集部宛に熱いお便りを送ってるらしいぞ。残念だがオレは大人じゃないから、そんなキッズを見捨てることができないのだ」
「私に手伝えることは?」
「その画像編集者とのやり取り、代行してくれないか。多分、めちゃくちゃ時間かかるから、ヘイボンとのやり取りも代わってくれるとうれしい。アイツは目的さえ達成できればおまえみたいなめちゃくちゃ気持ちの悪い生物でも余裕で話してくれると思う」
「よろこんで」
と私は即答した。とてつもなく嫌なお願いだったが、セツナを助けたかったのだ。
「えっ。女の方じゃないんですか?」
自己紹介の時点で無性だと言ったら、ヘイボンさんが驚いた。まあそうなるわな。
「セツナのプログラマ・フレンズで、ヒメカイドウ・イタルです」
テキストメッセージで姫海棠至と本名を送り付けておいた。おそらく長い付き合いになるだろうから。だってセツナが頼みごとを断れないとか、もはやブラックホールだろ。
「ああ、はじめまして。ヒラタヒロコです。ヘイボンで大丈夫ですよ。ほら、わたしってすごくヘイボンなので」
嘘を吐け。カメラで見ると、確かに見た目はモブっぽくてうまく説明できん容姿だが、セツナからたっぷりと所業について聞いてるから絶対に騙されんぞ。
「それでヒロコさん。その画像編集の方針でいろいろ聞きたいことがあるんです。動画編集してる子は女の子なんですが、どうも女性恐怖症みたいで。セツナと私はなぜか大丈夫判定なんですけど、多分ヒロコさんとは会話が成立しないと思うんです。なので私が間に入って情報伝達係をやります」
「ありがとうございます!」
その動画編集係もだいぶイッちゃってる。見た目は典型的な女性幽霊で、会話しているとその分身が背中に出てきそうなほどぼそぼそ喋る。自称はムビ美。強そうだな。
「ムビ美さん曰く、ヒロコさんから送ってきた動画構成プランよりいいプランを思いついたのだそうです。で、その構成プランのデータをいまから画面共有しますのでチェックしてもらえますか?」
「わかりました。どうぞ」
セツナの速度について来れるだけあってやりとりが簡潔すぎる。
とりあえず全編流す。途中で何度かヘイボンさんから巻き戻し確認の指示が飛んできた。マジでぐいぐい来るなコイツ。BGMが尺のベースとなってる動画で、全体で5分弱なのに確認だけで1時間ほどかかった。
「気になったところは全部メモしました」
マジで。そういえばなんかカチャカチャ聞こえてたな。
「このテキスト、そのまま送っても大丈夫ですか? それとも姫海棠さんフィルター通した方がよさそうですか?」
「女性接触判定は彼女の生理的機能によるものだと思うので、電子フィルターがかかりまくってる電子テキストなら大丈夫かと思います」
とは言え、本当に大丈夫かわからないので、一行だけテストでムビ美さんに送ってみる。
『ウェヒヒヒ。なるほどねェ。そこまで見られてるのねェ』
チャットでも雰囲気出してきてるから、こいつは自分から幽霊女になろうとしてる。
『では全文送ります。テキストファイルで』
このテキストファイルは30行ほどある。1行あたりの指摘箇所はひとつとは限らない。
『ぎゃぴっ!? 多すぎではァァァ!?』
『マジでこれ無償でやってるんですか?』
『セツナさんに恩義があるから成仏できないのよォォォ』
『ムビ美さん、生きてください。セツナさんの為にも』
以降、通信は途絶した。
なお、このあと似たようなやり取りを3回ほどした模様。あのヘイボンとかいう奴マジで容赦ねえな。セツナの知り合いじゃなかったら絶対に近寄らないタイプの人間。これだからオタク女子って奴は怖いんだ。服を買うお金をくれるなら本気でお付き合いするけど。
「わたしもうだめみたい。そろそろくるし、しぬかも」
ムビ美さんが成仏一歩手前で動画チャットを飛ばしてきた。
「いやさすがにそうはならんでしょ。ヒロコさん説得しときますわ」
私が一番つらいのは、女性というものと男性というものが根本的に違う生き物であることだ。いや、同じホモ・サピエンスナンチャラではあるが、女性にはあって男性にはないものがある。これのせいで私は彼女たちと同じような会話ができないし、その痛みや辛さ、それによる精神的影響もまるでわからない。純粋に生物学的な特性がまるで把握できていないということでもある。にんげんおとこの情報はその辺のエロ漫画に無限に描いてあり、だいたいあってるのでそれでいいのだが、女性の情報はどこに何が書いてあるのかさっぱりわからないし、個体差が大きすぎる。これは私が男だからそう思うのかしらん?
「姫海棠さんって、やっぱりお姫さまなんですか?」
なにいってんだコイツ。姫海棠って赤くて小さい実がたくさん生るバラ科リンゴ目の植物のことだからな。
「いや、まったくお姫さまじゃない。学校だと変なやつ扱いされてるし、近寄ってくる奴らがみんなどことなく気持ち悪い。それが完全にお互いさまになってて孤立してる感じ」
「そうなんですか。こんなにかわいいのに。今度オフ会しましょうよ。姫海棠さんの生声とか生着替え見たいです」
いまなんか変なこと言いませんでした?
「生着替えって言ったの気のせい?」
「あっ。違いました。生女装です。着替えはオンラインでも大丈夫です」
なにも大丈夫ではないし、オンラインでもってなんだ。こいつ距離感に重篤な不具合がある。ただちにデバッグしてやりたいが、人間だからどうすることもできん。
「多分、そのうちエンカすると思うんで、その時までお預けにしましょう。というか、セツナさん経由での繋がりに過ぎないですし、いまは割り切って付き合いましょう。変にこじれて目的のブツを仕上げるのに影響出たらヒロコさんも困ると思うんで」
「確かに。そうかもしれませんね。わかりました」
いい感じに距離が離せた。なるほど、創作物の方が優先度高いのね。
「それでムビ美さんなんですが、そろそろ限界来てると思います」
「十分にやってもらえました。さすがセツナ。本当にいつも助かる。ムビ美さんって欲しいものリストとかありますか? できる範囲でお礼するので聞いといてもらえると」
セツナにどんな借りがあったのか知らないけど、ムビ美さんは超がんばったのでプラスアルファでなんかもらえてもバチは当たらんだろうな。と思ったのでメッセを送る。
『欲しいものリストあったらそこのやつ買って送ってくれるらしいです』
『送りますゥゥゥ』
なんか来たが、中身全部クスリとサプリメントだな。
「URL送ります」
「あっ、なるほどです。すぐ送っておきます」
なにを送ったか知らないが、後日ムビ美さんから感謝のメッセが飛んできた。どれをどう選んだらこんなメッセが来るんだ。セツナ対策にちょっとお聞きしておきたい。だが、もしかすると実に微妙な問題かもしれないので、聞きづらい。だから結局、何を送ったのかは聞けずじまいである。
どうやったらセツナの心を自分だけのものにできるだろうか。そんなことをいくら考えても話は進まなかった。結局例の動画編集の話を通じてわかったのは、セツナの好意を得るには以下の条件を満たす必要があるということだ。
・マジもんのイレギュラーで見た目も行動もイカれていること
・心がキッズで何かに夢中になると世間を完全無視できること
で、私はどっちもダメ。セツナと比べると精神年齢が高いし、いつまでもキッズではいられないと思っているし世間体もある。いや、女装しておいてなんぞって感じに取られると思うけど、LGBTくんが出てくるまでは結構肩身が狭い思いをしていたのだ。LGBTくんが流行り始めてくれたので、私の格好も『なんか知らんけど軽々しく否定とかすると流行に乗り遅れる』みたいな感じで許容されてきてる。それに安心している自分がいる。
つまり私はいまのところめちゃくちゃ正常だし、大人の階段を上ってる真っ最中だ。でもシンデレラではない。家の中でずーっと家族が聞いてる音楽の歌詞が頭の中にこびりついて離れないのも悩みと言えば悩みだ。
自分の考えを整理すればするほど腹が立ってきてどうしようもなくなる。私の乱数は残念ながらかなりしょぼくて、セツナとの相性も悪い。一度ムカつき始めるとセツナにもいじわるしたくなってきたので、このテキストを書きなぐる。
ついでに、最後だから――付け加えておこう。
私はセツナのことを愛している。ヘイボンから奪い取ってユニゾン・プログラマとなり、世界に羽ばたき、私のことを産み落としやがった世界をセツナと一緒にぶち壊してやりたい。
だからどうか、私のことを嫌わないでこれからもずっと一緒にいてくれたまえよ。
私はそこまでテキストを叩き込むと、4096ビットのRSA暗号化してセツナのメールアドレスにファイルをシュートした。この暗号化がどれくらいすごいかというと、その辺のコンピュータでは我が魂魄百万回生まれ変わろうとも複合不能。つまりセツナがどんな天才だろうと、突然複合用の文字列を悟るか、私のPCの中にある鍵を直接探り当てない限りは複合できないのだ。後者の方法はセツナだとやりかねないので、暗号化する際は必ずスタンドアロンな環境で行ってから慎重にデータをコピっている。
『おまえ謎のファイルをオレのところに叩き込んでくるのいい加減にやめろ』
セツナからクレームが来るまで5分ほどかかった。たびたび自分の気持ちを絶対に解読不可能な暗号文にしてシュートして気晴らしをしているので、こんなやり取りも慣れたものだ。
『文字化けかな?』と誤魔化す。
音声チャットが飛んでくる。
「んなわけあるか! どう見てもRSA暗号化されたテキストファイルだろうが! しかもめっちゃ長文の。おまえ、いい加減に諦めて男装しろ。そうしたらあのラブレター群を真剣にぶち破って中身を読んでやる」
「なんでラブレターだってバレてました?」
「当たり前だろ。お前がオレのこと好きなことなんて最初に会った時からずっとわかってるんだよ。男と女だぞ? 正常な好意だ。だったらそれを異常にできるくらい強くなってからオレんとこに来な。そうしたらな――その、オフ会してやるよ。ただしヘイボンつきでな」
私はそれを聞いて大いに動揺して悩んだが、結局「ヘイボンさんにはエンカしたくない」と言って辞去した。正直なところヘイボンとかいう綽名のハイパー・イレギュラーに勝てる気がしなかった。にんげんおんな、マジで怖い。
音声チャットを切ってから、私はベッドに自分の拳を何度も打ち付けた。
「ちくしょう」と私は呟く。「もっと強くなりたい」
セツナのように、一人称をオレと言えるくらい、強い男に。
5年ぶりくらいにジーンズとシャツを着てみる。鏡を見る。うーん、あんまり男に見えないな。やるな私。髪の毛を伸ばしてるし、髭はなんか知らんけど全然生えてこないし、眉とかいじってるし、結構日焼けとかしないように気を使ってるし。すね毛ケアが結構大変なんですが、このあたりも剃った上でオーバー二―ソックスで武装してるんでうまいこと見えない感じになってますね。某なんとかこれくしょんのなんとかくんやったらいけるのでは?
いや、あれは男だからいいんだ。ダメだ。多分、お兄さまそういうの好きなんだろうなと思って首を振る。趣味が似通ってる。
スーパーロボット系のポーズをいろいろ決めてみる。男装感がある。自分はうまいこと無性っぽい生物になってんだなと思う。服をパージすると完全に男ですが。
やばい。久々に男ものを着込んだので気持ち悪くなってきたし、なんとなくイライラしてきた。やはり男はダメだ。なぜ神は人間を男と女、陽と陰の如くはっきりと分かち作ったのだ。魚とかなら成長の過程でどっちかに変わることが可能だと聞くぞ。人間もそれでよかったじゃないか。これだから神はダメだ。ニーチェ曰く神は死んだ。ざまあみろ。
吐き気でくらくらしながら音声チャットをオン。カメラもオン。
「おら! やったぞ、セツナ!」
「なん……だと……。ついに1周半しやがった」
セツナがカメラをオンにする。今日もお美しい。もうちょっとお肌のケアをした方がようございますよ。髪の毛もボサボサじゃん。ははあ、昨日徹夜かなんかしましたね?
「実はお前の最新のラブレター、お兄さま経由でいま解読に挑戦してるところだ。なんか量子コンピュータでRSA暗号をより効率的に打ち破る手法見つけたかもとか言っててさ」
「ぎえぴー!?」
マジかよ。量子コンピュータはあかん。スパコンでも1億年以上かかる計算を1月くらいでやっちゃうすごいやつだよ。特にRSA暗号は量子コンピュータが実用化して普及する前に切り替えなければ、とか言われてるくらい狙い撃ちされてるとかなんとか。知らんけど。いや、慌てるな。量子コンピュータはそんなにぽんぽん使えるようなもんじゃないはずだ。多分……。
「本気で?」
「オレが本気じゃないこと言うとでも思ってんのか? そろそろ学習しろ。成否はともかく、もし複合完了したらオレが一番最初に読むからそこは安心しろ。――ったく、オフ会の日取りはヘイボンに決めさせる。例の動画も仕上がったから、来れるやつは全員来させる。男は一人しかいない。ハーレムだ。喜べ」
「ヘイボンさんどうにかなりません?」
「ならん。アイツが主犯だ。アイツがいなければ何も進まない。世界の中心はおそらくヘイボンなんだろうな。諦めろ。死ぬ時間が来ただけだ」
オフ会の日は早着替えできるようにしとこうかな、と私は思った。そしてヘイボンさんの前で男⇔女の高速切り替えを見せて場をめちゃくちゃにしてやる。女子がいっぱい来る? 世の中どうなってんだ。この乱数は不公平だ。誰がいじった? テメエか、神よ。面倒ごとには利息がついて、しかも複利ってわけかい。
「セツナ、愛してる」
チャットは切られた。
復号不能暗号電文 Unr34d4b13 10v3 13773r サクラクロニクル @sakura_chronicle
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