死んだ筈だが、異世界で教師をやる事になった。

C

第0話 ある村の話

 その村には、神がいた。

 古くから村だけでなく国、民衆を守り続けてきた実在する神で大恩ある存在。

 その血を引く、国中の民衆が『彼』を信頼しており、神というよりは親を仰ぐような感情を向けていた。

 ――そんな、いつまでも続くと思われた関係が一変したのは、ほんの5年前。

 生贄が捧げられなければ、暴れ出すようになってから、今や誰もが神を――『彼』を、恐怖の対象として見るようになってしまっていた。


  ◆


 霧雨の中、山への入り口に大人が5人集まっていた。

 葬列に並ぶような消沈した顔が並ぶ中、一際暗く憔悴し切った顔の男がいる。

 この村の長である、その男の腕の中には幼い娘が抱かれていた。

 安らかな寝息を立てている少女の顔を、男は記憶に焼き付ける様に凝視している。

 柱の様な塚の間を抜け、大人たちが山へと踏み入っていく。

 その足取りは、ひどく重い。

 まるで、枷を掛けられた奴隷の行進であった。

 ――この行進に参加している者は、その誰もが肉親の命を『彼』に奪われてしまった、似た境遇の者達だった。

 あるいは伴侶を殺され、子供をその爪にかけられた者。

『食い扶持を減らせる』と笑いながら、若者を死なせないために自ら身を捧げた老人たちを親に持つ者。

 一方的で連続した殺人が罷り通る――こんな事態が、この村で既に5年も続いていた。

『彼』が人を喰った後、決まってあげる哀しい声。

 まるで正気を取り戻したかのような、聞く者の心を震わせる悲痛な叫び。

 それを聞いて人々は命を繋げられたと安心すると同時に、誰かの犠牲に胸を痛め――明日は我が身かもしれないと、罪悪感と恐怖に塗れながら日々を過ごしていた。

 老人達による挺身も虚しく、彼が暴れだす間隔は短くなってくる。

 ――この事態に、国の政府は村の責任者である男に対してある命令を下す。


『若い者を生贄として捧げよ』


 あまりに無慈悲な命令だった。

 生き残った子供は遠方へと避難させているので、村にはもう生業を最低限維持するための中年代の男女か、村の長である男の、幼い娘しか残っていない。

 もし他に若い者を捧げるなら――死んでもらうために、誰かの子供を呼び戻さなくてはならなくなる。

 苦悩の果てに、村の誰かの子供を選ぶ事べなかった男は――自分の子供を捧げる事に決めた。

 ……それがどれほどの苦渋を伴う決断であったかは、本人にしか分からないだろう。


  ◆


 木の葉のベッドに少女が横たえられる。

 森には似合わない、すぐ泥に汚れてしまうだろう白く煌びやかなドレス。

 それを嫁に行く娘を送り出す花嫁衣装のようだと意識してしまい、男の体が硬直してしまう。

 ――この子は、まだそんな歳でもないのに。

 それを着れるようになるまで育ててみせると、妻に誓ったはずなのにという死者への約束が男の脚を動けなくさせたのだ。

 動けない男の背と肩を、他の者達が震える手で強引に掴み、押して山を降りる。

 掴まれている男も、友人である彼らの気持ちが痛い程に分かっていたので無理にその場に留まろうとはしなかった。

 暗い森の中。

 一人置き去りにされた少女が、起きた時にどんなに怖がるかは――心を殺して、考えないようにした。


  ◆


 押し込められるように家に戻ってきた男は、茫然と椅子に座っていた。

(――こうするしか、なかったんだろうか?

 娘を連れて、自分の立場も何もかも捨てて逃げてしまえば良かったんじゃないか?)

 自問の言葉を頭の中で反芻する。

 未だにもう終わってしまった、取り返しのつかない事をしてしまったという実感が湧いてこなかった。

(――本当は、あの娘を山に置き去りになんかしていないんじゃないか?

 ついさっきまでの事は全部、幻だったんじゃないか……?)

 そうであってくれと、立ち上がり娘の部屋に入る。

 だが静まり返った部屋と、ベッドの上にあるのは皺もなく整えられたシーツだけで、そこに娘の痕跡を見出す事は出来なかった。

 虚脱感が膝を襲い、頽れる。

 今更になって滂沱の如く涙と後悔が心から溢れ出し、床を濡らした。

 ――そんな時だった。

 子供のように泣き始めた男の耳に――遠く、娘を置いてきた山の方から響いてくる轟音が飛び込んで来たのは。


  ◆


 男が到着した時、既に山を遠巻きにする人だかりができていた。

 不安と恐怖に揺れている人々の視線を顧みることなく、山からの轟音は今や村全体揺らす程となっていた。

(あの娘を生贄に捧げたのに、まだ喰い足りないというのですか……!!)

 意識が混濁する程の悲しみと怒りに、目から沸騰した水があふれる様に涙が零れ始める。

 足りないなら『彼』は村まで降りてきて人々を喰うだろう。

(……そして、それは間も無く訪れる)

 男の体は死への恐怖による緊張ではなく、娘と同じ場所へ行けるのだという諦観から脱力していた。

 ――せめて、最後の瞬間まで目を見開いていよう。

 妻子と同じ様に『彼』に食われるなら、きっと同じ場所にいけるだろうからと男が覚悟を決めた。


 ……しかし、終わりは一向に訪れなかった。


 山からは未だに轟音が響いて来はするものの、『彼』の巨体が麓まで降りて来る気配は全くなかった。

 奇妙な状況から冷静な思考に戻されてしまった男が、轟音に耳を傾けると……それはどこか規則的な破壊音であり、何かを狙っているもののように思えた。

(怒って、木々をなぎ倒している……? 

 いや、違う――一体何だ?

 暴れて……まさか、何かと戦っているのか?)

 もし戦っている何かがいるとして、一体どんな存在なら『彼』の暴力に抗えるというのか。

 突如、音が止む。

(何が、起こっているんだ……?)

 棒立ちになっている人々をかき分け、不安と戸惑い――そして期待が入り混じった表情となった男が、山へと駆けていく。

 我が子の身を案じる彼を止められる者は、誰もいなかった。


  ◆


 ――男が走って行った後。

 この先、ずっと。

『彼』の悲痛な叫びが、もう二度と村に響く事はなかった。

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