第4話 エレフィーリア市にて

 かつて、俺は不眠症を患っていた。

 友や義母達と死別した事故の後から、どうしてか眠りに落ちるというごく自然な行為ができなくなってしまったのだ。

 普通、人は疲れれば眠りに落ちる。

 気絶も睡眠に似た意識の喪失だと思って幾つかもの手段を試してみたが、それでも眠りに落ちる事はできなかった。

 ――いくら剣を振っても。

 ――走り抜いても。

 ――頭を使い続けても。

 まず脳の医者に掛かったが、脳細胞が変異を起こしている難病の類でもなく、ただ健康に意識が覚醒しているだけでしかないという診断結果が出るばかり。

 嘘をついている様子もない俺を見て医者は皆、首を傾げるばかりだった。

 あと、眠りを妨げる要因として考えられるものがあるとすれば、それは心理的なものではないか――という結果が出た。

 薬自体が効き難い体質なのか、人より多目の睡眠導入剤の処方にも目立った効果はなかった為、治療場所は心療内科に移る。

 だがやはり、健康的な態度と精神状態で検診に通ってくる俺を見て、医師は首を傾げるばかりだった。

 海外でも過去同様の症例を持っていた人がいて、その人も俗に言う睡眠薬が効かなかったという。

 結果的に、人より使う時間が増えた俺は、人が眠っている時間を鍛錬に割く事が出来て、誰かを助ける為の力を培えた。

 約束を果たす為に編み出した、出来てしまった〝一太刀〟だってきっと、眠らずに考え続けなければ手に入れられなかっただろう。

 ……ともあれ、こんな深い眠りは久々だった。

 だから、こんな水中を浮上していくような感覚だって久しぶりで、とても新鮮で――


  ◆


 ――目を開けると、白く細かな装飾の天井が見えた。

 起きる、というのは何かしらの容器にスっと落ち込むような感覚だった。次眠って起きた時は、違うかもしれない。

 それか、特に何も思わなくなっていくか。

 多分後者だろう。異常が無ければ日常の動作というのはそういった何気なく、当たり前に行われるべきものなのだ。

 意識して日常の動作をとる、というのは脳にとっては無駄が過ぎる。

 基本的に同じ動作繰り返す稽古や鍛錬となると、また違ったものになってくるのだが。

 上体を起こして周りを見ると、広々とした部屋の壁の真ん中位に、使っていない暖炉。壁の左奥には扉。

 敷物、ベッドの脇にある簡素な木製の棚の上には水差しと美しい竜が空を仰ぐ装飾の真鍮製ベル。

 あと看病用だろう椅子があった。室内を見渡すと、全体的に綺麗な装飾があって、いわゆる『西洋の豪華なお屋敷』といった造りだった。

 目を覚ましたらこのベルを鳴らして下さい、という事だろうか。

 確か最後の記憶は――森を案内してくれたフェリンが、彼女に似た面影のある男性に抱き着いた所で途切れている。

 ……あの様子なら、フェリンの今を心配する必要はないだろう。

 安堵から深く息を吐く。

 さて、次は自分の番だ。

 丁寧に巻かれた包帯の下は、まだ少し焼け爛れた傷跡が残っているようだが、過度の痛みはないので問題なく指先は動く。

 試しに指を人差し指から小指まで緩やかに一本づつ握り込んでいく。

 砂地で作った擦り傷で皮膚の下に砂利が残るように、黒竜の血が少し体の中に残っているが、きっとその内体外に出て行くだろう。

 そこまで考えた所で、控えめに扉が叩かれる。

「失礼します」という言葉の後に入ってきたのは給仕服――いわゆるメイド姿の女性で、その少し後に気を失う前とほぼ似た様な服装をしたフェリンの父親と思しき男性が入ってきた。全体的に緩やかなイメージの服。

 女性の方の耳は、長くない。

「おはようございます。お怪我の具合は如何ですか?」

「あ、おはようございます。指先まで問題なく動きます。こんな丁寧に手当して頂いて、本当に有難うございます」

「いえ、お礼を言うのはこちらの方です――少し、外してくれ」

 一礼してメイドさんが室内から去っていく。

 低めの声で親しみを感じる韻。

 不思議なもので一度別の場面で受け入れてしまったからか、友人に植え付けられた先入観からか、もう日本語が通じる事に何の違和感もなくなっていた。

「私はこのエレフィーリア市で伯爵として政務を任されておりますナルヴィエ・シェルヴィラントと申します」

「俺は――」

 深く頭を下げてくるナルヴィエさんに、慌ててベッドを降りて礼をしようとするが制止される。

「お心だけで結構です。今は体を休めてください」

「いえ、こちらこそお心遣いありがとうございます」

 失礼、と前置きして氏が椅子に座る。

 指を組み、何を切り出すべきかと思案していた。ややあって、氏が口を開こうとしたが、接近する慌ただしい気配に俺が首を向けた方向に氏もつられて目を向ける。

 間を置かず、壁の向こうからドタドタと荒々しい足音と共にノックもせずに扉が開け放たれた。

「お父様! ロシャに聞いたわ! 白騎士さまが目を覚ましたんでしょ!?」

 森にいた時より飾りが控え目な、赤と緑が多めの服。フリルの類は少なく、動きやすそうな短いスカートが捲れるのを気にせず走る姿は、正にお転婆と形容するより他なかった。

 父であるナルヴィエさんを押し退けて、ベッドにかじりついてくるフェリン。

「怪我は大丈夫ですかっ? どこも痛くない?」

「もう大丈夫だよ、心配してくれてありがとう。

 フェリンも怪我はしていないか?」

「大丈夫よ! だって騎士さまがまもってくれたもの!」

「そうか、なら良かった。でも――」

 ベッドから降りて膝をつき、目の高さを合わせる。

 伯爵、とナルヴィエさんは名乗った。

 この世界で貴族がどういった存在なのかは分からないが――間違いなく貴族の娘さんに失礼な応対をするのは自分にも、今後の彼女の教育にもよくないだろう。氏には目線と笑みで構わない事を伝える。

「淑女があまりドタバタと埃を立てながら屋敷を走ってはいけないよ。嫁の貰い手が無くなる」

 一瞬で少女の笑顔が凍り付いた。

「きっ……騎士さまのバカー!!」

 そこまで変な事を言った気はしないのだが、次の瞬間には頬を膨らませ、シーツを俺の顔に叩きつけてまた走りながら出て行ってしまった。

 あっという間の出来事に扉を見送ったままの俺を見て、こらえきれないといった様子で口元を抑えて笑うナルヴィエさん。

「嫌われましたかね……」

「いえいえ、あれで貴方のいない所で将来白騎士様と結婚すると言っていましたからね、そんな簡単には嫌いにならないでしょう、ふふっ、ははは」

 俺もつられて、苦笑いの様な表情をする。

 冗談のつもりはなく本心から出た言葉だったが、一日一回何とか人を笑わせるというノルマは達成出来たようだった。

 ――ひとしきり笑った後、ナルヴィエさんが真面目な顔に戻って腰を折り、頭を深く下げてくる。

 フェリンのおかげで空気が和らいだからだろうか。

 ナルヴィエさんが口元を引き締め、覚悟を決めた顔で頭を下げてくる。

「この度は娘を助けていただき、本当に有難うございました!!

 もうフェリンには、娘には二度と会えないと……!!」

「顔を上げてください! 私自身、危険な森で右往左往していた所を娘さんに案内していただけたんです。おあいこですよ!」

 綺麗な寝所まで用意してもらい治療までしてもらっている事を考えると、正直申し訳なさの方が込み上げてくる。

 ……気になる事はまだあるが、それはすぐに問う様な事でもない。

「あ、私自身の紹介をしていませんでしたね。刃鳴斬哉です」

「ハナリ……韻からして九霊録からか、それともモルベタス洋の向こう、別大陸から来られた方でしょうか?」

 ……もう分かっている事ではあるが、いよいよ自分の立つ場所が地球ではない事が判明してきた。

 地球に存在する六つの大陸に、ベルグランなんて呼称は存在しないし問われた国の名前も全く聞き覚えがない。

 ……だけど、それをどう切り出したものだろう。

 思案を巡らせようとした所で、ナルヴィエさんが口を開いた。

「……もしかして、日本から来られた方ですか」

「えっ――日本国を御存知、なのですか?」

「ええ。竜連盟の成り立ちにも関わりがある存在ですから」

 別々の方向からの、精神的衝撃。

 ここが地球ではない事――そして自分が、異世界に転移してしまった事の確定。

 ……どういう 顔をすれば、いいのだろう。

 何で俺だけが、俺よりもっと相応しい人がいるのではないか。

 自分が生きている事を嬉しく思うより、そんな気持ちが先行するからか、この場に適した表情を浮かべる事ができなかった。

 ……多分、日本という言葉を知っている人に会えたのだから孤独ではない事を素直に嬉しがるべきだとは思うんだが。

 とりあえず、ナルヴィエさんの表情を観察する。

 日本という単語を口にした彼は、そこまで異質だったり禁忌とされているような重さ・・がある単語を口にした様には感じられなかった。

 それは彼にとってごく自然な存在なんだろう、というのが見て取れる。

 見て取れるからこそ、逆に一体日本というものがどう彼らに関わっているのか――その事情が深さが伺い知れる気がした。

 少し思案した後、幾つか気になる点を問うてみる。

「……私の様に、日本からこちらに転移してくる人間というのは珍しくはない……という事でしょうか?」

「いえ、珍しくない訳ではありません。異世界から来られた方は、大体10年に1度の割合で確認され、竜連盟に帰化なさっています。

 他国での、異世界転移者については情報が少ないので何とも言えませんが……

 ですが大きな冒険者ギルド等を要するシェルティラ皇国を始めとして他国から来る、特殊な能力を持っていたり、一つ頭の抜けた実績を持つ冒険者は異世界転移者に――転生者も多い、という話は耳にします」

「転移ではなく、転生?

 生まれ変わりという認識でよろしいでしょうか?」

「はい。ただ転生者に関しては生前の世界の記憶を持っているかいないか、後は自己申告になりますので判別が難しい所もありますね」

「なるほど……ありがとうございます」

 帰化、という事は俺の様な人間を受け入れる社会制度がある……という事だった。

 エルフという種族の外見から抱いていた、中世的な、幻想世界といった観念が消し飛んでいくのを感じる。

 下手をすると、俺がいた時の地球よりも文化……いや、近代的なものがあるようにすら思える。

 思ったより凄い所に来てしまったらしい。

 少し、天井を仰いだ。

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