彼らの棲む野

烏目浩輔

彼らの棲む野

 武蔵野のという呼称は関東の広い範囲を示し、東京都、埼玉県、神奈川県の一都二県をまたぐ。そのため、武蔵野と一括ひとくくりにされてはいるものの、地域それぞれでずいぶんと様相が異なる。住宅や商業施設が密集する賑やかな地域もあれば、昔ながらの暮らしや自然が残る田舎町いなかまちも存在する。

 私が生まれ育った所沢市の西部は後者寄りの長閑のどかなところだ。茶畑のある風景が美しく、細流では小魚が遊びまわる。時間の流れや人の動きは、良くも悪くもいっテンポ遅い。


 そういった自然の残る地域には様々さまざまな生物のいとなみがあるが、武蔵野の固有種であるハクヨウが生息していることは、武蔵野に住む人々の中でもあまり知られていない。私がそのハクヨウをと呼ぶことがあるのは祖父の影響にほかならない。

 今は亡き祖父がそう呼んでいた。


 私がはじめてハクヨウを目にしたのは、かれこれ四十年近くも前のことだ。現在の私は妻子持ちの中年男だが、当時は小学五年生の青臭あおくさい子供だった。

 きっかけはある日の電話だ。ハクヨウへの対処役をになっていた祖父のもとにこんな連絡が入った。

 ハクヨウにかれたかもしれない。

 私は祖父につれられて連絡してきた家へと向かった。


     *


 その日は五月の初旬で、小学校は連休中だった。

 祖父が運転するおんぼろの軽トラックは、いつ乗ってもタバコのきついにおいがした。服や髪にこびりつくようないやな臭いだったが、祖父が死去した今となってはそれも懐かしい。


 連絡のあった家に到着したのは確か昼の二時頃だ。祖父はその民家の前に軽トラックを停めると、黒い弁当箱のようなもの手にして車外におりた。私も祖父に続いて車から出た。

「いいか、うちの家系は代々への対処役を担ってきた。いずれはお前がわしのあとを継ぐことになるだろうが、それには早くから知識をつけておく必要がある。この家で見聞きしたことをよく覚えておくんだぞ」

「難しくない? 俺、覚えられるかな」

「なに、今日ですべてを覚えろとは言わんさ。これからこういった機会を何度ももうけていく。徐々に覚えていけばいい」

 祖父とそんな話をしてから家に入った。


 私たちを出迎えたのは共に五十がらみであろう夫婦だった。ふたり揃って顔が疲弊しているのは心労のせいだろう。ハクヨウに憑かれたのは夫婦のひとり娘らしかった。

 娘は二階の自室で眠っているそうで、私たちはすぐにその部屋に通された。

 部屋は畳の青い匂いがした。窓際に敷かれた布団で横になっている女性が夫婦の娘とのこと。娘が私たちになんの反応も示さなかったため、私は一瞬死んでいるんじゃないかと思った。


 夫婦は神妙な面持ちで娘について説明した。

「最初は身体からだが少しだるいといった程度でした」

「ですが、だんだん怠さで起きていられないという日が増えて……」

「近頃では何日も眠り続けるといったこともあります」

「今は二日前から眠り続けている状態です」

 説明を終えた夫婦は私たちの残して部屋から出ていった。祖父がしばらく別室で待つようにと告げたからだ。ハクヨウに対処するにあたって他者の目があると集中できない。祖父はそういった理由をもっともらしく口にしていたが、真意は私にハクヨウのあれこれを教えるためだったに違いない。


 祖父は眠っている娘の枕元であぐらをかき、持ってきた黒い箱を自分のすぐ横に置いた。そして、反対側の畳をぽんぽんと手で叩いて私に指示した。

「ここに座れ」

 私はその指示に従って、祖父の隣に腰をおろした。

「お前はまだのことをよく知らん。まずはそこから教えねばな」

 当時の私はハクヨウにかんしてほぼ無知だった。

「彼らはフクロウによく似た鳥でな、長年彼らを見てきたわしでも、フクロウと見間違うことがある。しかし、姿形はフクロウとそっくりでも、食性はフクロウとは異なる。フクロウがうのは小動物や昆虫だが、彼らが喰うのは夢だ」

「夢? 寝てるときに見る夢のこと?」

「そうだ。彼らはその夢を喰って生きている。もっとも、人間の夢を喰うのは仕方なくではあるのだがな。人間以外の動物も夢を見るものだが、本来の彼らは動物の夢を喰い、人間の夢など喰ったりしなかった。しかし、人間が自然を壊したがために、彼らの棲む林や森が失われしまったんだ。彼らはやむなく人間の世界に出ていき、人間の夢を喰うようになった」


 話はなおも続いた。

は夢を喰う相手を一度決めると、その相手の夢を何度も続けて喰う。そうやって彼らに狙われた状態を、わしらはと言っている。わかるか?」

「うん、なんとなく」

 祖父は布団で眠っている娘に視線を落とした。

「慣れてくると憑かれているかどうかが、その相手に近づくだけでわかるもんだ。この娘さんは憑かれているな。夢をだいぶ喰われてしまったようだ」

「ハクヨウに夢を食べられたから、この人はずっと眠ってるの?」

「そういうことだ。身体からだというのは心によって支えられているものでな、夢は心の一部であってそれを喰われると心が減る。野生動物の心はそうやわではないから、多少は夢を喰われても問題は起きんが、人間が夢を喰われると心が不足して身体を支え切れなくなる。支えを失った身体では活動がままならん。眠り続けるといったことも起こるし、最悪の場合だと死に至ることもある」

 小学生の私には難しい話だったが、最後の部分だけはよく理解できた。

「この人も死ぬってこと?」

「そうならんようにわしらが対処する。彼らを捕まえて人里離れた自然の中に返してやるんだ。人間以外の動物が多くいるところであれば、彼らはその動物の見る夢を喰う。人間の夢を狙ってわざわざ人里には出てこんさ。この娘さんの夢も喰われなくなり、自然と心が回復していき元気になるだろう」


 祖父はこんな話もした。

「普段のは路地裏などの物陰に隠れてじっとしている。ほとんど動かんのだ。だが、腹が減ってくると動きはじめる。憑いた相手の家に忍びこんで夢を喰い、腹が満たされると家から出ていく」

 ならば、戸締りをしっかりして侵入を防げばいい。だが――

「彼らに戸締りは通用せん。人目を盗んではどこかの隙間から忍び込んでくるからな。それなりに大きな鳥だというのに不思議なもんだ」

「なんだか怖いね……」

 当時の私にはハクヨウが幽霊のように思えた。

「確かに恐ろしい生き物だな。しかし、夢を喰うなんて神秘的だとも思わんか? 彼らを甘く見てはいかんが、わしは彼らがわりと好きなんだ。お前も彼らを一度見てみればわかる。神秘的で美しい生き物だぞ」

 今になって思うと、祖父はハクヨウを排除する立場にいながら、ハクヨウに魅入みいられてもいたのだと思う。その気持ちがと呼ばせていたのだろう。もしかしたら神秘的なハクヨウに畏怖いふに近い想いまで抱いていたのかもしれない。


「肝心の彼らを捕まえる方法だがな」

 言いながら祖父は、黒い箱の中から線香に似たものを取りだした。だが、色は線香ぜんとした緑ではなく藍色だった。

「このこういてっていればいい。こいつの煙は人間にはなんの影響もないが、彼らが吸いこむと微量でも身体が麻痺する。彼らはこの娘さんの夢を喰いにまたここにやってくる。香を焚いて待っていればすぐに捕まえられるさ」

 祖父はまた黒い箱を覗きこんでいる。今度は白磁はくじ香炉こうろを取りだした。

「さっきも言ったが、捕まえた彼らは自然に返す。この界隈だと狭山丘陵さやまきゅうりょうあたりだな」

 およそ三千五百ヘクタールの敷地を有す狭山丘陵は、東京都と埼玉県の都県境に広がる自然豊かな地だ。武蔵野の里山が昔ながらの景観のまま保存され、樹林や湖に多種多様な生き物が息づいている。そこにハクヨウを放つという。

 祖父は藍色の香に火をつけると、それを白磁の香炉に立てた。香は非常にゆっくりと燃えるらしく、丸一日細い煙を漂わせるそうだ。そうやって香を仕掛け終えた祖父は、夫婦と少し話をしてから私を連れて家を出た。


 ハクヨウを捕まえたのは翌日の昼過ぎだった。夫婦から連絡があり家に向かうと、娘の枕元でフクロウに似た鳥がじっと屹立きつりつしていた。

 ハクヨウは祖父の話どおりに美しい生き物で、錦繍きんしゅうのような毛並にも目を奪われたが、存在そのものに気高けだかさがあるように感じた。

 それと同時に恐ろしいとも思った。香の効力によって身体が麻痺しているハクヨウは、動きこそしないものの静謐せいひつに光る目を私に向けていた。その深い目にすべてを見透かされているようで、冬でもないというのに首筋がひんやりとした。


 祖父はハクヨウのかたわらに片膝をつくと、厳しい顔をしてボソボソと呟いた。

「自由を奪ってすまんな……」

 それからハクヨウを抱えあげて家を出たあと、タバコくさい軽トラックで狭山丘陵に向かった。


     *


 生前の祖父は誰よりもハクヨウに魅了されていたように思う。その祖父も喫煙がたたって早くに亡くなってしまったが、以後は私たちがハクヨウへの対処役を担ってきた。祖父から私の父に、父からこの私に、対処役は引き継がれている。


 ただ、ハクヨウに憑かれる事例は年々減少しており、ここ十年にいたっては憑かれた者がひとりもいない。祖父と父のだいで多くのを自然に戻したというのも理由のひとつだろうが、近年の武蔵野において自然が大幅に失われていないというのが最たる理由だ。

 武蔵野では自然環境の保全活動が積極的に行われている。自然が残っているのであればハクヨウは人の生活圏に姿を見せない。本来の彼らはそういう性質の生き物だ。


 人の暮らしを豊かにするための街づくりは、もちろんこれからも続けていくべきだと思う。だが、人の都合ばかりを優先していると狂いはじめるものもある。人の都合と自然のいとなみ。両者の均衡きんこうを保つことがなにより重要であり、今のところ武蔵野ではそれがうまくいっている。


 このまま武蔵野の均衡が保たれるのであれば、ハクヨウを目にする機会はますます減っていくはずだ。もし、祖父がまだ生きていれば、それを寂しく思っただろうか。あるいは、それが本来の彼らだと満足げに笑うだろうか。





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