浅間公園より
踏み切りの音が弾む街。
緩やかな風が運ぶ香りは、爽やかな朝を鮮明に彩る。
電車が通りすぎたタイミングで、俺はポケットからスマホを取り出した。
四回目のコールで、応答があった。
「やっほ。・・・もうすっかり春だね。」
景色に馴染む、瑠璃色の声。鈴のように軽やかで、耳にスッと入るトーンだ。
電話の向こうから聴こえるナツメの声は、春のイメージにピッタリとはまった。
「ああ。今、浅間公園に行くとこだ。」
「懐かしいなあ。きっと、桜がいっぱい咲いてるんだろうね。」
「多分な。写真でも撮って送ってやるよ。」
「それはどうも。でもさ、やっぱり実物を見てみたいって気持ちになっちゃうよ。」
その声は、心底見られなくて悔しいというニュアンスで満たされていた。
「春休みだろ? こっちには帰ってこないのか?」
「そりゃあ帰りたいのは山々だけど、私は今、やるべきことがあるから。満足の行く結果を担いでおかなきゃ、君と会うなんて出来ないよ。」
ナツメは静岡の美大に通っている。
俺とは高校の美術部からの付き合いだ。
私は芸術で食っていくんだと言い残して地元を離れていった単身の少女。
浮世離れした朝の景色とは裏腹に、富士の向こう側で必死に現実と向き合っているんだ。
大層な願いも掲げられずに、同じ場所に居座り続けた俺とは違う。
「だから私の分も細やかに見てよ。春の桜の鮮やかさと、朝露の息を飲むほどの透明さを。」
「・・・詩人みたいなこと、言うんだな。」
「だって私は、そういう風に感じたから。感じたことをそのまま言葉にしただけだよ。」
やっぱり俺とは、何もかもが違う。
階段を登って広場に着くと、そこにはたった一言で表すことの出来る景色があった。
満開。
他の言葉が蛇足なほどに、それは美しく咲き誇っていた。空を覆ういっぱいの桜と、側にそびえ立つ五重塔。遠くに見える富士山。
『息を呑む』はきっと、このときのためにある言葉だ。
「・・・きれい?」
電話の向こうからそう聞こえた。
「・・・ああ。俺の写真技術じゃとてもじゃないけど、再現出来ねえな。」
「それは良かった。私の期待も膨らむってもんだよ。」
「・・・なあ。」
「うん?」
「やっぱり、見に帰ってこないか?」
俺は耐えきれずそう口走る。
ナツメの気持ちより俺の気持ちを優先させて。
足を引っ張ることも、分かりきった返答もお構いなしに。
「すごい、きれいなんだ。毎年見てたけど、今年はちょっと違う。今までよりも鮮明で、色濃くて、香りも豊かで・・・。こんな景色見れないなんて、きっと損すると思うんだ。だから。」
「分かってるよ。」
ナツメは一言で俺を遮る。
「きっとそこには、今の私たちじゃないと見えない景色があって、それを今、君だけが感じているんだってこと。君が今、春真っ盛りの景色に圧倒されまくってるんだってこと。電話越しでもすごく伝わる。」
富士山越しでもハッキリと。
彼女は加えてそう言い放つ。
「けど、やっぱりその景色を見るのは今の私じゃない。たとえ望むような形じゃなくても、納得するような結果が出せないとしても。」
電話の向こうは春の匂いだ。走り出していく、最初の季節。
「私は最後までやりきって、その後で満開の景色を見たい。」
「・・・そうだな。ごめんな。変なこと言って。」
「ううん。けど。」
ナツメの声は鈴のように響き渡る。耳の内側に。心の周囲を飛び交うように。
「その景色には、君もいるから。」
「・・・ああ。」
それは不安になっていた俺を救う、たった一言の慰めだった。けれどそんな短い言葉が、俺の心を呼び戻していく。
「俺も、何か出来るかな。」
「何かって?」
「ナツメみたいに夢を追ったり、こんな景色から離れてみたり。詩人みたいな台詞を言ったり。そんな、昨日の俺と違うことが。」
「出来るよ。」
ナツメは自信満々にそう言った。
山を挟んだひとつ向こうで、強く生きているちっぽけな少女。
彼女はきっと、春のど真ん中にいる。
「私たちはまだ、始まってすらいないんだから。」
短編集 『ワンシーン』 七瀬 祥太郎 @nanasesyo13
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