後篇

 またその日も、秋の色づいたカエデの葉が世界を紅く染めていた。


 私はいま母とふたりで暮らしている。こんな状況が訪れるなんて数年前は想像もしていなかったが、人生なんて得てしてそういうものだ。ちょっと先の未来も分からない。


『久し振りにちょっと会いたいな』


 そんな連絡が私のもとに届いたのは、三日前のことだった。もう二年くらい会っていない沙希からだ。普段よりすこしよそよそしい感じのする文面に、何かあったのだろうか、と不安になってしまう。だって特別な出来事以外で連絡を取り合うこともなくなっていたから。


 悪い話じゃなかったらいいけど。


 特に私自身、つらい出来事が立て続けに起こったから余計にそう感じてしまうのかもしれない。


 三十歳が数年後に待っている私には、まず離婚があり、そして父の死があった。


 私のかつてのパートナーは、もちろん高校時代のはじめての恋人ではない。彼とは住む距離の遠さがそのまま心の距離となり、そのままどちらかが別れの言葉を言い出すまでもなく、自然に消滅するような関係になってしまった。私が結婚した相手は、大学卒業後すぐに入った電機メーカーで、事務をしていた頃に出会った物静かな、絶対に口には出したくないが、どこか父に似た雰囲気のある男性だ。


 離婚の原因と聞かれると、私にも、おそらく彼にも分からない。


 不倫とか家庭内暴力とか、そんなことはなかった。性格の不一致、というのは、まぁそうなんだろうけれど、言葉にしてみると、どうもぴんとこない。はっきり言ってしまえば、原因はなんとなくだ。こういう言い方をすると、ひどく雑に聞こえるかもしれないが、なんとなく付き合って、なんとなく結婚した私たちには似合いの終わりのような気もする。


 離婚したあと、私は実家に戻って、両親と一緒に住む選択をした。


 すこし無職のままふらついた時期もあり、両親は表立って私を批難したりはしなかったが、迷惑を掛けてしまった、という気持ちはやはり大きく、ようやく働きはじめた頃に父が死んだことで、その後悔をさらに強めた。自分の存在がストレスとなり、父の寿命を縮めてしまったのではないか、とそんなふうに。


『そんなことないよ。だってお父さん、あなたが家に戻ってきて、顔が明らかに嬉しそうだったから』


 私が父の死に対する後悔を漏らした時、母はそう言った。


 私自身の最近がこんな感じだったこともあって、沙希からの連絡に不安を抱いてしまったのだろう。そして事前にいくつかの言葉を予想していたのだ。ある程度、どんな話をされてもいいように。


 だから、


「ねぇ、浩司こうじくんと最近会ったりした?」


 とまったく予想もしていなかった沙希の言葉に、「へっ」と思わず私は間の抜けたような返事をしてしまった。


「会ってないけど……」


 浩司くん、というのは、私のはじめての恋人だった彼の名前だ。


「実は、この前、偶然会ったんだ。それで莉子の話になったんだけど……、ねぇ、莉子、むかしさ、彼に動画、見せられなかった?」


「見せられた」


「最後まで見た? ……見た、というか、聞いた、か」


「いや、彼が途中で止めたから」


 高校時代の彼とその背景で秋風に揺れるカエデの葉が、私の頭に浮かぶ。懐かしく、すこし切なくもなる想い出だ。


 彼はあの動画を繰り返し聞いた、と言っていた。実は私もそのあとまた聞きたい気持ちになったのだけど、そのたびになぜか聞いてはいけないような思いになり、そしてなんで罪悪感を覚えているのか、その正体が掴めなかった。


「実は、あれを彼に教えたの、私なんだ。動画を色々とめぐってたら、たまたま見つけて。聞いてたら、なんか懐かしい感じがして、あっ、莉子の歌声に似てる、って思ったの」


「うん」


「浩司くんと会った時、ちょうどその話になって。あれ、莉子の声に似てたよね、って。それでまた聞きたくなって探したんだ。あの〈幻の歌姫〉の動画。もう消されてるかな、って思ったんだけど、まだ残ってたんだ……それで、さ。あの時は気付かなかったんだけど、いまになって聞くと、気になることがあって。もう一度、聞いてもらっていい?」


「思わせぶりだね。……聞くよ。これで聞かなかったら、たぶんきょう寝られなくなる気がするから」


 私の言葉に、沙希がちいさく笑った。言い方が、莉子らしいね、と。私からすれば沙希のその笑い方も、沙希らしい、と思った。


 ずっと聞こうとして聞けなかった歌声は、今回どんなふうにして私の耳に届くのだろう。


 沙希が私の前に、自分のスマホを差し出した。


〈幻の歌姫〉


 やっぱりあの頃とは変わらず、そこにはそんなタイトルが添えられていた。


「今回の目的は、歌じゃないんだけどね」


「どういうこと?」


「まぁいいからいいから。どうする歌も聞く?」


「うん」


 すこしためらいはあった。でも私は頷いた。


 私は沙希のイヤフォンを借りて耳に付けると、沙希が再生ボタンを押した。あの頃の彼とのやり取りに似ているな、と思った。と言っても、沙希は別に私とキスするような間柄ではないが。


 そして雑踏の音とその中に混じっても自分を見失わない心地よくハスキーな歌声が聞こえてくる。


 やがて彼女の歌が終わり、路上で歌っていたのだろう彼女に贈られるまばらな拍手が聞こえてくる。いまになって思ったのだが、この映像は誰が撮っていたのだろう。そんな疑問を抱いたのと同時に、男性の声が聞こえてくる。


 その男性が彼女の名前を呼び、私は静かに目を瞑った。



「ねぇ、お母さん。ひとつだけ見て欲しいものがあるんだ」


「何?」


「〈幻の歌姫〉って知ってる?」


「さぁ、なんのこと」


「分かってて、とぼけてるでしょ。あれ、お母さんでしょ」


「もう。見なくていいものを」と母がちいさく溜め息をつく。「むかし、ほんのすこしだけ路上ライブとかやってたことがあったの。お父さんが、絶対に個人情報は出さないから、って言って。録画してたやつ、仕方なく投稿するの許したんだけど、まだあったんだ……。ちゃんと私の名前隠せてるか、チェックしておけばよかった」


「見てなかったの?」


「自分のむかしの歌声なんて、聞きたくないからね」


 母が困ったような笑みを浮かべる。


 すこし父の気持ちが分かる。路上ライブをしていた頃の母がどういう思いだったかは知らないが、すくなくとも私の知る母は目立ったり、有名になったり、そんなこととは無縁に生きていたいと願うひとだった。でもその歌声を知る周りの人間からすれば、もっとこのひとを知って欲しい、と歯がゆく感じたのかもしれない。


「お父さん、別にお母さんの名前を意図して載せたわけじゃないよ。偶然ちいさく、お父さんがお母さんの名前を呼ぶ声が入ってただけ」


「本当に、詰めが甘いんだから……」


「なんで、人前で歌うの、やめたの?」


「恥ずかしいからね」


「それだけ?」


「あぁ、あとあなたが私の子守歌を嫌がるからね。自信をなくしたの」


 冗談か本気なのか分からないような口調で、母が言う。


 でも……そうか、子守歌か。私はずっと私と歌を繋いだ、入り口になったものは沙希のお母さんの歌声だとばかり思っていた。でも本当のはじまりは、もっと前にすでにあったのだ、きっと。



 私の世界には、はじめに歌があった。



「ねぇ歌ってよ」


 母は、じゃあすこしだけ、と言って私のためだけにちいさな鼻歌を聞かせてくれた。


 多くの耳に届く歌声もそれはそれで素敵なことだ。たとえばかつて沙希のお母さんが教えてくれたように、うまさの根源はそこにあるのかもしれない。だけどそれだけが歌じゃない。自分のために、あるいは近くで聞いてくれる、届けたいひとのためだけに届けられる歌も、同じくらいに素敵なことだ。


 私だけの歌が、母だけの歌があり、そして母と私だけの歌があり、父と母だけの歌がある。そこに他の誰かはいらない。


 母の歌声に耳をそばだてながら、


 ぼんやりと窓越しの景色に目を向けると、茜色の空の下で、カエデの葉が揺れていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

VOICE 幻の歌姫 サトウ・レン @ryose

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ