水底にあるのに、空にもっとも近い草原
荒川アルドー
水底にあるのに、空にもっとも近い草原
僕が彼女と出会ったのは、あるいは出会わなかったのは、電車の中だった。
夜の東急東横線はいつも混んでいて、僕はつり革に掴まりながら立っている。目的の駅に着くまではまだ長い。電車内でスマホを眺めるのは嫌いだった。読書でもしようかと思ったけれど、あいにくバッグに入れているのは分厚く重たいハードカバーだ。片手で持つには重すぎるし、そもそも今の気分は読書に向いていない。
スマホも本も駄目ならば、他のところを眺めなければいけない。
視線を右に向けると、何枚か貼られた車内広告が目に入った。
「今ならポイントがたまるキャンペーン」
ポイントを人質に取られている気分だ。
「今から脱毛すれば、夏には間に合う」
夏までに僕をつるっ禿にするつもりか?
「あなたの価値はその程度じゃない」
人気女優が笑顔でガッツポーズをしている。
それらの広告を見ていると、ただでさえ滅入っている気分がさらに滅入ってきた。
視線を左に向けると、電車の入り口付近に立っている若い男がいた。彼はスマホを一心不乱に操作している。僕は視力が良いから、画面に何が映し出されているかわかる。おそらくビジネス関係の情報サイトだろう。大きなゴシック体の記事タイトルが読める。
「もう我慢するのはやめよう。成功者になりたければ『ちょっと悪いやつ』に学べ」
うえっ。
視線を下に向けると、席に座っている男の頭頂部が見えた。くそっ、こいつもスマホをいじっているじゃないか。うっすらと見えた画面から察するに、誰かとメッセージのやり取りをしているに違いない。
こうなったら、ただひたすら前を向いているしかなかった。
「次は中目黒、中目黒」
電車が速度を下げ始めた。
前を向くと、僕は僕自身と目が合った。電車の窓ガラスが鏡となって、車内をそっくりそのまま映しているのだ。自分を見るという行為はなんでこんなに嫌なんだろう。ひょろひょろした身体に、散髪を怠ったせいで少し長すぎる髪の毛。しかも朝に剃ったばかりの髭が少し伸び始めているじゃないか。服装についてもいろいろ文句を言いたい。
なんで今夜の僕はこんなに悲観的なんだろう。
電車が駅に停車すると、多少の人数が降りて、さらに多くが乗ってきた。さっきよりも窮屈になった電車が再び走り始める。
僕はまた正面の自分を見た。相変わらずそこには僕が立っていて、僕以外の何者にも変わりようがない。僕がつり革を握り直せば、ガラスの僕もつり革を握り直し、僕が一瞬だけ口角を上げれば、ガラスの僕も一瞬だけ口角を上げる。悲しいまでに僕自身だ。
自分をこれ以上見続けるのは得策じゃない。さっきの広告を眺めていた方がましだ。そうやって視線を右へと移した瞬間、僕の心臓はどきりと跳ね上がった。
電車が少し強めに揺れたせいじゃない。
たった今、僕が彼女と出会ったからだ。
あるいは「出会った」なんて表現は不適当かもしれない。僕たちは直接顔を向き合わせているわけではない。
僕の右隣、高校生の男の子と40代初めくらいの女性によって隔てられた位置に、彼女はつり革に掴まって立っていた。彼女はスマホをいじっているわけでも、本を読んでいるわけでもない。僕と同じようにただ前をぼんやりと眺めている。そして目の前のガラスに映っている彼女の姿を僕は見ているわけだ。
なぜ僕の心臓はこんなに高鳴っているのだろう。
歳は20の半ばに達したくらいだろうか。美人といえば美人だが、そこまで美人というわけではない。今日の昼間のカフェで、僕の隣の席にいた女の子のほうがよほど美人だった。お洒落といえばお洒落だが、なんだか今ひとつな気もする。さっき駅の改札ですれ違った女の子のほうがもっと気の利いたコートを着ていた。
まあ、理由なんてどうでもいいさ。とにかく僕の心臓は高鳴っていて、それは彼女の姿を見た瞬間から始まったのだ。
電灯の強い光が電車の外を通り過ぎて、それに合わせて彼女の瞳が動いた。
ガラス越しとはいえ、彼女は僕の視線に気づくだろうか。こんなに見つめ続けていて大丈夫だろうか。いや、多分こちらには気づかないだろう。僕と彼女には決定的な違いがある。僕はガラスの表面を見ているが、彼女は外の景色を見ている、という違いが。
「次は学芸大学、学芸大学」
とにかく、僕は彼女と出会った。目の前のガラスの中で。
学芸大学駅で、僕の隣の高校生が降りた。
電車がまた走り出す。
彼女は一体どういう人なのだろう。平日の夜の東急東横線、しかも下り方面に向かう電車に乗っているわけだから、おそらくは仕事帰りなのだろう。革製の白いハンドバッグを肩からかけずに、つり革に掴まっている手の肘にぶら下げている。
僕はその白いバッグの中身を想像する。
結構ぱんぱんに膨らんでいるから、いろいろと詰まっているのだろう。仕事で使う書類を入れたクリアファイルが入っているかもしれない。リップを何本も持ち歩いていて、一日に何度も唇を塗り直すタイプかもしれない。暇を潰すために本も用意しているだろうか。
こうやって女性のバッグの中身を想像するとき、いつも僕は宇宙のことを考えているような気分になってしまう。
僕はバッグの重みを想像する。
細くて堅そうなバッグのハンドルが彼女の肘に食い込んで、コートの袖が少し引きつれている。あの状態を何分も維持できないだろう。あと少しすれば、肘でぶら下げることをやめて手で握るか、つり革を持ち替えて―ああ、やっぱり、もう片方の手に移した。僕は、だらりと下げられて楽になった彼女の片腕、コートとシャツに隠された肌を想像する。そこにはハンドルのかたちがくっきりと残って、しばらく赤くなったままだろう。帰宅してシャワーを浴びるとき、彼女の指はゆっくりとその跡をなぞるだろう。
「次は自由が丘、自由が丘」
彼女のすぐ隣にいた女性はしばらく微動だにせず立っていたが、ここが自分の降りる駅であることに気づいたらしい。はっとした表情になったあと、そそくさと降りていった。
電車が走り出す。
僕と彼女は隣同士になっていた。ただし、人間二人分の間隔を空けて。
さっきから僕は、実際の彼女の姿を一度も見ていない。電車の窓に映った彼女しか見ていない。夜の闇に浮いている彼女は、ただひたすら前を向き、何か物思いに耽っている。今右側に首を回すだけで、そう、ちょっと右に回すだけで、僕と彼女は本当の意味で出会う。
話しかけるべきだ、僕は。
そうだ、彼女と話すことができたらなんて素敵だろう。
第一声はどうすべきか考える。
「こんにちは。お仕事の帰りですか?」
違う。
「この後、どこか食事にでも行きませんか?」
だめだ。
「さっきから窓の外の何を見ているんですか?」
やめておけ。
いくつかの候補が即座に思い浮かび、そのすべてが瞬く間に却下された。見知らぬ男から、いきなりこんなことを言われたらたまったものじゃない。彼女に切り出すべき言葉を、僕は何ひとつ持っていなかった。
「次は田園調布、田園調布」
次の駅が近づいてくる。
ただ彼女を見ればいい。ひと目、彼女を直接見ることができればそれでいい。
僕は全身のすべての力を首に込め、右へ右へと回していく。
もしかしたら。そう、もしかしたら、彼女も左へと顔の向きを変えているかもしれない。ちょうど僕も顔の向きを動かし終わる。僕の視線と彼女の視線とが交わり、そこでぴたりと止まる。その瞬間、世界そのものもぴたりと止まる。
僕たちはお互いの顔をまじまじと見つめ合う。
会話はない。つまらない言葉も肩書きも必要ない。相手の年齢も知らないし、仕事帰りなのか、学生なのかも知ったことではない。バッグに何が入っていようがどうでもいいし、そこまで顔がかっこよくなくても、美人でなくても構わない。
僕は思う。僕たちは出会うべくして出会ったのだ、と。
彼女も思う。私たちは出会うべくして出会ったのだ、と。
僕たちは一言も発さず、相変わらず人間二人分の間隔を空けて立っている。しかし重なった視線を逸らさないまま、降りるはずだった駅すらも忘れて、隣同士で立っている。
やがて電車は終点に着く。二人は我に帰ると、きょろきょろと辺りを見回す。車両内には僕と彼女以外に残っている人はいないし、ホームに降りても無人だった。
きっとその終着駅は海辺の駅なのだろう。改札を抜けるとすぐそこは海岸で、闇の中に水面が輝いていて、いや、海に見えたあれはどこまでも続く草原かもしれなくて。きっと僕たちはそこに入っていく。どちらかが先導するのではなく、二人とも肩を並べて。草は胸までの高さがあって、僕たちが通り抜けていくとサラサラと音が鳴る。手の甲に草が当たって、肌に細かい傷ができるが、バッグをぶらさげてできた跡に比べればたいしたものじゃない。
しばらく歩くと、ぽっかりと草の生えていない場所がある。僕たちは服が汚れるのも気にせず、土の上に腰を降ろす。
見上げればそこにはやたら巨大な月が浮かんでいて、僕たちを青白く照らしている。クレーターのひとつひとつを、光の反射しない黒い部分すべてをはっきりと見ることができ、永遠に眺めていられるような気分になる。それでいてその鮮明さとは矛盾するように朧気に霞んでいて、まるで水面越しに見上げているかのように静かに揺らぎ、凪いでいる。
月の海って真っ黒だね。
そう呟いたのは僕だったのだろうか、それとも彼女だったのだろうか。
水底にあるのに、空にもっとも近い草原 荒川アルドー @deepchill
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