第3夜 ハンドルを握っただけで人が変わりすぎだよ。
「…………おえっぷ」
地獄を見た。
皆は是非覚えておいて欲しい、地獄って言うのは別に、死んだ後じゃないといけないなんてことはないんだってことを。この世と地続きの、意外と身近なところにあるんだってことを、重々理解しておいて欲しい。そして、被害者が出来る限り減ることを、
「うっ……おええええええええええ…………」
そんな僕を見た
「なんだなんだ情けないな。身体の三半規管は強いはずだぞ?しっかりしたまえ」
僕はかすれ声で、
「……その前に、三半規管が強くないといけない、運転をするのはやめてください……」
そう。
僕に大まかな経緯を説明した小夜子が突然「仕事に行く」と言い出したことも、そこになぜか僕を連れていくと言ってきかなかったことも、今は問題じゃない。
今問題なのは、彼女の運転がとんでもなく荒っぽかったことだ。
元々条件は整っていた。彼女の愛車はフィアット500。しかも最近のものではなく、1900年代に発売されていたものだ。
もちろん、これだって、当時の技術を駆使して作られていることは間違いがないが、昨今の乗り心地や燃費を徹底して重視した車に比べれば、三半規管に対するダメージはいう間でもなく大きいだろうし、その車体は年季が入っている上に、ところどころへこんでいた。
古い車であることは間違いないので、乗る前は全く気にしなかったのだが、今考えれば気にするべきだったと思う。あの傷は彼女があっちこっちにぶつけたときのものなのだ。
そんなにぶつけまくって、よくもまあ廃車になるような事故を起こさないと感心するし、もしかしたら運転技術だけはいいのかもしれないが、それはそれ、これはこれである。結果として絶叫マシンも泣いて逃げかえるレベルの危険走行に付き合わされる羽目になり、目的地に着いたときには、完全に酔ってしまっていたのだ。
その加害者はといえば、僕の苦言などどこ吹く風で、インターホンを鳴らしていた。目的地はそこそこ大きな一軒家だった。ちなみに車は当然のように家の前に路上駐車している。しかも割とアクロバティックな感じに。仕事が終わった暁にはレッカー移動されてるんじゃないか?これ。
『……はい』
やがてブツッという音がして、インターホンから声が聞こえてくる。小夜子が、
「先日お電話を頂いた水無瀬です。お話を伺いに上がりました」
すごぉい。さっきまでの荒っぽい運転が嘘みたいだ。クラクションはビービーならすわ、前の車に悪態はつくわでそれはそれはお見せ出来たものではなかったのに。プロってことなんだろうか。大人の嫌な一面を見た気がした。
なお、服装に関してもきちんと「良識ある大人」の恰好になっていることを付け加えておきたい。
真っ白なワイシャツに、真っ黒な細身のパンツという実にシンプルなスタイル。長めの黒い髪は「取り合えず気になるからまとめてみた」といった適当さ加減で後ろでひとまとめのポニーテールにされていた。あれに何か意味があるのかは分からない。せいぜい一部のうなじフェチが歓喜するだけだと思う。
インターホンから、
『ああ、はい。ありがとうございます。今、行きますね』
それだけ言って再びブツッという音がする。暫くすると、ガチャガチャという音がした後、扉が開く。
「どうも、わざわざご足労頂いてありがとうございます」
男性だった。四角いレンズの黒縁眼鏡。歳はいくつだろう……四十は絶対に行っていない。もしかしたら三十も言っていないかもしれない。かなり若い印象だ。
来ている服も年相応と言った感じだ。紺色のポロシャツに、薄茶色のチノパン。カジュアルでもフォーマルでも通用しそうな恰好だ。こちらも「立派な大人」と言った具合の見た目をしていた。
小夜子が、
「初めまして……いや、厳密にははじめましてではないですが、
手を差し出す。男はそれを受けて、
「初めまして……ってことでいいですかね。
と応答する。
(ん……?)
その時。ふと赤坂がつけていた指輪が視界に入る。薬指につけているから結婚指輪だろうか。
「さ、どうぞ、中へ。暑かったでしょう」
赤坂はそう言って僕たちを家の中へと招き入れる。
暑かった。
その言葉で僕は、初めて今の季節を知った。同時に、気が付いた。自分がその「暑さ」を全く感じていないことに。
魂は語る 蒼風 @soufu3414
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