第4話 盗賊、そしてもう一つ
一人テラスに残ったエルマは、ずっと考えていた。
自分が本当に欲しかったものとは何だろうか、と。
金があれば何でも買える。欲望をすべて満たせる。そうして生きてきたし、そういう生き方以外を知らない。だからこそ、今まで盗み奪ってきた。
しかし、現実は違っていたのだ。
本当はずっと前から気づいていた。気づかないふりをしてきただけ。奪えば奪うほど、より増大する渇きを誤魔化してきただけに過ぎないことに。
金銀宝石。珍しい品々。欲しいと思ったものを手当たり次第盗んできたが、結局はどれも手に入れた途端に本当に欲しいものではなかった事に気づき、すぐに手放す。
ただ、盗んだ相手に返すのが癪だからと貧しい者へ譲渡していただけ。
満足出来ないからと盗みを続ける人生に辟易していた。いずれ捕まり自由を奪われる前に己の欲望にケリをつけたかった。
そんな時、酒場で聞いた今夜の一件。
王子の心を盗み、この国そのものを手に入れようと目論んで忍び込んだが今は虚しさだけがエルマの胸の中にあった。
先程出会った男の笑顔が頭を離れない。
『本当はそうじゃない! 私はそんな立派な人間なんかじゃない!』
男の話を遮り、何度そう叫ぼうとしたか。
欲する物を全て盗み、富を分配してきた義賊は、結局のところ自分が本当に望むものを何一つ手にしていなかった。
男が嬉々として語る義賊オルトロスの英雄譚と、その正体である自分自身があまりにも乖離し過ぎているが故に陥る自己嫌悪。虚飾と盗品で彩られたこれまでの人生を振り返り、ひどく惨めに思えた。
『きっともう、自分は望むものを手にすることはないだろう』
あの男の笑顔を見て、それを痛感させられた。それは同時に、心の中でオルトロスとの訣別を意味していた。
半刻ほどしてエルマは室内へと戻った。
先程まで賑わっていた大広間は粛々とした雰囲気に包まれており、見れば広間の最奥にある玉座にてプルトニア王が御言葉を述べられているところであった。
『王の御前とは恐悦至極。盗賊風情の最期には勿体ないほどの大舞台だわ』
エルマは心の中でそう呟くと、ゆっくりと広間の中央まで一人歩んでいく。
「止まりなさい、王の御前ですぞ」
衛兵はエルマを制止しようと肩に手を伸ばす。しかし、その手はエルマの残像を追って空を切る。その様子を見ていた他の衛兵は緊急事態と判断し、直ちに警笛を鳴らす。すぐさま王の周囲を護衛の騎士たちが陣形を組み、広間の周囲で配備していた他の騎士たちも駆けつけた。
「皆様お下がりください! この女、賊にございます!」
『嗚呼、なんて綺麗なのだろう』
オルトロスこと、エルマはそう思った。
騎士たちが向けていた数多の剣に灯が反射して、まるで星の瞬きのようにキラキラと輝いている。
『でも、あの人の笑顔には遠く及ばない』
そんな気恥ずかしい台詞が頭に浮かんだことが、なんだか照れ臭くて自分でも笑えてしまう。絶体絶命。死は免れない状況下だというのに、エルマはどこか心が満たされているように感じていた。
「何を笑っているか!」
騎士の一人が切先を真っ直ぐエルマへ向けたまま一歩前へと踏み込んだ。本当はそのまま柔肌を刃に預けても良かった。しかしいつものクセで咄嗟に二本のナイフを取り出すと一本目で剣を弾き飛ばし、二本目を騎士の喉元へ宛てがってしまった。
「こっ、このナイフは!? 貴様まさか——」
その先を言わせまいとエルマはナイフの柄頭で騎士の首の後ろを殴り、気絶させた。
今もどこかにあの人がいるかも知れない。
オルトロスの正体がこんな小娘だと知らせる必要はない。明日になれば磔になり国中に知れ渡るだろうが、せめて今夜だけでも彼の憧れは守ってやりたい。エルマはそう考えていた。
二本のナイフを手にしたまま、その場で両膝を突いたエルマはプルトニア王へ向かってこう告げた。
「国王陛下。宴席での御無礼、どうかお許しください。私はこれまで私利私欲の為に多くの盗みを働き、国の安寧を脅かして参りました。これまで私が犯してきた罪、この場で償わせて頂きます」
エルマはナイフの一本を両手で持ち、刃を自分の喉へ突き立てようとした。
しかし、刃はエルマの皮膚に触れることはなかった。
「まだテラスにおられるのかと思って探しに行ったのですが、もう戻っていらっしゃったんですね」
冷たいナイフの刃を掴んでいるのは、太陽のように温かく、逞しい男の右手だった。その手からは真っ赤な血が滴っている。
罪人である自分に向けられているのは、月のように眩しく優しい笑顔。他人も、自分ですらも欺いてきたエルマが初めて自分の気持ちに向き合うきっかけを与えてくれた人。
一瞬のことで動揺していたエルマは、慌ててナイフを手放して纏っていたスカートの裾を切り裂き、止血するべく男の手の傷口へと巻きつけた。
「あっ、あの……実は私——」
真実を語ろうとするエルマの唇に人差し指が触れる。男の左手がそこから先の言葉を塞いだ。
「そう言えば、自己紹介がまだでしたね」
目線の高さを合わせる為に片膝を突いた男は、左手でエルマの右手を取るとその甲に口付けをしてこう告げた。
「ハインリヒ・プルトニアと申します。以後、御見知り置きを」
エルマにはわからなかった。
胸の奥から止めどなく溢れる、心地よいこの想いの名を。
舞踏会の日から半年が経った。
この日、プルトニア国内はこれまでにないほどの活気で溢れていた。
喜びの歌を唄う者、手を取り合いながら踊る者。昼間から親しき仲間と酒を酌み交わす者。人々は皆、各々が思うままに今日という日を盛大に祝福した。
今日、王子の婚礼とそれに伴う新国王の戴冠式が城で執り行われる。
併せて王妃のお披露目が一度に行われるということもあり、国民の多くが城へと集まっていた。
冠を戴いた新王ハインリヒが民衆の前へと現れ、手を振る。その数歩後ろからやってきたのはハインリヒの妻であり、プルトニアの新たな王妃。
貧しき者たちに救いの手を差し伸べ、国一番の強さを持ち、誰よりも傍で王を護り支えた女性。過去の経歴も含め、プルトニア史上最も愛された人物。
それを誇示するものとして、城の正門には国の守り神として巨大な双頭の魔犬像が飾らせている。
後に王妃は自身のことをこう語った。
「今まで多くのものを盗んできたけれど、盗まれたのはあの日が最初で最後でしたわ」
了
国盗りの双頭魔犬(オルトロス) 後出 書 @atode_kaku
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