犬猿之仲な広澄さん

第38話

 私はベッドの上で今日の出来事を思い出していた。


 広澄さんと歩いて帰っている時、偶然出会った人。…それは広澄さんの母親だった。


 広澄さんの母親をひと目見たときから私の背筋は伸びていた。彼女の母親に、どことなく冷たい印象を受けた。私と広澄さんとの関係を聞かれ、心臓が一瞬跳ねた。歯切れの悪い返事をする私をどう思っただろうか。慌てるように去っていった広澄さんを見て察する。あまり私に会わせたくなかったのだろう。

 広澄さんの母親は厳しい人なのだろうか。広澄さんの顔が強ばっていたように見えた。



 温泉旅行に行ってからというもの、私はあの唇の感触を頭から消し去ろうと仕事に没頭していた。余計なことを考える前に働け、と自分に命令した。


 広澄さんはどうしてあの夜のことを無かったことにしたのだろう。私はしばらくの間、そのことばかり考えていた。


 きっと私が踏み込みすぎたからだ。…それなのに臆病で、彼女から逃げた。最悪だと思う。分かっている。忘れようと言ったのは気まずくならないように、彼女なりの配慮だろう。


「なんとも思ってないわ」


 その言葉が私の頭の中をリピートする。それに呼応するように胸がチクッと痛む。


 あのまま彼女に手を出していたら、どうなっていただろう。彼女はわたしのものになったのだろうか。


…そんなわけないか。




 あまり良い思い出にはならなかった温泉旅行。旅行が終わってからは仕事に熱中した。馬鹿みたいに仕事を引き受けた。そのせいで、休日にまで仕事のことを考える羽目になっていたのだけれど。

 しかし、そのおかげで余計なことを考えずに済み、広澄さんとは程よい距離感を保つことに成功している。


 それにしても、休日に広澄さんに声をかけられるとは思ってもいなかった。広澄さんは知り合いがいたら、すぐに声をかけるタイプなのだろう。温泉の日以降、また休日に会える日が来るなんてこれっぽっちも想像していなかった。休日の広澄さんの姿を見られるなんて、と素直に嬉しく思う自分がいた。

相変わらず、恋人繋ぎをしてくるくらいに人たらしだったけど。通常運転の広澄さんにどこか安心した。


 広澄さんのことは今でも好きだ。しかし、彼女の隣にはいるのは私ではない。他の人だ。少し時間はかかったが、私は既にそれを受け入れている。


 今は憧れの広澄さんの隣に、部下として胸を張っていられるよう、努力しているところだ。




 夢のような休日を終え、出社した私はプレゼンの資料作りに追われていた。


「すごい、悠ちゃんのタイピングが早いわ」

「白瀬さん、机の上大荒れっすね」


前と隣からそんな声がかけられる。


「締切がもうすぐで…」


 あちこちに散乱した資料や本を照らしながら、パソコンにまとめていく。


「白瀬さん、第3会議室で打ち合わせします!」


 遠くから呼ばれ、大きい声で返事をする。そうだ、打ち合わせもあったんだ。バタバタと机の上を片付け、パソコンを片手に急いで会議室に向かった。



 約1時間ほどの打ち合わせが終わり、デスクに戻ると、ソワソワと職員の落ち着きがなかった。


「何かあったんですか?」


美波さんに問うと、


「あー、なんか会社の入口に葵さんのお母様が来てるみたいで…。葵さんのことを好きな人たちが気に入られようと会いに行ってるみたいよ…はは」


 そう教えてくれた。会社に母親が来るなんて、何か用事でもあったのだろうか。広澄さんの姿は見当たらない。会いに行ってるのかな。



「白瀬、この資料を広報課に持って行ってくれ」


 大久保課長に依頼され、私は資料を受け取った。その足で広報課に向かう。


「すみません、頼まれていた資料です」

「あー、ありがとうございます。あ、君。広澄さんと同じ部署の子だよね」

「そうですけど」

「なんか1階で広澄さん、困ってそうだったからちょっと行ってあげなよ」


 広澄さんが困ってる…?

 1階といえば、今は母親がいるんじゃなかったか。


「様子見に行ってあげて」


 半ば強引に送り出され、1階へ向かう。


 入口の横でなにやら人が数人集まっているのが見えた。あの後ろ姿は広澄さんだ。


 関係者ゲートを通り過ぎ、コツコツと集団に近づく。


「ちょっと、もう早く帰ってよ」

「お母様、僕は葵さんの後輩の矢部です」

「あらそう、あなたは背が高いのね」

「お母さん、私は藤木です。一緒のプロジェクトで仕事をしてたんです」

「あらあら、そうなのね」

「私はいつも葵さんには本当にお世話になってるんです」

「…そう」


 広澄さんの母親はやけに女性には冷たい。にこにこしているように見えて、目の奥が笑っていない。


 母親にアピールする男女たちに、広澄さんは呆れている様子だった。


「お母さん、私はもう仕事あるから行くね。早く帰ってね」

「ちょっと、どこいくのよ。せっかく来たんだからもう少しここに居なさいよ」

「ただ近くを通ったからって、会いに来ないでよ」


 そういう広澄さんの腕を、母親はがっちり掴んで離さない。振りほどこうとしているけど、他の職員の目もあるからか上手く抵抗出来ていないようだ。


「係長」


 私が大きめの声で呼ぶと、周りの視線が一斉に集まる。その中でも母親の視線だけは光線のように突き刺さった気がした。


「課長が呼んでます。急いできてください」


そんな声を打ち消すようにして、


「あら、あなたはこの前の子ね」


 以前も会ったのかと言わんばかりの冷たい視線が周囲から注がれる。


「こんにちは」


 ぺこりとお辞儀をする。あまりこの場にいたくない。


「お話中にすみません。係長に用がありますので、失礼します」


 広澄さんの腕をとろうとすると、それはすぐに阻まれた。


「あなた、少し話をしたいわ」

「…え?」


 広澄さんの母親から直々のご指名?!


「他の人はごめんなさいね。二人きりにさせてちょうだい。葵は早く課長のところに行きなさい」


 あれだけ広澄さんを離さなかったのに、今はさっさと追い払いたいようだ。


「ちょっとお母さん、それはやめて」


 怒ったように広澄さんが反撃する。


「はやく行きなさいよ、お仕事でしょう」


 ピシャリと言い放つ姿にその場が凍る。周囲の人だかりは散り散りになっていく。


 そして、この場に残っているのは、私と広澄さんと母親の3人になった。


「白瀬さん、行きましょう。言うことは聞かなくていいわよ」


今度は広澄さんが私の腕をとる。


「待ちなさい」


 しかし、反対の腕を広澄さんの母親に強い力で掴まれた。お互いに遠慮なく引っ張り合うから、腕が痛い。


「昨日話したでしょ。お母さんは余計な口出ししないで」

「口出しなんかしないわ。これは葵のためよ」

「そういうのを口出しっていうんでしょ」

「葵に任せてたら良いことなんてひとつも無いわ」


 目の前で口論が始まる。挟まれた私は右に行ったり左に行ったり。ぐらぐら揺れていると思えば、広澄さんの強い力でぐいっと引っ張られ、体がよろめいてしまった。そのままぼすんっと腕の中にはまる。


「葵」


 凛とした声が耳の中に入る。恐る恐る広澄さんの母親の顔を見ると……無表情だった。

 これは相当怒っている。これ以上怒らせてはいけない、と他人の私が焦るほどに。


私は急いで広澄さんから離れる。


「そ、外に行きましょうか」


 私は広澄さんと母親の仲を悪くさせたくないという一心で、母親を外に連れ出した。


 これから私の身に何が起こるのだろう。心配そうな顔をした広澄さんを背に、私は会社から出た。

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青空とホワイトアロー Rachel @reina017

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