第37話

 9月も終わりを迎えた頃、私は近くのショッピングモールに出かけていた。休日に1人で出かけるのは久しぶりだ。私の休日と言えば、お見合い相手と出かけたり、関係の薄っぺらい友人とカフェに行ったりしてすぐに終わる。今日は滅多にない休みを自分のために使えて、少し心がおどる。

 秋服や冬服を見たり、雑貨屋さんに寄ったり、有名店の最新作の飲み物を買って休憩したり、1人で休日を満喫していた。


 昼ご飯も食べ終わり、ぶらぶらとモール内を歩きながら、店舗を眺めていると見覚えのある後ろ姿を発見した。そこは本屋のようだ。外に面しているコーナーに立っていたからすぐに気付いた。休日に誰かと出会ってもいつもなら素通りするはずだが、今日はなぜか声をかけようと思った。


「なにしてるの?悠ちゃん」

「わっ、!」


 突然名前を呼ばれて、びっくりしている。きっと声をかけたくなったのは、その相手が白瀬さんだったからだろう。


 立ち読みしている本の表紙がちらりと見えた。


《仕事で使えるプレゼン術》


 私の目線に気づいた彼女は手元の本をサッと隠そうとする。


「勉強?えらいね」


そう褒めると、


「…苦手なことは克服したいので」


 自信の無い声が耳の中に届く。白瀬さんが参加していたプロジェクトは成功したと聞いている。しかしその結果に彼女はあまり納得していないのかもしれない。伏せた瞼からは綺麗な睫毛が見える。


 この子は休日までも仕事のことを考えているのか。本当に勉強熱心な子だ。


「がんばってるわね」


 もう一度褒めると、今度は少し照れくさそうに笑った。


「広澄さんはおひとりですか?」

「ええ、ひとりよ」

「やっぱり家が近いだけあって、こういう偶然もありますね」


 そういえば彼女の家の最寄りが隣駅だということを思い出す。


「何を買いにきているんですか?」

「ただぶらぶらしているだけよ。良いのがあったら買おうかなって」

「そうなんですね」

「その本、買うの?」

「あー、いや。迷ってます」

「そう」

「やっぱりやめようかな。もう少し吟味してみます」


 そっと持っていた本を元に戻す。


「これからもう帰りですか?」

「ええ、そうね」

「私も帰るところです。それじゃあここで…」


 彼女は私に向けて手を挙げた。その手が横に揺れる前に私がその動きを封じる。


「…え、」


 目を丸くしながら私の事見つめてくる。瞳の中に驚きと嬉しさの色が見えた。


 その反応を見て、調子に乗った私はするりと彼女の指の間に指をすべらせた。恋人繋ぎ状態。


「あ、え、と…」


 動揺を隠せていない姿を見るのはいつぶりだろうか。これまで全く効かなかったスキンシップが、彼女の頬を色づかせている。彼女の反応が可愛くて、いつもより声のトーンがあがる。


「…ねえ、一緒に帰らない?」


 白瀬さんはその言葉に目をぱちぱちさせたあと、動かない。


「ね、良いでしょう?」


 そのひと押しが彼女の心を動かした。


「……いいですよ」


そう発する彼女は顔を背けていて、どんな顔をしているのかよく分からなかった。





 温泉旅行の時のこと、「忘れよう」と言ったくせに、こうやって近づいてしまった私をどう思っているのだろうか。呆れているのか、怒っているのか。隣を歩く彼女からは読み取れない。

 そんな私の葛藤をよそに、いつも通りに戻っている白瀬さんはたわいも無い話を持ちかけてくる。


「ここから家は近いんですか?」


 ショッピングモールと私の家は徒歩圏内にある。


「まぁね。でも、せっかくだから駅まで送っていくわ」

「いや、いいですよ」

「いいの、いいの」

「いや、でも…」


 お互い譲らず、10回くらいは言い合っていた気がする。結局は私の勝ちだった。彼女は申し訳なさそうにしている。そんな彼女を強引に引き連れて歩いていく。曲がり角を見つける度、彼女が「ここ曲がらなくて良いですか?」と尋ねてくるのがなんとも可愛かった。


 久しぶりにプライベートな話をしながら白瀬さんと歩いた。部屋に新しい家具を買ったとか、引っ越す予定はないのかとか。


 しかし、そんな楽しいひとときも長くは続かない。


「あおい」


 私のことを呼ぶ声の方を向く。


どうしてここに?

そう尋ねたかったけれど、唇が動かなかった。


「家にいると思っていたのに、出かけていたのね」


 両手にショッパーを持ち、貼り付けたような笑みを浮かべている母だった。母はすぐに隣の白瀬さんを見た。母との関係のこと、あまり知られたくはない。母が余計なことを言う前に今すぐに立ち去ろう。


そう思い、母を見ると先程の気持ちの悪い笑みは消え、真顔になっている。


「どちらさま?」


 威圧的な問いに白瀬さんは一瞬肩を揺らした。


「あっ、はい。広澄さんと一緒に働かせていただいている白瀬と申します」

「そう、仕事の方ね」


 母の冷酷な視線が白瀬さんに突き刺さる。

そんな目で彼女を見ないで。


「白瀬さんごめんなさい。…私の母よ」


 そう伝えると彼女は納得した顔になり、ぺこりと頭を下げた。母は真顔のままだ。母の纏う空気がよりいっそう怖くなり、母をこの場から連れ出そうと足が前に出る。


しかしそれより先に、母は口を開いた。


「あなた、あおいとどういう関係?」


母は冷たく言い放った。


「え、と…」


 白瀬さんが困っている。

…そりゃあそうだ。どういう関係もくそもないだろう。仕事仲間だと言っているのに。母は一筋の可能性も握りつぶしておきたい性格なのだ。


「広澄さんの部下ですが…」


 眉を垂らしながら彼女がそう答えると、母はまた貼り付けたような笑みに戻った。


「そう、ただの仕事の後輩ね」


 最悪だ。母の態度で何を考えているのか手を取るように分かる。そして、いちいち母の言葉が私の心に刺さる。母と私の間には信頼なんてものは存在しないことがよく分かった。


「ごめんなさい、白瀬さん。また月曜日ね」


 これ以上恥を晒したくなくて、母の腕を掴んだ。


「ちょっと、どこいくのよ」


 キーキー喚く母を無視して、ずんずん歩く。今はとりあえずできるだけ遠くに行きたかった。白瀬さんの視界から消えていなくなりたかった。私の抱えている闇を誰にも見られたくなかった。ましてや、私の可愛い後輩になんて、知られたくない。


 母に対する黒い怒りの渦がぐるぐると胸の中を巡っていくのを感じていた。



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青空とホワイトアロー Rachel @reina017

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