第36話
温泉旅行が終わり、いつもの日常がやってきた。
「庄司くん、このデータどこから持ってきたのかしら」
「あー、っと…それは……」
「引用元はハッキリさせてね。それと、曖昧な説明は控えた方がいいわ。取引先からもここをつっこまれそうね」
「はい…」
「白瀬さん今いいかしら?」
「はい、なんでしょうか」
「午前中に頼んでいた資料だけど…」
「あっ、すみません、こちらです。会議用に人数分用意してあります」
「…ありがとう」
「沖田さん会議室取っておいてくれてるかしら?」
「はい、15時からとってます」
「ありがとう。急遽だけど、沖田さんも出席できる?」
「え?」
「以前沖田さんが契約とってくれたところと仲が良いみたいなの。念の為、お願いしたいわ」
「分かりました。…あ、でも今日締切の資料が終わってないんですが、」
「あー、じゃあそれ誰かに頼める?」
「分かりました」
周りを見ると、皆忙しそうに仕事をしている。沖田さんの仕事を頼めそうな人は……
「私、やりますよ」
少し遠くの方で返事をした彼女はこちらに向かってきた。
「それ、以前美波さんのサポートに入ったことがあって、分かるのでやりますよ」
凛とした声でそう言った。
「…そう。助かるわ。ありがとう」
軽くお辞儀をした後、白瀬さんは沖田さんに資料と内容の確認をしに戻った。
白瀬さんは相変わらず仕事ができる。1年目とは思えないほど、周りをよく見ている。既に仕事量は一杯のはずなのにフォローしてくれる時がある。心配になるが、彼女はそれでもなんなくやってのけるのだ。だから、良くないことだとは思っていながらも甘えてしまう。
温泉旅行の一件があってから、何かありそうだと思っていたけれど、今のところ何も無い。何も起こらないようにしている、の間違いかもしれないが。
「はぁ……」
私はため息をついて少し伸びをする。時計を見ると既に22時を示していた。お腹も空っぽだ。少し胃のあたりが気持ち悪い。昼ご飯以降何も食べていないからだ。
一息つくと、頭の中を埋めるのは白瀬さんのことばかり。気にしないように、何も考えないように仕事で頭の中を埋めてきた。ただ、こういう一瞬の隙はどうにもならない。
あの時の私の選択はまちがっていなかったのだろうか。
忘れよう、と彼女に言い放った時の彼女の顔が忘れられない。かなり傷つけたように思う。
もっと他に…良い方法が……
なんて考えるけど、静かに頭を横に振る。私にはあれが最善だ、と自分に言い聞かせる。この繰り返しだ。
一人の女の子に対して、こんなことを考える人間じゃなかったはずだ。もっと皆に平等に接して、誰が特別とかそういうのは作らない主義だ。
「はぁ…」
またため息が漏れる。
今日はそろそろ帰ろうか。
それから時は流れ、木の葉の色が赤や黄に姿を変える季節となっていた。
「白瀬さん、こっちも手伝ってもらってもいいかな?」
「これは白瀬さんに任せたいと思う」
「さすが白瀬ちゃん!ありがとう」
と言った声を多く聞くようになり、彼女の成長を感じる。上司としても嬉しい限りだ。
ただ、ここまでの成長を短期間で見せるということは、相当な努力があったわけで。もちろん残業することは少なくない。私自身、夏は外部でのプレゼンや出張があり、あまり彼女に声をかける機会はなかった。
パソコンにうつしだされる部下の残業時間を眺める。そして8月の白瀬さんの残業時間を見て少し後悔する。もう少し気にかけるべきだった。
「葵さん、この資料の確認お願いします」
そう言ってきたのは、美波ちゃん。
「あぁ、そうだったわね」
これから会議だ。サッと目を通し、問題がないことを確認する。そして美波ちゃんと一緒に別フロアの会議室へ向かう。
エレベーターのボタンを押し、待っている時に美波ちゃんに聞いてみる。
「最近の白瀬さんの様子はどうかしら?」
「んー、変わりないですよ。仕事熱心で頑張ってると思います」
「そう…」
「別の課の同期と仲良いらしいですし、人間関係も良いんじゃないですかね」
良いことだ。仕事は助け合える同期や先輩後輩との仲も大切になってくる。人付き合いも上手くいってるのなら問題なさそうだ。
第3会議室に着き、鍵をあけていると、同じ廊下の少し離れたところからドアが開いた。
男性2人と女性が3人。その中には白瀬さんの姿もあった。
「今度ご飯誘いますね。また話しましょう」
「そうですね、ぜひ」
「白瀬さんは来週私とランチ行きますもんね」
「あはは、すぐそうやってマウントとるんだから」
「いいじゃないですか、ね?白瀬さん」
笑いながらやや困った顔をしているのがちらっと見えた。そんな会話を遮るようにして会議室に入る。モニターの準備をしながら、白瀬さんのことについて、やんわりと尋ねてみる。
「なんだか、白瀬さんって色んな人と交流があるのね」
白瀬さんに気がある、とは思われないように努めたつもりだ。
「ふふっ、どうしたんですか、葵さん。珍しいですね」
少し茶化すようにして言われる。
「なにがよ」
「人に興味無いはずの葵さんが、珍しく人に興味を持っているんだなと思っただけです」
「そんなことないわよ」
「さっきエレベーターの所でも白瀬さんのこと気にしてましたよね」
「新入社員だもの、気にするでしょう」
ピシャリと言うと美波ちゃんは静かになった。表情にはまだにこやかさが残っている。
「広澄さん、知らなさそうですもんね」
なんの事だか分からない顔をしている私を見て続ける。
「白瀬さん、結構人気あるんですよ」
美波ちゃんの口は止まらない。
「少し背が高くて、さっぱりした美人な顔つきが女性に人気があって、物腰柔らかで笑顔が可愛いところが男性に人気だとか」
聞いてもいないのにペラペラと教えてくれる。白瀬さんが人気あるとかモテているとか正直私には関係ない。
「あの顔は人気になりそうだものね」
少しぶっきらぼうに答えても胸の中はまったくスッキリしない。余計なことは考えるのはやめて、今は会議に集中しないと。
終業のチャイムがなった。私はコーヒーを取りに休憩室に向かう。ミルクを準備していると後ろから声がかかる。
「あ、お疲れ様です」
その声にどきっとした。
「お疲れ様」
白瀬さんは棚の上をごそごそして何かを探している。
「何探しているの?」
「…あぁ、これですこれ」
彼女の手にはプラスチックのマドラーが沢山あった。
「これ、ずっと無かったですよね。広澄さんもミルクいつも使われるから必要かなと思って、管理の人に頼んで用意してみました」
そう言って笑う。
いつも私がコーヒーをくるくる回していたのを知っていたのだろうか。
「ここに沢山置いておくので、いつでも使ってくださいね」
それだけを残して颯爽と出ていこうとする。
「え、白瀬さんコーヒーは?」
「いえ別に大丈夫ですよ」
わざわざ私のために来てくれたのか、なんて考えてしまった。彼女の優しさを噛み締める。いつも私に優しさを振りまく人は、何か見返りを求めてきた。代わりにご飯に行って欲しいだとか、一緒に休日に出かけたいだとか、そんなくだらない見返りだ。
彼女との距離感なんて、ずっとこんな感じで。本当にあの出来事を忘れたかのように接してくれる。気まずさを残しているのは私だけかもしれない。
デスクに戻って仕事を再開する。フロアに残っている人もまばらになってきたところで、白瀬さんのデスクを見ると、もちろんまだ残っている様子。
私は早く帰るように促すため、彼女の元へ向かう。
「まだ残ってるの?」
私の声に反応して、ガバッと身体を起こす。
「あっ、はい。まだ少し残ります」
その声はまだ元気そうだ。
「白瀬さん、残業しすぎよ。今日はもう帰りなさい」
「あー、…はい」
歯切れの悪い返事だ。
「何してるの?」
そっとパソコンの画面をのぞき込む。そこにはパワーポイントにグラフや文字がいっぱい並んでいた。
「今日、別の課の人たちと会議があったんですけど…そこで私の案が通ってしまって。あ、課長にも一応許可はもらっています。少し担当外の業務なんですけど、やらせてもらうことになりました…」
申し訳なさそうに言う。
私は素直によくできる子だと思った。
「すごいわね、おめでとう」
心からそう伝えると、目の前の彼女はかなり嬉しそうな表情に変わった。
「ありがとうございます…嬉しいです」
そんな姿を見て、懐かしい気持ちになった。出会った当初、私たちの関係が真っ白で汚れひとつ無い時期のこと。
私にもまだ彼女をこんな風に喜ばせることができるのかと思った。
「仕事にがむしゃらに向き合っていたら、いつの間にかこんなことに…」
「すごいことよ。頑張りは皆が見てるってことね」
そう言うとまたひとつ笑顔を見せた。しかしその直後、私の目を捉えて言った。
「広澄さんも見てくれていましたか?」
何度見ても綺麗だ。彼女の澄んだ目に吸い込まれそうになった。
それは、どういう意味なのだろう。
ごちゃごちゃした思考に飲み込まれそうになった。
なんとか現実に意識を取り戻す。彼女が頑張っていることはずっと知っていた。
「見てたわ」
そう伝えると、ふっと力の抜けた笑みをこぼした。
「はやく、追いつきたいです」
芯のある声が胸に響く。
私に追いつこうとして頑張っていたのか。健気な彼女が愛らしい。
「追いつけないことは分かってますけど…隣にいても胸を張れるような人になりたいんです」
このひと夏の間、彼女は何にも振り回されずに、ただひたすら努力を重ねていた。
彼女のひとことで、純粋な彼女の思いに気付く。
そうだ、彼女は出会った時から真っ直ぐで、何にでも染まってしまいそうな素直さがあった。私はそんな彼女の心に触れて、あたたかい気持ちになっていた事を思い出す。
「もうじゅうぶん、胸を張ってもいいんじゃないかしら」
もっと自分をみとめてほしい。そんな気持ちを込めて、私の手は思わず彼女の頭を撫でていた。
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