一心不乱な白瀬さん

第35話

 美味しそうに朝ご飯を頬張る白瀬さんは、いつも通りだった。昨日の夜の出来事は夢だったのかなんて疑ってしまうほどに。

 しかし、私の身体が覚えている。昨日の夜のことは紛れもない現実だ。


 昨日は久しぶりにお酒を飲みすぎてしまったと自覚している。けれど、記憶を飛ばすほどでは無い。私が彼女に何をしたのかも、彼女に何をされたかも覚えている。私が彼女にキスをしたこと、あれは衝動に駆られてしまったものだ。彼女の反応を楽しむ余裕も無かった。ただ、私のことを見て欲しい。私のことを考えて欲しい。そんな思いが募ってしまった。


 そんな感情を抱くのには原因があった。

それは、彼女が私の思い通りにならないから。他の人なら、きっとあんなことにはならなかっただろう。私は最低な人間だ。相手のことを弄んでいると思われても仕方ない。けれど、そうやって生きてきた私には、他にどう接したらいいか分からないのだ。

 さらに、目の前にいる白瀬さんには、今の私の誘惑が全く効かなかった。

 出会った当初は私が頭を撫でるだけで耳を赤く染めた。名前を呼ばれると嬉しそうに笑っていた。そんな純粋な彼女が可愛くて好きだった。しかし、今や彼女は私から何を言われても顔色ひとつ変えない。避けようともしない。それは受け入れてくれているのかもしれない、なんて考えていた時期もあったけれど、最近は何とも思っていないからではないかと思うようになっていた。


 どうして私の方が彼女に夢中になってしまっているんだろうか。今まで私の虜にならなかった人はいなかった。だからこそ、私は彼女に執着してしまっていたみたいだ。どうにかして惚れさせたい。


 そして、そんな私の自分勝手な思いが爆発してしまったのが、今回の温泉旅行だった。わざと彼女に近づいて、彼女を試してみることをした。が、やはり彼女は私に何もしてこなかった。彼女の頭を撫でてみても引き剥がされるし、色っぽく心臓を触ってみても肩を押されて拒まれた。


 一方で、私の方が彼女の魅力にやられてしまうばかりだった。彼女が私に微笑みかけるだけで、胸の奥から込み上げる何かを感じていた。

 

 私が自分を制御出来なくなったのは、温泉に行ってからだった。正直、私も彼女と一緒に温泉に入るのは恥ずかしかった。彼女の照れている姿を見て、それだけで私は嬉しくなった。彼女も同じ気持ちなんだ、と。

 結局私は一人で先に温泉に行くことにしたけれど、本当は密かに楽しみにしていたのだ。一緒に温泉に浸かり、「良いお湯だね」なんて話をしたかった。顔を上にあげると星空が見えて、「夏の大三角形があるわね」なんて言ってみたかった。私に裸体を見られて恥ずかしがる彼女を見てみたかった。

 しかし、そんな私らしくない妄想は虚しく散った。彼女は温泉に来なかった。いつまで経っても入ってこなかったのだ。このままではのぼせそうになると思い、私は重い腰を上げた。すぐに行くって言ったのに。待っていたのに。


 そんな彼女は見知らぬ綺麗な人と密着しながら温泉に来た。腹が立った。こんなに待ち遠しく思っていたのは私だけで、彼女は私のことをさしおいて、別の女の人といる。こんな体験今までになくて、私は自分の怒りをコントロール出来なかった。


 私自身お酒に弱くは無いけれど、特別強いわけでもなかった。今までお酒の席では、上手く調整して酔わないようにしていただけで、勢いよくお酒を飲んでしまったら酔ってしまうのは当たり前だった。


 彼女は私を酔わせないように配慮してくれたけど、そんな配慮はいらない。私はとことん酔いたい気分だった。食事が終わってから、人肌恋しくなって彼女に近づいた。距離をとらない彼女に甘えて肩までも借りた。それで終わればよかったのに……私は先を求めてしまった。


 そして私の求めたものは手に入らなかった。

 私の言葉を無視する彼女。私のことすら見ない彼女。そんなに私には魅力がないのだろうか。


 酔いが回って気分が高まっていた私は、彼女に詰め寄り、綺麗な顔に近づいた。拒まれる前に、と唇を奪った。


 そこから先のことは…思い出すだけで身体が熱くなるから、考えるのはやめる。



 ズズッと朝ご飯の味噌汁を啜ると、ほのかに海鮮の香りがした。


 彼女は昨日のことは何も言ってこない。忘れてしまったのだろうか。それとも、無かったことにしようとしている?


 彼女は部下という立場に囚われているように思う。言葉の節々に部下と上司の関係性を思わせるようなことを言うからだ。しかし、そんな関係性を望んでいたのは私だ。


 私は彼女とどうなりたいのだろう。


 “恋人”


 そんなワードが頭に浮かぶ。そんな未来を想像してしまっている時点で、私はもう彼女への気持ちに気付かざるを得なかった。


 しかし、そんな未来は誰も幸せになれない。私の家族に歓迎されないから、きっと彼女を苦しめる。苦しむ彼女を見て、私も苦しむだろう。分かってる。分かっているから、こんな未来は望めない。


 もう二度と家族を同じ目に遭わせないって誓ったのに。また同じことを繰り返そうとしてしまっている。私を蔑むように見る母の姿が蘇る。


 私はもう幸せになれないのだろう。私の好きな相手と付き合って、愛を誓う。そんな未来がまるで見えなかった。

 苦しい。昨日、彼女が寝る前に私は彼女を引き留めるべきだった。あの時、好きだと言ってしまえば良かった。そうしたら、こんなことを考えずに済んだ。勢いで告白して、振られれば良かった。酔って告白するなんて最低だ、と罵られれば良かった。


 お箸を持つ手に力が入る。ゆらゆらと揺れるワカメを見ていると、ふと向けられた視線に気付いた。


 真っ直ぐと私のことを見る彼女の顔には、心配の色が浮かんでいた。


「……どうしたんですか」


 彼女と目を合わせられなくて、手元に視線をうつす。


「なんにもないわ」

「そんなことないですよね」

「なんにもないわよ」


 強い口調で彼女に当たってしまう。彼女は何も悪くないのに。彼女はそんなこと気にしていないかのように続ける。


「だって…じゃあどうしてそんなに辛そうな顔してるんですか」


 指摘されて気付く。視界がぼんやりとして見え辛くなっていた。


「ごめんなさい…きっと昨日のことですよね」


 そう言って彼女は箸を置き、深々と頭を下げた。


 違う…ちがう。決してそのことではない。彼女に謝らせくなんてなかった。全て、わたしのせいだから。


「それは違うわ。頭をあげて?昨日のことじゃないの…別のこと考えてただけだから」

「じゃあそんな顔をさせることってなんですか?」

「……いろいろ、あるのよ」


 無理して笑う。とにかく、彼女のせいではないことは伝えなければならないと思った。


「昨日のことは本当に、何とも思ってないわ。私こそ、酔ってしまって…ごめんなさい」


 彼女はぶんぶんと首を横に振っている。相変わらず心配そうに私のことを見つめる彼女は、やっぱり優しい。そんな優しい彼女を傷つけたくない。中途半端に手を出して良い相手ではなかったのだ。


「もう昨日のことは忘れましょう」

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