第34話

 程々に温泉を堪能しながらも、私は急いで部屋に戻る。広澄さんが待っているからだ。彼女は酔いを醒ましてゆっくりしているだろうか。


 今回、旅行に来てから少し広澄さんの様子がおかしい。いつもより積極的だし、一線を越えない彼女が越えそうになる時がある。温泉という場がそうさせているのかもしれないが。


 四十分ほどで部屋に戻ってきた私は、部屋の扉をあける。広澄さんはお茶をそそりながらテレビを見ていた。私に気づくと少し目を見開いて言った。


「ゆっくりできた?」


 もう酔ってはなさそうだけど、少し顔が赤い。どのくらいお酒を飲んだのだろう。机の上に空き缶はなく、既に片付けられていた。


「もうお酒はやめたんですか?」

「まぁね」


 そう言ってまたお茶をすする。私はどのくらい飲んだのか気になってしまい、見つからないように空き缶の行方を探す。


「そんなに飲んでないわよ」


 ほっぺを膨らませてそんなことを言う。私の思惑は見透かされていた。私はそれでも気になって近くのゴミ箱に寄ると、空き缶が三本捨ててあった。


「…けっこう飲みましたね」

「そうでもないよ」

「お酒、強いんですか?」

「酔ってるところを見たことある?」

「ないですね」

「そういうこと」


 ふふんと鼻を鳴らしている。しかし、そう言ったものの彼女の顔はほんのり赤い。


「強くても一気に飲んだら酔いますよ」

「だから酔ってないってば」


 また頬を膨らませている。普段、そんな言い方もしないような気がするけど、そこには何も触れないでおく。


「…ならいいんですけど」


 これから夕食も待っている事だし、楽しめる範囲でお酒を飲んでいるなら何の問題もない。


「夜ご飯楽しみですね」

「そうね。こういう旅館で食べるの、雰囲気あって良いよね」


 ふふっと笑って言う。広澄さんの笑う姿を見ていると私も頬が緩んでいたようだ。


「なに笑ってるの」

「ふふっ、いえ…なんでもないですよ」


 広澄さんが可愛くって思わず笑っていた、なんて言えない。


 それから少しして、夕食が部屋に運ばれてきた。豪華な地魚の舟盛りや金目鯛の煮付け、彩り豊かな小鉢の籠盛りなど、どれも美味しそうだ。最後には日本酒も机に置かれ、私はお酒なんてあったのかと広澄さんに尋ねる。


「お酒、付いてたんですか?」

「私がつけちゃった」


 まだ飲む気なのか、この人は。


「もうじゅうぶん飲んだでしょうに」

「今日はたくさん飲みたい気分なの」

「何かあったんですか?」

「分からないの?」


 質問を質問で返されてハッとする。やっぱり先程の出来事をまだ根に持っているのか。実は根に持つと怖いタイプかもしれない。


「すみません……さっきのことは謝ります。けど、そんなに飲みすぎたら心配になります」

「私のこと心配してくれるのね」

「そりゃあもちろん、部下として守らないといけないので」


 そんな私を見て、少しだけ表情を曇らせた気がしたが、すぐに口角をあげて言う。


「じゃあ、今日は悠ちゃんに守ってもらおっと」


 にっこりと微笑んで、彼女はお酒に手を伸ばす。


「私が注ぎますよ」

「ふふっ、ありがと」


 今日はやたら機嫌が良い。きっとお酒のせいだ。酔いはまだ醒めていないのだろう。そんな状態でまたお酒を飲んで大丈夫だろうか。私は遠慮がちにお酒を注いだ。


「ねえ、少なめにしないで」

「また注ぎますから」

「いやよ、ちゃんとなみなみにしなさい」

「いやですよ、それで我慢してください」


 ご飯を食べる前にお酒のことで広澄さんが駄々をこねる。会社ではシャキッとした上司なのに、私の目の前ではかわいい女の子になっている。こんな気を許した姿を私なんかに見せていいのだろうか。

 広澄さんは渋々諦めたらしく、おちょこを持って私のことを待っている。私も自分のおちょこにお酒を入れた。


「それじゃあ、乾杯」


 広澄さんはぐびっと一息で日本酒を飲み干した。私に注いでくれとでも言わんばかりにおちょこを私の前に差し出してくる。仕方なくもう一度注ぐ。彼女はふにゃりと隙のある笑顔を見せた。


 私も日本酒を一気にあおる。アルコールが全身に巡る感覚がした。綺麗に盛り付けられた刺身に手を伸ばし口に入れると、厚みの身を噛み締めるほどにうまみが広がる。


「おいしいですね…」

「この鯛も甘くておいしいわ」


 美味しそうにご飯を食べる広澄さんを見て、心が温かくなる。いつもよりにこにこしているのが可愛くて、彼女の顔をじっと見すぎてしまった。


「なーに、私の顔になにかついてる?」


 上目遣いでこちらを見ている。お酒と広澄さんの相性は非常に良くないと思う。むんむんな色気を全力で開け放っている。悪魔的な魅力がいっぱいで目が離せない。

 どくん、どくん、と心音が聞こえる。ただ一緒にご飯を食べているだけなのに。おかしい。私の身体がおかしい。静まれ、と祈るようにまた日本酒を口に運んだ。

 広澄さんはもう自分で日本酒を注いでいる。私の注ぎを待てなかったようだ。少しずつ私にも酔いがまわってきているのを感じる。


「広澄さん、飲みすぎは厳禁ですよ」

「ん〜、大丈夫だよ」


 彼女のにこにこと笑う姿を会社の人が見たら、皆驚きそうだ。羨ましがられそうでもある。でも、これは私だけの特権だ。部下の役割に徹している私だからこそ、安心して見せてくれているのだと思う。



 食事も全て食べ終わり、客室係の方が全てお皿を片付けたところで広澄さんは私の隣に座った。


「…どうしたんですか」


 距離が近い。いつものことだけれど、今はお互いにお酒が入っている。


 一応言っておくが私は広澄さんのことが好きだ。そんな彼女から仕掛けられるのは、嬉しいようで、胸が痛む。広澄さんは何とも思っていないだろうけど、閉じかけた傷口がまた開きそうになる。


 そんな私の気も知らないで、広澄さんは私の肩に頭をのせてきた。


「このまま…いてもいい?」


 彼女の匂いがさらに私を興奮させる。肩の重みに意識が向いて、変な匂いがしないか、汗ばんでいないかが気になってしまう。


「返事は…?」


 ふっと肩が軽くなる。彼女から視線を向けられている気がするけれど、距離が近くてそれどころではない。


「ねえ」


 ざわざわ胸がざわつく。


「無視しないで」


 横から手が伸びてきて、クイッと顔を横に向けさせられる。すぐ目の前の彼女の表情から拗ねているのが分かった。


「無視しないで…」


 もう一度、そう言われる。


「近いですって」

「返事がないんだもの」


 そんな声を振り払って正面を向く。広澄さんの顔を直視出来なかった。返事なんて出来るわけない。良いも悪いも私の口からは何も言えない。

 そんな私が気に食わなかったのか、耳元に近づいてきて何か囁かれる…と思ったら、冷たい感触が耳たぶに触れた。湿っぽく熱い吐息が耳をくすぐる。


 一瞬何があったのか理解出来なかった。彼女を見ると、悪戯に笑っている。耳を触ると少し濡れているのが分かる。噛まれたのだ、耳を。


「酔ってますね」

「何その反応。つまんないの」


 さすがに理性が持ちそうになくて、広澄さんから離れようとする。席から立ち上がると、それを阻止するようにして袖を引っ張られ、バランスを崩す。そして座布団が滑って私は尻もちをついた。


「…った」


 目の前には広澄さん。お酒のせいで目をとろんとさせている。やっぱりお酒の飲みすぎは良くないと後悔した。後退する私を追いかけるように、広澄さんはじりじりと詰め寄ってくる。その眼差しがいつもより真剣で、ドキッとした。


「ちょ…っと、広澄さん。どうしたんですか」


 緩んだ帯のせいで、胸元が見えそうだ。きめ細やかな白い肌が私を誘惑する。今は酔いがまわって正常な判断ができない。頼むから近づいて来ないで欲しい。何をされても文句は言えない、そんな距離。


「私はね、悠ちゃんに怒っているの」


 トン、と背中に壁があたる。彼女の怒りはまだ収まっていなかったようだ。でも、どうしてそれほどまでに怒るのか私には分からない。


「分かってないでしょう」

「え、」

「どうして私が怒っているのか、分かってないでしょう」


 見事に言い当てられる。分からない私は直接彼女に聞いてしまえば良いと思った。


「どうして…そんなに怒ってるんですか?」


 こんなことを聞いてしまう私に呆れてしまっただろうか。しかし、こんな疑問はどうでもよかった。どうでもよくなった、そんな出来事が起こってしまった。


「教えてあげない」


 そう聞こえると同時に、綺麗に生え揃った睫毛が視界の半分を占め、彼女の瞼が目に飛び込んできた。そして、驚くほど柔らかいものが唇に触れる。

 それが彼女の唇だと理解した瞬間、カッと頬が熱くなった。いつもはゆっくり距離を縮めてくる広澄さんに、勢いよく唇を奪われたのだ。逃げる隙もなかった。彼女との初めてのキスはお酒の味だった。


 彼女はおかしいことばかりする。普通、上司と部下はキスなんてしない。絶対にしない。一線を越えてしまったら、それは上司と部下ではない。越えたのは広澄さんの方だ。そう自分に言い聞かせながら、私の体は既に動いていた。


「っ、はるちゃん」


 床に叩きつけられるような勢いで背中を打った彼女は顔を歪める。私にはもう余裕なんてなかった。彼女の上に覆い被さるようにして押し倒す。両手は彼女の両腕を掴み、頭の上で床と両手を縫いつける。


「なにして…っん」


 何かを言おうとしている彼女の言葉を遮るようにして唇を重ねる。何も言わせない。言わせたくない。こうなるってこと、彼女は分からなかったのか。分からなかったのなら仕方ない。私は悪くない。誘ったのは彼女の方だから。


 そうやって自分を正当化しなければ、私は罪悪感の大波にのまれてしまいそうだった。


 唇を合わせながら、私は右手の力をゆるめる。掴むのをやめた右手はすーっと腕の輪郭をなぞりながら中心部へと滑っていく。浴衣が私の進行を邪魔したところで、私の手は彼女の太腿を狙っていた。緩んだ浴衣から手を侵入させるのは簡単で、私の欲は止まらない。


 彼女はどんな顔をしているんだろうか。それを見たくて唇を離した。それと同時に優しく撫でるような手つきで太腿に指を這わせる。彼女の甘い声が微かに聞こえて、心臓がぎゅっとつかまれてしまった。

 潤んだ瞳が私のことをじっと見ている。そんなふうになまめかしい表情をさせるのは、お酒なのか、私なのか。考えたら分かる。そう、彼女は酔っているだけだ。

 それが無性に腹が立つ。腹が立って仕方がない。いつもは一線を越えないのに、どうしてこうなってしまったのか。いつもと違うことは、お互いにお酒を飲んでいるということだけ。


 自分に自信の無い私は、帯に触れる勇気が出なかった。これ以上先には進めない。いくじなしだ。そんな自分がまた嫌になる。


「もう寝ましょうか」


 急に怖くなった私は、全てを放り投げて、よろよろっと立ち上がる。そして、逃げるようにして、既に敷いてある布団にダイブした。頭がズキンと痛い。何も考えたくない。


 今日のこと、全て無かったことにしたい。どうせ彼女も無かったことにするだろう。一夜限りの過ちなんて、よるあることだ。そうだ、忘れてしまえばいい。きっと彼女も明日には忘れているんだから。

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