嫌いな女

悠井すみれ

第1話

 神崎かんざきりょうは、中島なかじま陽菜ひなが嫌いだった。


 その理由は、幾らでもある。例えば、甘い匂いを漂わせる長い茶色っぽい髪、日常生活にも不自由しそうな長くて尖った爪。昆虫の威嚇色を思わせる目の周りの鮮やかな色。どこを取っても頭が悪そうで、彼とは違う世界の生き物だと思う。


「えー、深大寺じんだいじって東京にあるんですかあ? 深大寺蕎麦、は聞いたことがあったんですけどお、お蕎麦だから長野とかかな? って思ってましたあ」


 それに、こうして恥ずかしげもなく無知を晒して笑っていられるところも、そうだ。語尾を伸ばすのは馬鹿っぽいから止めた方が良いだろうに、と亮はいつも密かに思っている。


「そうそう、超近く……って、調布駅に案内出てたでしょー?」


 同期たちはよく付き合っていられるものだと思う。電気通信大学に女子学生は──それも、中島陽菜のような女は──少ないから、だろうか。貴重な異性との交際の機会を得るためならIQの差も我慢する。インカレサークルなんて、大体こんなものなのだろう。

 時刻は午後になったばかり、土曜日とはいえ前期試験を控えた時期とあって大学会館二階の食堂に、学生の行き来は多い。珍しい女子がいる一角はただでさえ人目を引くのに、中島陽菜は「浮く」のを気にせず高い声を響かせている。


「ヒナちゃんてそういうとこあるよねー。こう、視野が狭いというか?」

「深大寺行きバスが出てるの、確か駅のこっち側でしょ」


 同期たちが中島陽菜を「いじる」遠慮のなさは、電通生同士では決してないものだ。彼女の大学は偏差値で大きく劣るし、中島陽菜自身の知識も浅いと見切っているから。


「しょーがないじゃないですかあ、今日初めて気付いたんだから」


 子供っぽく唇を尖らせる中島陽菜は、彼らからの評価に気付いてはいないのだろう。気付いていたら、こんな幼稚な言動を続けることはできないはずだ。


「で、深大寺って何があるんですかあ? パワースポットとか? あるんです?」


 事実、中島陽菜は無邪気に首を傾げた。その問いに答えられる者は誰もいなかったが。


「それは……知らないけど。近すぎて逆に行かないからなあ」

「えー、知らないんですかあ? 近くなのにい?」


 このやり取りの切っ掛けも、中島陽菜の疑問だった。今日に限って調布駅がやたらと込み合っていたのはなぜだろう、と。それに対して、深大寺で何か祭りでもあるのだろう、と教えたのが亮だった。だから、彼女の無知が露見した切っ掛けは彼だ。なのに、彼が感じる気まずさを中島陽菜は全く感じていないらしい。恥を掻かされた、という概念がこの女にはないのだ。その図太さも、亮には理解できないものだった。


「近くだって、用がなきゃ行かないでしょ」


 こんな女のことだから、中島陽菜に亮たちの無知を笑う意図はないはずだ。そう、分かっているのに、彼女の言葉はなぜか亮の神経を逆撫でて、答える声を必要以上に尖らせる。そしてやはり、中島陽菜はあっさりと笑う。


「じゃあ、行きます? 深大寺。試験が終わった頃なら良いですよね? せっかくのお出かけサークルですしい。……あ、今日は鬼燈祭りってやつだったんですね」


 サークル名なんて、人を集めるための看板でしかない。彼女だって男目当てなのだろうに、律儀に名目に沿った活動をしようとする愚直さ。素早くスマホに目を落とすフットワークの軽さ。それらも、中島陽菜の嫌なところだ。彼女にとって人生は喜びや楽しさや新しい発見に満ちているらしいと、見せつけてくるようだから。


「鬼太郎茶屋だって! 懐かしー! 面白そうじゃないですう?」


 満面の笑みで中島陽菜がスマホの検索結果を向けてきた時も、亮にはどうでも良いこととしか思えなかった。何が面白いのか全く分からない。分からない──この女への嫌悪を突き詰めれば、要はその一語に集約されることになるのだろう。




 それでもサークルにおける女子の影響力は絶大だった。亮が口を挟む隙もなく、八月の平日の午前中を狙って深大寺界隈を散策するスケジュールが決まっていったのだ。

 調布駅からバスに乗って十五分も揺られると、車窓から見える景色はほぼ森になっていた。日差しを遮る木陰が盛夏の割には涼しげで、けれど降るようなセミの声は確実に季節を主張している。大学のすぐ近くにこんな空間があることを、亮たちは初めて知った。


「鬼太郎茶屋、あっちですよ。早く早く!」


 バスが止まるかどうかのうちから腰を浮かせていた中島陽菜は、ドアが開いた瞬間に車外へ飛び出した。見るからに歩きづらそうなサンダルの癖に、危ないと止める暇もない。苦笑する年配の客に、亮が頭を下げているのも見えていないようだ。


「はは、ネズミ男じゃねーか」

「ほら、屋根見てみろよ。下駄が乗ってる!」


 鬼太郎茶屋を目にした途端、同期たちもはしゃいだ声を上げてはスマホを取り出すのが亮には信じられなかった。それは、もちろん亮も知っている作品とキャラクターだけど。ふうん、で終わる程度のものだ。パッケージを変えただけの駄菓子、模様を入れただけの手ぬぐいやらメモ帳やら。良い年をした大学生が、目の色を変えて買い漁るようなものではない。


「神崎サン、一枚とってください。猫娘ポーズ!」


 そして一番子供っぽいのが、やはり中島陽菜だ。亮の苗字を呼びながらスマホを渡して、両手の指を広げて口を大きく開ける。猫が威嚇しているポーズのつもりらしい。長い爪は確かに猫娘らしいかもしれないが。スマホを構える亮の背中に、通りすがりの人々の視線が突き刺さる。どうして悪目立ちを恐れず、堂々とおどけて笑っていられるのだろう。やはりこの女は分からない。これだから嫌だ、と思いながら亮はスマホを返した。




 その後も、中島陽菜が立てたプランに従って一行は深大寺周辺を散歩した。彼女が目星をつけた蕎麦屋で、深大寺ビールで乾杯。焼き物屋では全員がお揃いの蕎麦猪口を買わせられて。国宝の白鳳仏も拝観した。どれも、中島陽菜が一々はしゃぐのを余所に、亮はふうん、としか思わなかった。だって、そこそこの由緒があるにしても寺ひとつの見どころなんてたかが知れている。修学旅行とかで京都に行ったことくらい誰にだってあるだろうに。何にでも歓声を上げて大げさに喜ぶ中島陽菜の方が変だろう。


 そして仕上げは、本堂での絵馬の奉納だった。


「縁結びのお寺だからあ、メインイベントですよね! 楽しみにしてたんですよお」


 良縁成就、と書かれた華やかな絵馬を握りしめて、中島陽菜はご満悦のようだった。同期たちも各々ペンと絵馬を握って何かしらを祈願しようとしている。そんな中でひとり手ぶらで佇む亮は目立ったらしい。中島陽菜が、近寄ってきてしまう。


「神崎サンも書きません? 就活もご縁にカウントされるらしいですよお?」

「俺はいいよ。信じてないし」


 就活、なんて単語が真っ赤な唇から飛び出すのが、少し不思議なほどだった。この派手なメイクや爪で、面接に臨むのだろうか。恋愛関係の願いではないのだろうか。眉を顰めかけて──不意に亮は気付く。彼女の将来のビジョンについて、彼は何も知らなかった。


「ほんとですかあ? 神崎サン、いっつもつまんなそうだからあ。楽しいですかあ?」


 中島陽菜の伸ばした語尾が、妙に亮の胸に刺さった。事実、つまらないし楽しくなかったからだ。見抜かれたのだ。彼はこの女ほど単純でも無知でもないから仕方ない? いや、違う。彼だって深大寺に何があるか知らなかった。分からないのでは、ない。彼は、知ろうともしなかったのだ。中島陽菜について、彼女が見る世界、彼女が笑う理由について。


「……楽しいから。大丈夫」

「じゃあ、良かったですけどお。もっと笑った方が良いですよお?」


 動揺を取り繕うための一拍の間を疑った様子もなく、中島陽菜は晴れやかに笑った。彼女はもう亮に注意を払っていない。つまらない男は放って、例によって楽しそうに嬉しそうに、絵馬に何ごとか書きつけている。彼女の頭が悪そうな丸っこい筆跡は見たことがあるが、その字で何を書いているのだろう。不意に、知らなければならないと思った。


「あ──」


 何を書いているの、と。尋ねればきっとすぐに答えてくれるのだろう。亮の方から彼女に話しかけたことはないけれど、中島陽菜はそういう女だ。分からないなら聞けば良いのだ。簡単なことだ。でも、亮の喉は干上がり舌は固まって、声が出てきてくれない。


 別に、聞かなかったからといって何がある訳でもない。中島陽菜は亮のことなど気にしない。亮もこれまで通りつまらない顔でやり過ごせば良い。でも、分からないこと、知らないことをそのままにしておくのが今は無性に嫌だった。それでは中島陽菜は嫌いな女のままだから。それこそ訳の分からない衝動に駆られて、亮は大股に中島陽菜に歩み寄った。


 傾き始めた夏の陽が落とす影によって気付いたのだろうか。中島陽菜は首を傾げながら亮を見上げた。いつも笑ったような彼女の口元を睨むようにして、亮は大きく息を吸った。

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嫌いな女 悠井すみれ @Veilchen

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