「黄色のバラ」前夜譚…私が飛行機に乗り込むまで

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「黄色のバラ」前夜譚…私が飛行機に乗り込むまで


 結婚四年目の、まだそれほど寒いとも感じない冬の始まり。


 夫とクリスマスの飾りつけ等という些細な事から始まった口論が、いつの間にかなじり合いの大喧嘩になり、二日間お互い口も利かなかった挙句、耐えかねて私は部屋を飛び出した。


 実際のところ、詰られたその言葉に腹が立ったのか、それとも途中で『もうこれ以上話すことは無い』と言ったまま、無視を決め込んだ夫にムカついたのか、それは自分でも分からないのだけれど、兎に角、『この人と同じ空間で同じ空気を吸うのは今は無理』、そう思った瞬間に、私は小さめの旅行カバンに取り敢えずの身の回り品だけ詰め込んで、パンプスを突っかけたのだった。


 正直言うと、旅行カバンに思いつくものを詰め込む間に、ひょっとして自分の気持ちが少しは落ち着くんじゃないかしら、とか、玄関を出る前に彼に見つかって引き留められるんじゃないかな、なんて、少しは期待?していたことは否めない。


 だがしかし、そんな事は微塵も起こる気配はなく、私はサクサク機械的に荷物を纏めたし、玄関を出る時も、夫は休みで家に居たにも拘らず、書斎から一歩も出てはこなかった。


 部屋を飛び出して、特に行き先も何も考えずバス停に向かっている最中に思ったのは、『何故パンプスを突っかけちゃったのだろう、スニーカーにしておけば良かった』、ってこと。


 行き先も考えないまま、来たバスに乗り込むと、そのバスは羽田空港行きのバスだった。


普段はバスなんて殆ど乗ることのない私は、何も考えずに兎に角近所のバス停に辿り着き、車線の方向も考えずにバス停の列の最後尾に並んでしまっていたらしい。


 良いも悪いも無いのだけれど、確固たる目的地は無いにせよ、どちらかというと自分の中では都心に向かう心づもりで居たように思うのだが、乗ってしまったものは仕方がない。


バスに揺られながら、少し落ち着いて考える。羽田空港ターミナルまで行ってみよう、ショッピングをしてランチでも食べれば、或いは気も晴れるかもしれない。


 車窓から見える景色は次第に都会の喧騒から引き剥がされて行き、いつしかフェンスの向こうには空港の広大な敷地と多摩川の対岸の工場地帯が見え始める。


 あっちの工場は川崎よね。その手前辺りに川崎大師があったと思うのだけれど、どの辺りかしら。


 日ごろ見慣れない風景に、ぼんやりとだが高揚感に似た何かを感じつつ、いつしか目の前に巨大な空港ターミナルが現れた。


 空港の停留所に近付き、バスを降りる直前になって周りの他の乗客に初めて気を止めてみると、水曜平日の午前八時半、観光や遊覧の為に空港を訪れる様子のお客は唯の一組も居らず、皆一様にビジネスかそれに近い目的と思われる乗客ばかりだった。


 スーツ姿で大きめの旅行カバンの人はこれから出張なのか、若しくはその帰り、ブリーフ・ケース持ちの男性や肩掛けカバンの女性は空港勤務の人達かしら、それからあっちのジャージ姿の青年は大学生の何かのスポーツでの遠征なのかしら。


 そこへ来て、私ときたら何とも中途半端な格好で羽田まで乗り込んでしまったものだ。


 渋谷か新宿の雑踏で気分を紛らわし、青山辺りの美容院で髪をスッキリ整えて、スカイツリーの見えるどこかのシティホテルに一、二泊でもすれば、それ以外は行き当たりバッタリの東京ぶらり旅宜しく、好きに過ごせれば良いと思っていた私は、淡いパープルのフレアスカートに紺のブラウス(肌着はUネックの半袖ヒートテックだ)、上着は何故かレザー風の茶色のジャケット、それに紺のパンプスだった。


 ビジネス風に見えなくもないが、それにしては赤みの強すぎる茶色のジャケットは違和感があるし(しかもレザー風だし)、これからバカンス若しくは久々の帰省というには余りにもやる気のない出で立ちなのだ。しかも小さいとはいえ、しっかりと旅行カバンを手にしている・・・。


 これでは地方の家出少女と変わらない、な。まあ、「少女」という部分はさて置き、実際に家出をしてきた訳ではあるが・・・。こんなことなら少なくとも髪はしっかりアップにして、アイシャドーくらいはシッカリ引いて来るべきだった。


 そう思うと、何だか周りの目が気になって仕方がない。私は果たして浮きまくっていないかしら、挙動不審のおかしな女と思われていないか、いやいや、そんなことを考えてキョロキョロと周りを見回す動きこそ挙動不審そのものではないか、落ち着け、私。


 バスが停車し、私はさも当然の様に、更には何事も無かった様に、そして心の動揺を隠しながら、人々に続いてバスを降りる。


 空港ターミナルに入ってしまえば、人混みに紛れて少しは落ち着くかもしれないと思い、そのまま人の流れに乗って建物の中に入りはしたが、建物に入った瞬間、それも間違いだったということに気付いた。


 先ずバスから一緒に降りた乗客たちは、ガラスの扉を抜けて中に入ると、皆其々てんでバラバラに違う方向にばらけてしまったし、ターミナル内の広いフロアに人影は疎らだった。


 そうだった、年末とはいえ、まだ今日は十二月第一週の水曜日、午前九時ちょっと前。旅行だろうがビジネスだろうが、空港に用事のある人間なんてそう多くはないのだ。


 だだっ広くガラガラの空港ロビーで、再びキョロキョロと周りを見渡してしまう。


 ダメよダメだめ、私は自分に言い聞かせる。ええっと、どこだったかしら、確か京浜急行かどこかの改札外側に、コーヒーショップ、「プロント」か「ドトール」が無かったかしら、


ええ、あったわ、きっとあそこにあったと思うわ。


 私は頭上前方の表示看板を確認して、「京急⇒」表示に従い矢印の方向へ向かった。今来たばかりなのに、何故か京浜急行の改札方面に向かう私は、それこそ何かのアリバイ工作を行う女スパイにでもなった気分だ。誰かに声を掛けられたら、私、心臓が飛び出しちゃうかもっ。


 何だかおかしな気分になってきて、どうも勝手に足早に進んでしまう。履いている靴はパンプスだ、ハイヒールよりはましだがスニーカーよりずっと動き難い。


 下りのエスカレーターを降りたところで、右側に「プロント」を見付けて歓喜する。


 そうか、「ドトール」ではなく「プロント」だったのね、兎に角早く身を隠さなきゃ・・・。


 私は急いでカウンターに飛び込むと、メニュー表も見ずに注文を告げる。


「カフェラテ、ホットで、Sサイズ」


「ご注文は以上で宜しいでしょうか?」


「はい、お願いします」


「畏まりました。カフェラテ、レギュラーサイズ、319円でございます」


 あれ、プロントさんはサイズは「S、M、L」じゃなかったんだ・・・それにしてもそんなにハッキリ「レギュラーサイズ」って言い直さなくてもいいじゃない。こっちは唯でさえ誰かに見付かりはしないかと気が気じゃないんだから、もうっ。


 カフェラテを受け取り、辺りを気にしながら奥のイートインスペースへと進み、一番奥の壁際の席に腰かける。


 席に就いて、カフェラテをひと口すすり、「ほぅ」と一息。


 ん?そういえば、何故に私は人目を避け、どうして誰かに見付かっちゃいけないのかしら?私って、何か法に触れるような悪いことをしたかしら?


 ・・・。


 いいえ、私は至って善良な一市民であり、誓って犯罪行為に手を染めたことはありません。税金はちゃんと納め(夫の裕一くんが)、選挙には欠かさず投票所に行き(前回は白票で投票したけど)、マンション自治会の回覧板だって一度も遅れずちゃんと次のお宅に回しているし、ごみの分別に関しては一家言を持って事に当たっているという自負さえある。


 そんな一小市民の私が、1300万分の1都民の私が、どうしてコソコソ身を隠す必要があるのかしら?


 家を飛び出す時、裕一くんに見付けて引き留めて欲しい気持ち半分、もう半分はやっぱりコッソリ家を抜け出して遣りたいという気持ちの鬩せめぎ合いで、その後者の感情を引きずってここまで来てしまったに違いない。恐らくそういうことだ。


 少し自分が可笑しくなって、クスッとひとり笑ってしまう。


 あ、いけないいけない。そういうところを他人に見られると、やはりオカシナ女だと思われてしまう恐れがある。


 カフェラテをすすりながら携帯電話を取り出して、LINEと+メッセージを確認する。LINEが四件と+メッセージは無し、っと。


 どれどれ、淳くんはもう起きたかな?私が居ないことに気付いて慌ててLINE入れたかな?


 そしてLINEを開いて、再び怒りが込み上げてきた。


 LINE着信、①LINEクーポン、②LINEスタンプ、③ウエルシア薬局からのLINE広告、④LINEトラベル、各一件ずつ、以上。


 裕一くんからのLINEは、無し。


 この期に及んでシカトするとは、あの男、本っ当に腹が立つ。


 いや、ちょっと待って。もしかして朝から一度もリビングにも顔を出さなかったってことは、本当に具合が悪くて出てこられなかったりしたのかしら?だとしたら、私はそんな夫を放ったらかしにして家を空けて遊び回ってる血も涙もない妻ってこと?


 ・・・。


 いいえ、断じてそんなことはない筈。逆に放ったらかしにされてるのはこっちの方だ。ここは怒るべきところであって、間違った情に流されるところではない。


 良いの、忘れましょう。今日、明日、それに或いは明後日まで、すっかり忘れるの。考えたら私の負け。そう思い直して、LINEに届いたメールを一件ずつ開いては消し、開いては消す。


 そして四つ目のラインを消そうとして、ふと指を止めた。


 目に留まったのはハイビスカスと青い海、白い砂浜の写真、そして「OKINAWA」の文字。


 鮮やかな赤いハイビスカスの画像に目を奪われたまま、暫し考える。それから慌てて携帯画面をGoogle検索に切り替えて、「羽田発 沖縄着 時刻表」と打ち込む。


 今から一番早くて乗れそうなのは・・・JALの11:30発かぁ。ええっと、更に画面を二分割にして、「当日 航空券 最安」っと、そして検索ボタンをポチッと。


 『ネット予約も・・・120分前までOK・・・』かぁ。


 腕時計を確かめる。現在の時刻、午前九時四十分。11:30発那覇行き、これはちょっと無理っぽいなぁ・・・。


 私は二分割上部の画面に視線を戻し、じゃ次は・・・あ、更に一時間後に、ANAからあるじゃないっ。


 往っちゃおうかな・・・。どうしよ?


 田舎のおばあちゃんが言っていた言葉を思い出した。


『迷った時には止めておきなさい。でもね、悩んだ時には前に進むの。善は急げの、急がば回れ。晶子ちゃん、分かる?』


 そう言ってニコニコ笑うおばあちゃんの笑顔が大好きだった。


 今はどっちなんだろう?迷っているのか、悩んでいるのか・・・。こうしている間にも、チケット購入のタイムリミットは刻一刻と迫ってきている・・・。


 


 ・・・あ、そっか。私は悩んでいたのか。


 パチンッと胸の奥のどこかで音がして、私の心は吹っ切れた。


 それからサクサクと画面上で指を動かし、クレジットカードの承認番号まで入力して、決定ボタンを「えいっ」とばかりにタップした。


 約三十秒後、着信メールのコールがされて、そのメールを開くと、そこにはANAの沖縄行きの便名と出発時間、そしてQRコードが記載してあった。


 嗚呼、チケット、GETしてしまった。割引価格、三万円弱・・・。これは高いのか、安いのか。主婦にとって、一撃三万円は決して安くはない。しかも帰りにも同じ金額が掛かるのだ。


 嗚呼、どうしよう。絶対に裕一くんに怒られるヤツだ。


 いや、違う。怒っているのは私の方だった。


 そして再びおばあちゃんの言葉を思い出す。『悩んだ時には前に進みなさい』。


 随分とぬるくなった残りのカフェラテを飲み干し、私は席を立った。そして再度、腕時計を確認する。


 午前十時ちょうど。


 これ以上気持ちが揺らがない為にも、私は急いで出発ロビーの保安検査場に向かう。


 ちょっとだけ、ワクワクが止まらない。




 そしてGATEを潜った。




 二時間後、私は機上の人となった。



《つづく…かも? …かな?》

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