鼻の先に睨む火

杜松の実

鼻の先に睨む火


 陽の傾いた空色をみて、秋も深まったな、と何に影響されてか考えていた。私はお互い部活動に入っていないリコと、コンビニの前でアイスをかじっていた。もう暑くないのだから、アイスを食べたい気分ではなかったけど、コンビニに立ち寄るのは何だか日課となっていたから、仕方なかった。リコは夏が終わることに対抗していたのかもしれない。

 リコが買ったのは一三〇円のラクトアイス、私は六〇円のアイスキャンディーだ。

 そこに一人の男の人が歩いて来た。サンダルに、グレーのスウェットのズボン、着古してよれたネイビーのリネンシャツは前を開けており、中には真紫のティシャツを着ていた。陽の明るい内にそんな恰好をしていては、近所をうろつくにしても、目立っていた。一言で言えば、随分だらしない。左手をスウェットのポッケに突っこみ、リネンシャツの裾に風を流して歩いている。

 男はコンビニに据え付けられているスタンド灰皿で止まって、突っこんでいたポッケから、煙草とライターを引き抜いた。赤と白のパッケージの煙草から一本出し、左手で風除けを作ってライターをカチッとやる。一回では点かず、二回三回とカチカチしていた。眼鏡の奥の目は、タバコの先を睨んでいるようだった。

 私はその様子を、隣のリコに気づかれないように、盗み見ていた。それをかっこいいと思ったのだ。

 その週末、私は男をできるだけ真似て、ジャージのパンツに着古したネイビーのシャツ、紫のティシャツは無かったから、持っている中で一番色の強い蛍光グリーンのティシャツで家を出た。父の足跡のついた履き潰したサンダルに足を入れることには抵抗があったけど、なんとか我慢して借りることにした。

 街はずれの、普段は絶対使わないコンビニまで歩いて行った。レジ奥の棚には何種類もの煙草が並んでいる。それらにどんな違いがあるのかなんて、想像もつかない。とにかく、唯一知っているものを探した。漫画のキャラクターが吸っていた、マルボロだ。あまりレジ前でうろうろして、こいつ慣れてない、と怪しまれてもいけないと、他の商品を物色している体をつくろって探した。ようやく見付けたが、今度は近眼で番号が読み取れない。

 仕方なく、レジに立って、指さしで「マルボロ下さい」と伝えた。店員はさらっと振り返り、「ボックスでよろしいですか」と聞いて来た。ボックス!? ダースで買わされたら、きっとお金が足りない。私は焦って、「それじゃない方で」と答えた。渡された赤と白のパッケージのそれをポケットにしまって、私は足早に店を出た。ライターを買い忘れていたことに気が付き、また別のコンビニに入って一番安いライターだけを買った。

 帰り道は緊張で顔がこわばり、動機が激しかった。イケナイことをしていると、こんなにも苦しいのか。線路を越す跨線橋にはひさしが付いており、そこから眺める街は秋の昼の光に包まれて、民家の屋根もきらきらしており、空は園児の絵みたいに、ぬりたくられたクレヨンの青だった。雲がこんなにもないと、空がずいぶん高く見える。ここから見える景色に、もう私の生活圏に帰って来ていたことに気付かされた。

 家に着くとまっすぐ自分の部屋に入って扉を閉め、学習机の引き出しの奥の奥に、煙草とライターを隠した。

 その日の夜、両親が寝静まったあと、ひとり引き出しを開けて、取り出してじっと見た。フィルムを、ピーナッツのチョコ菓子の包装みたいに、開封用のタグを引いてぴりりと開ける。次に上部のアルミ箔を、留めている紙帯を破らないように、慎重に割いていった。初めて触る煙草なのに、その開け方はなんとなく分かっていた。

 アウトローの刑事がやっているように、煙草を手首のスナップ利かせて振る。目論見では、タバコが一本、ひょいと出て来るはずだったが、微動だにしない。もう一回やってみても、結果は一緒だった。少しやけになり、二三回続けて振ってみると、ぼろっと四本ほどこぼれて床に落ちてしまった。途端にイケナイことのゾーンが広がってしまい、いま親が起きてしまえば隠しようがないと、焦って学習机の下に頭を入れて拾う。

 拾い終えて頭を上げる際、どたんと机に打ち付けて、息を呑んだ。煙草を腹に抱えて、机の下に潜む。寝巻にポケットは付いていなかったから、他に隠せる場所が思いつかなかった。よかったことに、どれだけ待っても、両親は起きて来なかった。

 その日はそれだけやって、煙草を元に戻して寝た。

 学校にいる間は、ずっとそわそわしていた。これまで親に引き出しを開けられたことなどなかったが、こういうときに限って、開けられているのではないか。そして、驚嘆と憤慨の籠った悲鳴を、今頃あげているのではないかという妄想が、何をしていてもやまなかった。ひどいストレスだ。

 放課後、いつものようにリコと遊んでいる内は忘れられたけど、不意に煙草のことを思い出してしまうと、トイレに行きたい焦燥感に似たものが胸を占め、何かと言い訳を付けて早く帰る、なんてことが増えていった。ひどいときは、親が寝込んでいるとまで嘘をいて、家に直帰することだってあった。

 この街では十一月上旬に大きなお祭りをやる。幹線道路にずらっと屋台が並び、山車だって回す。一年でこの日だけは、夜おそくまで遊んでいていい日なのだ。

 私は、リコには家の用事でお祭りに行けないと言い、母には例年通りに晩御飯はいらないと伝えて家を出た。

 街に背を向けて歩く。シャツの胸ポケットには煙草とライターが入っており、羽織ったパーカーは首元までチャックを上げている。

 日はすぐにかげり、黄昏は宵に、宵からは一層ころがるようにして、景色が夜へと深まっていく。田舎の住宅地の街灯は、足元の白線さえ見えにくいほどまばらだ。家から五〇〇メートルと離れていないが、この辺りに足を運んだ記憶はない。住宅の明かりも、どんよりに映る。こんな近所が、全く知らない遠くの町に思え、なんだか私を焦らせた。

 気を弛ませてしまえば、怖くなって足を止めてしまいそうで、足早に先を進んだ。

 目的地はない。ただ、胸に収めたこれを吸える場所を求めて、目を走らせた。

 足を止めずに振り返る。ああ、ほんとうに知らない場所だ。前も後ろも、住宅に明かりは灯っていても、通りに人気はない。何で振り向いたのだろう。自意識はなかった。私の後ろめたさがそうさせたのか。あるいは、怖気づいたのかもしれない。

 間も無く公園があった。ブランコと小さな砂場、それから一本の電灯に照らされたペンキの剥げたベンチがひとつ、それしかない寂れた公園だった。奥によく見えないけど、町内会なんかが使うプレハブの倉庫がある。脇には葉の繁った木があった。あの影なら、通りからも見えないだろう。そこに決めた。

 公園の中には落ち葉が散乱し、踏み拉くとしゃきしゃきと音を立てる。このときには、人が居ないことに却って慣れて、足音が立つことを気にも留めなかった。

 倉庫と木立の隙間は、鳥居をくぐったときにも感じる、しんと空気が変わる気配があった。風が吹くと、乾いた葉が鳴り合うがさがさっ、が耳元で起こってぞっとした。

 パーカーのチャックを水下みぞおちまで降ろして、煙草を取り出す。ふっと振ると、上手く一本だけ、頭のフィルター部分がにょいと出た。そいつを手で抜き取るのではなく、口唇でつまんで抜く。その方がかっこいいからだ。

 次いでライターも出し、試しにカチッとやると蝋燭のやつよりも大きい火ができて、ゆらゆら揺れている。

 もう恐怖や不安はなかった。あるのはドキドキだけだ。一度タバコを手に持ち替えてから、乾いた唇を舐めて、また咥える。鼻先のライターを睨んでカチッとやって、タバコの先に当てる。

 けれど、タバコは、周りの紙が焦げても、中に火が点かない。ライターの火はタバコの先を撫でただけで、直に消えてしまった。試しにそれで吸ってみたけど、すかすかのちょっと焦げ臭い空気、ってだけで、多分これじゃない。おんなじことを二回やったけど、当然だめだった。

 安いライターだからダメなのだろうか。でも、タバコに火を点けれないライターなんて、売っていいのかと疑い、苛立った。

 スマホで「タバコ 吸い方」と調べると、タバコを口に咥えて、息を吸いながら火を点けると書いてあった。私の不安は粗末なもので、正しい吸い方が分かると、再びドキドキ、ワクワクに支配された。私の憧れは、あの漫画のキャラクターや、映画の中のスターたちに始まり、戦後の日本を彩った偉人たちはみんな所かまわず吸っていた。

 カチッと、そして、吸うっと。ああ、火が点いた。名俳優のつもりで中指と人差し指でタバコを抓み、口からもくもくと煙を出してみせる。いよいよだ。そこからの吸い方も先ほどの記事に書いてあった。口で吸って吐けばいいものだと思っていたが、口で吸ってから、さらに鼻から空気を入れて、口に充満させた煙を肺へ落とし込むのだと言う。

 タバコを咥える。このとき、センターで咥えては、水商売の女みたいで嫌味ったらしいから避ける。そうして吸うと、タバコの先がちりちりと言って赤く染まった。口に煙が充満している感触は思ったよりない。よし、と意気込んで鼻から一息いれた。

「ヴエッ、ゴホッゴホッ」

 むせた。涙が出るほどむせた。口に入れる煙の量が多かったのかもしれない、鼻から吸う勢いが強すぎたのかも、私はそう自分に言い聞かせた。それらを調節して試みても、

「ゴホッゴホッ」

 またむせた。目に涙が滲む。一つの思いを否定するように二度三度と挑戦するも、私の喉は煙を受け付けてくれなかった。もしかしたら、私は体質的にタバコが合っていない人間なのかもしれない。本気でそんなことを考えていた。

 はっ。枯葉を踏みつける足音がする。誰かが近づいて来ることに、私は恐怖を抱かず、手にするタバコをどうにか始末しようとは、少しも考えなかった。相手はどうやら私が倉庫の影に潜んでいると見当付けているらしく、迷い無くずかずかと来る。私は咳き込んでいたことを聞かれたと思い、恥ずかしんでいた。そんなところから、どうか来ないでと祈っていた。

 しかし、私のそんな思いは届かず、とうとう私の視界の先に男が現れた。月の出ていない夜だ。それに、公園にはベンチに向けられた電灯の他には、道路沿いに一本明かりがあるだけだったから、男の姿は影法師のようにしか見えなかった。

「駄目だよ。タバコなんて」

 私が何も答えずにいると男は続けた。

「君、まだ学生だろ」

「はあ? なわけないじゃん」

 虚勢ではあったが、事実学生であることから、すぐに応答できた。

「いや。知ってるんだ。君、日北の学生だろ」

「違うっつってんだろ」

 日北は私が通う高校だ。私はすぐにもそこから立ち去りたかったが、倉庫と木立に挟まれた空間の出口には男が立って居る。

「知ってるんだよ。前にも会ったことあるでしょ。ほら、コンビニの前で。あの時、僕がタバコ吸ってたら、じっと見てきたじゃないか。僕、女の人にあんな風に見られたの初めてで、それで――」

「何? あんた、ストーカーなの?」

 男は頭を搔きながらばつが悪そうに、

「ごめん。そうなるかな?」

「きも。何それ、ありえない。ほんと、ムリ」

 未成年での喫煙が露見したことにも、それがストーカーによることにも、そして自分がストーキングされていたことにも、精一杯苛立っていた。ただ、最後のものに関しては、自分でも分からない、優越感にも近い感情があり、それにも戸惑って苛立った。

「ごめん。僕もこんなこと初めてで。自分でも気持ち悪いと思ってるんだ。だから、そこまで言わないでくれよ。それに、本当にタバコはやめたほうがいいよ」

「あんたに言われたくない」

「そうだね。そうだよね……」

 私の指の先には、一度も満足に吸われていないタバコが、風に煽られてどんどん短くなっている。

「でも、それはまだ早いんじゃないかな? それ、タールが十二もあって、結構重いやつなんだ。そうだ、こっち吸ってみない? これなら、六しか入ってないから吸いやすいと思うし、メンソールだから初心者向きだと思うよ」

 男はズボンのポケットから出したものを、こちらに差し出してくる。

「大丈夫、これ未開封だから」

 私はやや警戒しながらも受け取った。封を開けようと、タバコをぽとりと捨て、男の「あっ」を無視して踏みつけた。

「ちょっと、駄目だよ。そういうことする人がいるから、どんどん喫煙者が肩身の狭い思いをするんだよ。携帯灰皿は?」

「ない」

「もう」と、男は自分の携帯灰皿を取り出し、ここに捨てて、と言わんばかりに、これまた差し出してくる。私は言われるままに、吸い殻を拾うも、そこへ捨てることには躊躇っていると、

「もしかして、僕がそれを舐めたりとかするって考えてる? まさか、そこまでイッちゃってないよ」

 男の口調が、緊張が解けたのか、いくらか弾んでいることに、なぜか腹が立ち、私はあえて、

「でも、ストーカーでしょ」

 と言ってのけた。男は分かりやすくしょぼくれて、「うん。だよね」と頷くものだから、罪悪感にかられてしまう。

「ああ、わかった。捨てるよ。はい」

 私が男の手の中の携帯灰皿に吸い殻を捨てたことがよっぽど嬉しかったのか、

「これはね、デイリーエイトマートで買ったんだ。他のコンビニのやつよりも、こっちの方が使い勝手いいよ」

 と指南までしてくる。私はそんなことには構わず、男から受け取った煙草を開けようとするが、暗くてフィルムの開け口が見付からない。

「ちょっと、光あててくれる?」

 男がスマホのライトを当てると、白い高級感のあるパッケージが現れた。すうっとフィルムを割いて箱を開ける。中のアルミ箔を除くと、三列に、フィルターまで白いタバコが並んでいた。

 一本を手で抜き出し、口に咥えて火を点ける。男に見られている前でむせないように、細心の注意を払って、鼻から息を吸った。

 むせなかった。口に残る、歯を磨いたあとのようなメンソール感は、私の見聞きして来たタバコ像とは異なったけれど、吸えないよりはマシだった。

 すごい満足感があった。タバコを吸って大人になった気がする、と思うほど私は子供ではないけれど、やはり他のものでは得難い、満足感、充足感に覆われていた。

 私は男が無言で向ける灰皿に灰を落としながら、倉庫と木立の狭間から見上げる空を肴に、タバコを楽しんだ。そのとき、

「うわっ。流れ星」

「えっ? ほんと?!」

 確かに流れ星を見た。多分、人生で初めて見たと思う。男が今更首を振って探す様は滑稽で、私はすっかり気を許していたと思う。

 そうして一本吸い終わる。もう帰ろう。

「これ、私吸えないから、あんたにあげるよ」

「え。いいの? ありがとう」

 男は私から受け取ったマルボロを、鞄から取り出したフリーザーバックに入れ、丁寧に空気を抜いていた。その仕草に、やっぱりストーカーだなぁ、なんて気持ちわるがりながらも、微笑んでいた。

「じゃあ、ね。また。またって言うのも変か。それじゃ、さよなら」

 そう言って男は闇にとろけて消えた。

 その日以来、視界の端に、男の影が見えるようになった。

 それから、その日以来、チャンスがあるごとにタバコを吸った。

 それだけ男の存在は日増しにストレスになっていった。

 それでも通報はできない。男の家には、私の指紋の付いた煙草と、吸い殻があるのだ。

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