五 エピローグ

  


 スウキは汽車を降りていました。目の前に大きな湖があり、水月すいげつのような、白くぼんやりしたものが浮かんでいます。


「あれはもう、だめなんでしょうね」と見知らぬ中年男がスウキと並んで湖面を見つめていて、言います。「もう四十五分くらい、ああやって浮かんだままです」

 スウキは答えます。「さっきまで、私が頭の中でこねくり回していたものです。小説がボツになることはよくあることです。少しも惜しくありません。もっとすばらしい〈次〉を生みだせば、葬り去られたアイディアたちも報われます」

「そういうものなんですか」男はぼうっとつぶやきます。「私は小説なんて書かないから、よくわかりませんが」


 尖った草が風に倒された体を戻します。世界の影形かげかたちをほとんど呑み込んでしまっている暗闇の風景が懐かしく思えるのは、やはり原初に近いからでしょうか。

 翌日、まったく別の姿をした、新しい十年後の自分小説が明るみに押しだされました。それは幸いにして湖に揺蕩たゆたうことなく、先生の下へ届けられました。


 今頃、読んでおられるのではないでしょうか。私は今日もまた〈名称のない道路〉で、自分の不安を慰めるユーモア小説のために、人知れない労苦に、時間を費やすのかもしれません。どういう人生なのか鏡を見るように理解しています。私はいまだ、〈不機嫌なユーモア小説〉です。




『不機嫌なユーモア小説』


    ── 完 ──






/* 先生からの感想 */


/* 評価・A。とてもユニークな内容。私は哲学思想の方面には疎いですが、この世は陰陽、二つの要素で構成されていると言われています。コンピュータ(一般向けの文章では“コンピューター”と書かなきゃかな?)の世界を解説する際にもよく用いられる話──0と1でできているという、あれですね。この世の中のものは絶えず変化していて、そのことは永遠に変わらない──。「十年後の自分小説」もそういった意味で、劇的な変化を描かれた方と、今とまったく変わらない、という書き方をされた方と二通りありました。

 スウキさんはもちろん後者。しかも、「十年後の自分小説を書く」ということをそのまま話題として物語に引き込み、頭の中の小説構成員たちとやりとりをしながら、「自分にとってユーモア小説とはなんだろう?」という分析に挑戦されました。そしてまた『銀河鉄道の夜』も下書きにされていますね。

 しかし十年後というより現在の姿、制作過程を描いて「十年後小説」自体は書かない、と腹を括ったのはあなただけでしたので、ちょっとびっくりしました。その辺、スウキさんらしいと言うか、知恵を絞りましたね。

 少なくとも私は悪知恵だとは思いません。「先生の下へ届いた」と告げて、実際読むことは叶わないのですが、どういう姿をしているのかは想像できましたから。

 私にはスウキさんの鏡は覗けませんが、どうやら〈不機嫌なユーモア小説〉を書き上げご提出くださったようですね。


 以前ご提出いただいたエッセイ風小説で、スイミングスクールに通うのが苦痛だったけれど、家に帰って『ドキド欽ちゃん』を観るのが楽しみでした、と書かれてありましたが、私も学生時代、サッカー部の練習がつらかったとき、妹に録画してもらった『夕焼けの松ちゃん浜ちゃん』を観るのが唯一の楽しみだったことを思い出しました。

 笑いに従事する人たちは人間の苦痛についても熟知しているのかもしれませんね。これからも素敵な笑いの世界を追究していってください。


 追記 ご友人のSさん、早く快復されるといいですね。 */





 そうですね、先生。私は日々の暮らしの中で、引っきりなしに不安を抱えるという癖が抜けない。本当は、こういう生き方が好きではないとわかっています。わかっていて、やめられないのは、人間までやめることになりかねない、性格に基づいたものだからでしょうが。


 だから私にはユーモア小説が必要なのです。「もしかしたら、怯えるほどのことはないのかもしれない」という実感が、出来事を通した実感がどうしても必要です。何度でも、何度でも、自分に言い聞かせたい。


 

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十年後の自分小説についてたしかに一日考えたようだった 崇期 @suuki-shu

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