四 ユーモアは語る


(ユーモアが考えた小説の本文)


 湖が騒がれる。あの湖が美しいと騒がれている。


 私が片足で踏ん張り、なおかつ半身を喰らいつかれているのは間違いなく〈名称のない道路〉であった。この町のほとんどの道路はそれだ。たいていの人々は無名の場所で人知れない労苦に悩まされている。湖は世界遺産だ。私がこれ以上、湖の話をしないことは容易にわかるだろう。世界で共有する宝物ほうもつのような物語が私の胸元から飛びでてくるとでも? どういう人生なのか鏡を見ずとも理解している。私は〈不機嫌なユーモア小説〉だ。



 少女はおじいさんと道路を挟んで向かい合っていた。おじいさんは一匹のチャウチャウを連れていて、反対側の歩道にしゃがんでいる。横断歩道の線はもう一本だけしか残っていなくて、あとは全部すり切れてしまっている。少女が抱える問題──横断歩道を渡らないと家には帰れない──は子どもたちにとっては重要であった。自転車の二人乗りはだめ。それから、友達の家に泊ってはだめ、とかもある。


「その呪いをかけたのは学校だろ?」とおじいさんはチャウチャウをなでながら言った。「学校なんて、そんなもんさ。あれは非常につまらない場所でもある。町を見渡してごらんなさい。教わった規則をすべて守っている人を見たことがあるかね? それから少年漫画では、学校はよく爆弾で吹っ飛ばされるよ」

「でも、学校の言うことを聞かなきゃ立派な大人になれないって呪いがあります」幼い少女は泣きそうにつぶやく。「どうしたらいいんだろ。家に帰って見たいテレビ番組があるのに。一日二時間くらいなら見てもいいんだって」

 当時はテレビが想像の世界を育んでくれた。そういう時代だ。

「おもちゃを届けてくれた殊勝しゅしょうな少年がいたろ?」このおじいさんは人々の記憶については生き字引だった。そのほかについてはまるで無学だという噂もある。

「あの少年はゲームセンターから来た子なんです」と少女は答える。「ゲームセンターは学校から禁止されています。私はその少年には会っていないことにしないと」

「そんな素敵な出会いをもみ消す学校って、なんなんだろ!」おじいさんは呆れて言い放った。「学校が作った地図を見てみたいよ。町が半分くらいなくなってるかもな。……親切な姉弟に会ったっていう話は?」

「それも、あの子たちが遅い時間に外に出ていたことが学校の規則に触れてしまうのでだめなんです。ここでおじいさんと話したことも、『知らない人と話しちゃいけない』っていう約束を破ったことになるから、私のことは忘れてください。私は誰にも会ってはいないし、誰の親切も受けていない」

「ばかな!」





「ユーモアさん」とスウキが口を挟みました。「私が挙げた三つの出来事を『三題噺』みたいに扱うのはやめてください。別に、無理やり一つの話に詰め込まなくてもいいんですよ」

「はっはっは」ユーモアは高らかに笑います。「これは失礼しました。お遊びが過ぎましたかね。しかしですね、あなたはその三つの出来事を重要に捉えておられるようですが、そんなの、私からするとなんてことないものですからね」

「どういう意味ですか?」

 体の向きを変えたユーモアの靴がカタン、と鳴りました。「あなたがそれをいかにも大事と握りしめている理由は明白だ。そこにあるのはただ不安という感情ですよ。あなたの魂はずっと人生に対する不安、恐怖に苦しめられてきた。そして実際起こった不幸──言うまでもなくご存じですよね? その痛々しい記憶の数々。引きずってきたボロボロの影。そのせいで心がのびのび寛げないことに窮屈さを感じ、どうにかしたいともがいてきた。まあ、財布も持たずに電車に飛び乗って終点までいびきをかいていられるような人間にはまったく理解できない世界にあなたはいるわけです。

 それは繊細というより、気が弱いということ。よく振れる針は悪い方にも振れますからね。ルーレットはどこに止まるかわからないと、最悪まで想像してしまう。しかし、三つの出来事を思い出すたびに、恐怖がわずかに揺り動かされるように感じたのでしょう。

 心が寂しいときに、ふと頭に思い浮かんだ旧友を恋人代わりにと訪ねる恣意しい的行動が、ロマンティックに駆られて見事な宝石に姿を変えるという魔法を信じているようなもの。わからなくもないですよ。その手段に小説を選ぶこともね」

 汽車の中のすべての人物たちの動きが止まって、ユーモアだけが存在しているようになりました。

 ユーモアはそれを承知しているように続けます。「ということは、あなたはまだまだたっぷり脅かされているということですよね? むしろ、幼少のころより恐怖心が増えている。そういう意味で、あなたにとって小説は重要です。小説の世界には隅々まで、自由がある。自分を脅かすものを入れたくないと思えば、『立入禁止!』と締めだすことができる。ユーモアは心を和ませてくれます。そう、私はたいていゴキゲンな人物であり、人を笑わせます、ほころばせます。四十歳になった今でも相変わらず不安にさいなまれていて、その子どものころの出来事に慰められていると言うならば、十年後も変わらずユーモア小説に慰められている、という小説を書けばいい。それがあなたの未来だ」

「ユーモア小説は好きですよ。現在の私の一番の娯楽、刺激です」スウキは静かに、たしかめるように言います。「でも、なんだか寂しいですね。いつまで経っても不安とともに人生を生きているとなると。なんとも夢のない十年後ですね」

「不機嫌なユーモア小説にはもう飽き飽きですか? それでも、」とユーモアが言います。「未来には輝く光しかない──。それを今のあなたが書きだそうとしたとき、『リアルではない』という感覚に打たれるはずです。たとえ作りごとの世界であっても、心と折り合わないものは手が拒むでしょう。

 あなたが過去にできなかった、叶えられなかった世界があったように、あなたが選び、手に取れるものはやはりほんのいくつかしかありません。私にはそれが見えるのですよ。カタログギフトを開いてこの手に持っているようにね。その商品にがっかりはしていません。たった一つしかなくても、私はそれが届くのを楽しみにするでしょう。なにも届かない世界よりはいいのです」


 スウキは座席に身を沈めて、そのことについて考えようとしました。ユーモアの語りが流麗だったのか、その枕に頬をぴったりくっつけて、プロットは瞼を閉じ、健やかな寝息をもらしていました。

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