三 なんとも奇妙な汽車の車内
ふと気がつくと、汽車の座席に座っていて、明かりの灯った小さな駅を出発したところでした。深い漆黒が窓の外をなめらかに流れていきます。
「はっ? なにこれ」スウキは声に出して言いました。
車内を見渡すと、適度な距離をあけて、ぽつぽつと乗客が座っていました。真ん中に通路があり、二人がけの座席が左右に分かれて並んでいます。スウキは左側の一番後ろにいて、通路を挟んだ右側にいる客が、ガラスに映していた顔をこちらへ向けます。
「スウキさん、こんばんは。私は〈地の文〉です。お待ちしておりました」
「地の文? それって、小説の?」スウキは驚き、尋ねました。
「そうそう、そうです。正確にいえば、あなたの小説の地の文、ということになりますね。地味で、ときどきぎこちない、海外ユーモア小説に影響されて翻訳調ともご指摘を受けた……」
地の文だと自己紹介した者は、きつね色のコートを着て、オリーブ色の中折れ帽をかぶっていました。柔和な顔立ちの、女性とも男性ともつかぬ者でした。
「なんで、私の小説の地の文が……」
「近いうちに〈脳内会議〉をしようって約束したじゃないですか。忘れっぽいな」地の文はカラカラと笑いました。「無意識でありながら汽車にはしっかり乗り込んでくるなんて、傑作。あ、ちょっと待って、言い直しますね。……スウキは頭の中で小説構成員たちに『脳内会議をしましょう』と呼びかけたのに、すっかり忘れているようでした。……これでどうでしょうか?」
「いや、あのねぇ」
「時間がありません。さっそく脳内会議をはじめましょう。議題は『十年後の自分小説』でしたね? さぁて、どうしましょうか。やはり、お得意のユーモア小説にしましょうか」
「その前に私も自己紹介を」前の方の席に座っていた者が立ちあがって姿を見せました。中肉中背、のっぺりとした色白の顔で、年齢不詳、中性的と、とことん無個性です。
「あなたは?」スウキが尋ねます。こうなれば興味が湧きます。
「私は〈主人公〉です。あなたの小説の主人公なのですよ」スウキに向かっておじぎをしました。「私は物語によって、年齢、性別、職業──すべてころころ変わります。しかし、いつも『筑豊』とかいうド田舎に住んでいることにされてしまうのですよね。たまには都会に住んでることにしちゃらんですかね?……あ、方言が出ちゃった」
座席にいる者たちが次々とそうやって話しかけてきました。皆、地の文が言ったとおり、小説構成員たちでした。〈風景描写〉、〈心理描写〉、〈行間〉もいます。
「そうそう、私たちのリーダーも紹介しなければ」主人公は通路に出て、車両と車両をつなぐ扉へ向かいます。そして呼びかけました。「スウキさんが来ましたよ。あなたもこちらへ来てください」
扉がスライドしました。現れたのは、恰幅のいい紳士でした。両手に布にくるまれた赤ん坊を抱いています。
「こんにちは、スウキさん。直接お話しするのははじめてですねぇ」にこやかな笑顔と、よく通るバリトンです。
「あなたは?」スウキはこれ以上、誰がいるのだろうと混乱しながら訊きます。
「そこまで困惑なさらなくても。私は〈ユーモア〉ですよ。あなたにとっちゃ重要人物、ということになりますな。なにせ、あなたはユーモア小説が大好き。ということは、私に誰よりゾッコンってことだ。そして私はここにいる全員を束ねてもおります」
そのとき、赤ん坊が「アアー」と泣きだしました。
「おー、よしよし」ユーモアは揺り籠となっている両腕を上下に揺らします。
「その子は……一体誰の子?」スウキは心配になって尋ねました。
「ご冗談を」ユーモアは顔をしかめます。「安手のテレビドラマじゃないんだから、出生の秘密などあるものですか。これも我々の仲間の一人で、あなたの小説の〈プロット〉ですよ」
「まさか……」
「そのまさかなんですよ」主人公が説明を継ぎます。「やっとおわかりいただけたようだ。あなたは小説のプロットをまともに立てたことがない。だからこいつはいつまで経っても赤ん坊で、私たちはこれに頼ることができずに困っているわけです。なにせ、物も言えない、よちよち歩きもできない。目的地もなく車を走らせろと? 小説的に、路頭に迷ってしまう! でも、ユーモアさんがいますから、身の振り方に困ったときは、ユーモアさんの指示を仰ぐ。とりあえずはそれでなんとか格好をつけてやってきたわけなんです」
「そ、それはご迷惑をおかけしました」スウキは恥ずかしくなってしまい、縮こまって言いました。
「こちらをご覧あれ」主人公が車内前方にある
「やったぁ! 気の向くまま、ぶらり途中下車の旅」
「トトロの猫バスかよ」
「やれやれ」
「……家に近づくにつれ見えてくる、十二階建てのマンション。この辺りにあれほど背の高い建物はほかにないから、一本だけ取り残されたテーブルの脚のようにぽつんと立っているそれは、くすんだ外観をしていてもとても目立つし、闇夜に明かりが浮かべば寂しい街に星を添えるタワーのようでもあり、私の元恋人の住み処だった」
突然ひとりごとを唱えはじめたのは風景描写でした。姿形は女性で、モザイク柄のコートを着て、スウキにも構成員たちにも目もくれず窓の外を見ています。
「風景描写さんは怒っていますね」と主人公がにやにや笑って言います。
「…………」行間が無言でのしのし歩いて元いた席に戻ります。
「行間さんも、どうにかしてくれって言ってますよ。ほら、こんなに意味のない行間が空いてしまいました」
「諸君、作者に八つ当たりはやめようではないか」ユーモアが言います。「プロットもいつか、立派に成長するかもしれない。それまで我々だけでやっていけばいいことだ。スウキさんはね、いつもだいたい勘で書いてる。筆任せだからこそ生まれる世界もあるかもしれないのですぞ? それからね、十年後の自分小説も、電気小説講座の先生に提出するだけなんだから、軽く、ささっと書いちゃえばいいの」
「じゃあ、ユーモアさんがまとめてください」
「ご指名ありがとう」ユーモアの胸が、架空の風船をふくらませるための準備のように、三日月の背のように丸く膨らみます。「では、こういうので──」
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