二 三つの出来事


 

 時間の進み方についてはたしかに日々、考えている。

 人生が八十年あり、満額受け取れると仮定しても、もう折り返し地点は過ぎたのだな、と思う。

 先生の言う、人生時間は午後を回っているのだ。


 ふと時計を見あげ、「ああ、もうこんな時間、そろそろ夕飯の買い出しに行かなきゃ」と重い腰をあげる。

 レジの長い列に並び、家に帰ればあっという間に日が暮れる。

 一日の終わりの扉は目に見えている。それが私が立っている場所なのだ。


 こんなことを言うと先輩方は、「まだまだあなたは老け込む歳じゃないだろ」とおっしゃるかもしれない。しかしそれは、その人の年齢まで生きていられれば言える、ということだ。

 

 どこかの誰かは言えずに取りこぼしてしまったセリフの数々を、易々と言う人たちを目の前にして、自分も間違いなく言えるのだろうと想像することは別に問題ではないかもしれない。


 このまま、キャベツ一玉や冷凍食品を抱えてスーパーマーケットから家まで帰れないこともあるだなんて、そんなことは通常、誰も思わないから。なのに、この余裕のなさはなんなのだろう。

 





 インターネットの世界に通じる出入口をすべて閉じた後、端末を机に置いて、スウキはずっと、つらつらと考え込んでいました。

 十年後──。先生は、十年後も私たちがずっと小説を書いていると思っているわけではないはず。

 多岐亡羊たきぼうようといった世界を予想しているかもしれない。年齢、職業、キャリア、巧拙こうせつとまるでバラバラな生徒たち。これに小説ジャンルまで違うときているのだから、読んで評価する先生の苦労は羊というより蜘蛛の子を追うようなものではないだろうか。きっと恐ろしいまでに想像に寄ってたかられた十年後を先生は見ることになるだろう。




 子どものころを振り返る、ということもやってみました。スウキがいつも思いだす出来事が三つあります。


 まずひとつめ。小学校の低学年のころ、お休みの日の朝早くに起きて、パジャマ姿のまま外に出、きょうだいと一緒に並んで伸びをしておりました。

 すると少し離れた先に、おじいさんと犬のチャウチャウが一匹いて、犬のかたわらにしゃがんでいたおじいさんがスウキたちを見てにっこり笑い、「おいでおいで」と手招きしたのです。

 絵本の中に出てくるような、そしてそこから気まぐれに抜けだしてきたかのような上品なおじいさんでした。当時も誘拐事件など怖いニュースはあったと思いますが、家のすぐ前でしたしきょうだいもいましたので、そのような危険は頭に浮かびませんでした。


 二人で近づくと、おじいさんは犬をなでて、スウキたちにも触ってみるようにうながしました。交わした会話の一字一句を憶えてはいないスウキですが、「毛がすごくなめらかだよね?」といったような話を、三人で犬をなでながら、したのです。その後この近所に住んでいたおじいさんが亡くなるまで、何度も、一匹で近所をすたすた歩いているチャウチャウを見かけました。



 もうひとつは、やはり小学生のころ、大きな商業施設で、両親が買い物をしている間「ゲームでもして待っていなさい」ということになり、きょうだいと二人でゲームコーナーにわだかまっていました。もらったお金でいくつかのゲームで遊びましたが、周りに子どもがほとんどおらず、やり方もわからないものが多くてすぐに退屈になり、どんよりとした時間になっていました。

 そのまま辺りをうろうろしていましたら、スウキたちよりはずっと年上そうな男の子たち四人組が近づいてきました。


 瞬間、スウキは「怖い」と感じました。なにか意地悪なことを言われたりされたりするんじゃないか……。すると、グループの一番前にいた、四人の中のリーダー的な役割をはたしていそうな男の子が──その子はスウキとほとんど背丈が違わないほどちっぽけな子だったのですが──話しかけてきました。手にカプセルをひとつ握っており、「これ、君たちが出したやつやない? あのゲームでさっき遊んどらんかった?」と、たしかに二人が先ほどまでいたゲームの機械の方を指差して訊いたのです。

 スウキは突然のことで驚いてしまって、うまく言葉が出てこずに「うん」とだけ言って、うなずきました。

「景品が出とったのに忘れとったから。誰のやか? ってさっきからずっと探しよったんよ」と言い、男の子はスウキに渡しました。

 怖い不良グループかと思っていましたから、「なんて親切な」と調子を狂わされたのです。わざわざ景品のおもちゃの忘れ物を、本人に届けようと探して回るなんて──。



 最後のひとつですが、高校生のころに、夜、飲み物を買おうとパチンコ店の前の自動販売機に行きましたら、販売機を挟むように小学生くらいの女の子と男の子のきょうだいが立っていまして、アイスクリームをむしゃむしゃ食べていました。こんな遅い時刻に人けのない場所に小さな子がいるなんて、おかしなことです。まるで漫画の中に出てくる妖怪みたいに思えました。おそらく両親がパチンコ店の中にいて、出てくるまで待っているのだろうとスウキは思いました。


 二人がじぃっとスウキの方を見ている気がして居心地が悪くなり、飲み物を買ったら早く去ってしまおうと気が焦りました。そんなふうに余計なことを考えたからか、五百円玉を入れて購入し、おつりが出ていたのにそれを忘れて、飲み物だけを取って帰ろうとしてしまいました。

 すると女の子の方が、「あっ、おつり」と声をあげたのです。

 スウキはそれで自分がおつりを忘れていることに気づき、「教えてくれて、ありがとう」と言ってお金を取って帰りました。あの子たちがお金のことを黙って「あとでこっそりいただいちゃえ」と思うような子じゃなくてよかった、と思ったわけです。


 


 この三つの出来事は、本当になんでもないことです。よく知らない人と微かに関わりあって、思わぬ親切などの温かみを受けた──という平凡な出来事なのかもしれません。または、人に一抹の不審を抱いたにも関わらず、実際そのとおりにはならなかったという出来事です。もっとほかに、記憶の中に重要な位置を占めるものもたくさんあるでしょうし、嫌な思い出、トラウマのような思い出もあるはずです。なのに、なぜかこの三つの出来事はとても印象に残っていて、忘れがたいもので、いつか小説の中に、どういう形でもいいから登場させたい、とスウキがずっと思っていたものでした。


 この出来事の中に含まれるなにか、言葉にならないなにか──を描きたいんだ、ということかもしれません。


 


「十年後の自分なんて、全然思い浮かばないよ」

 隣町の病院で、スウキはSさんに話します。Sさんはベッドで半分体を起こして、トランプのカードを弄んでいます。スウキが一番仲良くしている友人で、体を壊してここ数年入退院をくり返しています。

「携帯電話の契約変えたから、インターネットを長く閲覧できるようになったんだ。あなたの小説もこれからはいっぱい読めるよ。なんかおもしろいお話がいいな。書いてよ」

 Sさんはそう言ってにっこり笑うと、プロがやるような難しいシャッフルの練習にかかりました。ペタペタ、パタパタパタと音を立てるカードを、ときどき弾かれ掛け布団の上に落ちるカードを、スウキは見つめました。

「十年後か。おれの子どもは二十歳になってる。成人してるな」とSさんは言います。

「私は今の仕事さえ続けているかどうかわからない」とスウキは趣味の小説ではない、現実の仕事のことを言います。「パートだからね」

「そういうんじゃない」Sさんは首を振ります。「小説は現実をそのまま書くものじゃない。あなたが一番書きたいものを書きなよ。……自分の惨めったらしい生活なんか、書きたくないだろ? 『私はパートで一年契約。来月更新日がやってきます──』なんてさ」

「なんだかラノベのタイトルみたい」

「どこがだよ」

「書きたいものがぼんやりしているときは?」

「ぼんやりしている十年後小説!」Sさんは笑います。「誰の未来もぼんやりしてるさ、当たり前じゃないか」

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