目覚めさせた女

 …………フライングも反則もドーピングも何もなし。


 1位越川仲蔵、2位村野一人。レースの結果はそれで確定。




 ………痛い。ほっぺた全力でつねったけど、痛い。


 なんであんな奴に私の一人が負けるの?一人、どこか悪かったの?

 いやそうよ、絶対そうに決まってる!一人が手を抜くはずなんかないし、一人が全力で走ればあんな奴に負けるはずなんかないのに!



「一言お願いします」



 もちろんマスコミの人たちもこの不可解な敗戦に飛びつかないはずがない。


 正直私だって聞きたい!どうしてそんな事になったの!?まあ一人がここで答えるとは思えないけれど……。


「次の選考レースに向けて何か一言!」


 そうよ、実は選考レースは一つじゃない。


 今日から一月後の大会、そして三か月後の国体をも含めればまだまだ逆転のチャンスはある!と言うより、あんなフロックが二度も続くはずがない、2勝1敗で私の一人が……!




「来年の世界陸上は越川さんにお任せします」




 ………はっ………?




「それは来月の選考会、及び国体には出場しないと言う事ですか!?」

「国体には出ます、しかしそれはあくまで調整の一環としての話です」




 それきり一人は何も言わなかった。なんで?なんで?私の一人が、たった一回、あんなまぐれ当たりを喰らっただけで………!?








「………冗談でも勢い任せの出任せでもない」


 部室で問い詰めた私に対し、一人はそう冷たく言い返した。


「越川さんが故障でもすれば話は別だが、そうでもない限りはな」


 要するにあいつが健康な限り一人は代表にはなれないっての!?


「もちろんその次のオリンピックに向けてさらに修練を積まねばならないとは思っている、けれど今回の世界陸上の時点では越川さんの方が相応しい事は覆しようのない事実だ」


 いつになく多弁な一人。口数の少ない人間の一言が口数の多い人間の一言よりずっと重みを持つ事は私だって知ってる。けれど、私はどうしても諦めきれない!

 お願いだから今からでも遅くない、撤回して!


「………………幸恵、無駄な繰り言だがな」


 後ろを向きっぱなしだった一人はいつもより一段と冷たい、クールなって言うより冷たい表情でこっちを向くと、意を決したように口を大きく開いた。

 無駄な繰り言ってのは一人が一番嫌いなはずの物。

 どうしてそれを…あるいは故障と病気とか、レースの敗因たる要因でも私に隠していたの?いやそうよ、そうに決まってる!


「あの一月前の時……僕は思ったんだ」

 そう言ったきり一人は押し黙っちゃった。

 私も何も言えず、気まずい時間だけが流れた。そして1分ほどが経った後、くどいけれどこれは僕の嫌いな無駄な繰り言だけどなと二度目の前置きをした一人の口にした言葉は、私の予想をはるかに飛び越える物だった。




「もっと早くお前と別れるべきだったな……と」




 何、どういう事!?この敗戦でトレーニングに専心したい、だからって言うならばまだわかる!私も納得する!けどどうしてあの時、もっと早く別れるべきだと思っただなんて、どうしてなの!?


「僕が欲しいのが何と何か、幸恵は知っているだろう?」

 欲しい物!?…えーとタイムと勝利よね、何か間違ってる!?

「例えばだ、お前は道にトラが寝ていたらどうする?他の誰かに助けを求める事はできない物としてだな」


 突然何を言ってるの?

 正直イマイチわかんないけど、そりゃ引き返すかそれもできないならそーっと起こさないように進むかのどちらかじゃない。


「……そうだ、それが普通だな。しかしお前はそうしなかった。寝ていたトラを顧みず大きな音を立てて走り抜けようとした、いやトラに向かって大声で怒鳴った。一緒に歩いていた僕の事など顧みずな」


 要するに何?私は寝ていたトラをわざわざたたき起こして一緒にいた一人を牙にかけさせようとした大馬鹿だって言うの?


「トラを起こしたらどうなる?トラは不機嫌になり、牙を剥いて襲いかかって来る。こちらとしては起こした事を嘆いたり責めたりしている暇はない、逃げるしかない。だから、あの時何も言わなかった」



 ………まさか?そのトラって!?



「ああ、そういう事だ。あの人は単純かつ前向きな人だ。お前はあの時何を言ったのか覚えてないのか?」


 ちょっと、冗談やめてよ!!過去の栄光にしがみつくような奴は嫌い、そう聞かされてじゃあ現在の栄光ならばいいんだって考えたって言うの!?

 その結果、あの男は陰でこっそり努力して、一人を討ち破ったって訳!?


「……そういう事だ。今の越川さんの実力は僕の実力を上回っている。いや元から越川さんの方が上だった。あの人は大きな事を言えても嘘を言える人間じゃない。文字通りまだ本気を出していなかっただけなんだろう」


 …………なるほど、私のあの発言で越川の奴は本気になり、そして一人の勝利を奪ったって言うのね。よーくわかったわ。


「最後に聞く。幸恵、今でも僕の事が好きか?」


 当たり前よ。確かに今度の事は悪いとは思うけど…


「だったら僕の頼みを一つだけ聞いてくれ」


 何、二度と会うな?そうよね、それがお互いの為よね……?







「越川さんと結婚しろ」







 ………………………へっ?







「越川さんを世界陸上に導いたのはお前だ。2人して二人三脚で歩んだ方が道は開けるだろう。その方が陸上界の為にもお前の為にもなる。越川さんと2人で僕の壁となり、そして僕を阻みに来い。好きな人間の言う事は素直に聞くんだろ?今からでも越川さんに」







 一人が言えたのはそこまでだった。私は気が付くとタオルを掴み、一人の首を絞めていた。







 頭が真っ白になっていた。一人がそんなふざけた事を言うなんて、私には信じられなかった。私があの男が大嫌いだって事を承知の上で…!!

 その時の私には、一人が越川に見えていたのかもしれない。











「痴情のもつれ」


 私は警察でそう話した。だってそうだから、そうとしか言いようがないから。


 とにかく、村野一人の人生は終わった。私が終わらせた。


 そして私に与えられた新たなる肩書き、殺人犯。




 衝動的で同情の余地に乏しい犯行、一応反省はしていたけれど。と言う訳で私に下された判決は懲役10年。検察側も弁護側も控訴せず、裁判はあっさり終わり私は刑に服する事になった。


………反省はしている、けれど後悔はしていない、と言うかできない。


 あんなまぐれ当たり男に生涯かしずいて暮らす位なら、刑務所暮らしの方がまし。負け惜しみとかじゃなくそう思えて仕方がない。


 どうせ私がここにいる間に、あの男は惨敗して陸上界から消え去っている。そんな男に媚びようだなんて、一人も結局そこまでの男だったのかもしれない。


 一応、模範囚と言う肩書だけは手に入れた。そのお陰で8年後私は仮釈放を許された。






 でも、身元引受人の名前…どこかで聞いた事があるような。


 六川宏太…あーっ!




「小野川幸恵くんか…キミの家族から頼まれてな」




 あの越川の叔父!家族から見放されるのは仕方ないけど、どうしてまたあの男の親族なんかに!?




「あいつも今や35。いい加減嫁を取れと言っておるのだが、本人は好きな女性がいますからの一点張りでな…あの世界陸上で言った言葉をまだ守っておるとは、予想外に義理堅いのう」




 あの世界陸上で6位。その結果日本のハードル枠が2つに拡大。


 次のオリンピックで日本最高タイム。そして次の世界陸上で銅メダル、そのまた次の世界陸上で銅メダル。そして次のオリンピックで日本ハードル史上初の銀メダル。そして去年日本でやった世界陸上でついに金メダル。




 あの男は鼻つまみ者から世界のKOSHIKAWAになっていた。




 ……本来一人が辿るべきだった道を横取りして進むだなんて、何というふてぶてしい野郎なのよ!!




 一人の道を止めたのは私だけど、だからと言って一人の物だった道を勝手に歩む権利なんか、あの男にはないの!!




 と言うか、世界陸上の時の言葉って何?


「好きな女性が戻ってくるまで、日本最強で居続けます……とな。オリンピックで日本最高タイムを叩き出した時にあと8年と答えておったから、お前さんだとすると合点が行くんだが」


 ……有言実行。それを成し遂げると言う事の難しさは世の人間全てが分かってる。



 発言に責任を持ち背負い続ける事の辛さ、重さ。あの軽薄なはずの男はそれを成し遂げて「しまった」。



 そういう事をすればどうなるか、答えは火を見るより明らか。


 越川は今や陸上界のみならず、日本中の耳目を集める大スターと化した。そういう人間に愛されたいと思う女性は当然溢れかえるはず。


 そういう人間からただ1人と愛される私はどんなに幸せなのだろうかと皆思っているのかもしれないけど、私に言わせれば真逆、最高に不幸よ。


 お前に男を見る目がなかったのが悪い、そう言ってしまえばすべて解決してしまう問題なんだろうけれど、私はどうしてもそう思いたくない。

 過去の過ちを認めねば前進などできない?一人ならばそう言うでしょうね。でも私はその一人を手にかけた。一人の将来を全て奪った。今の私に一人の言っていたであろう言葉に耳を貸す資格はない。




 大体、好きだった男を殺して好きじゃない男と一緒になるなんて言うそんなメチャクチャな事ができると思う?




 どうしても、どうしても私には越川仲蔵と言う人間が好きになれない。



 旧い印象に捕らわれているんじゃないのか?いや、そんなんじゃない。そんなんじゃないんだけど、何というか、どうにも…。




 ねえ、どうにかなる方法があったら教えてくれない、ねえ……。

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生理的に無理でした @wizard-T

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