8.分かれ道までは手をつなごう
頬を撫ぜる冬の空気は冷たく刺々しい。
コートやマフラー、手袋にタイツで全身を防御しても、顔だけは出さざるを得ないのだから冬という時季は煩わしい。いっそどうあがいても蒸し暑い夏の方が、
曇り空は低く垂れこめて、天気予報によれば雪も降る所があるという。大いに積もるのであれば多少は気分も上向くかもしれないけれど、東京の雪というのは大して積もりもしないくせに交通機関をマヒさせる厄介者でしかない。降って電車が止まったりする前に帰りたいところだ。
けれど、一愛の足はゆっくりと進む。
隣を歩く、
ふたりは今日も一緒に家路を歩いていた。
南の通い始めた塾の講習は週に3日の19時からで、ふたりが一緒に帰るルーティンには影響しなかった。塾としては部活動を理由に貴重な顧客を失いたくないから、どこも中学生以上の講座は下校時刻以降に設定されている。よくよく考えてみれば当然の話だった。
「あたし、年明けからテニスクラブに行くことにしたよ」
坂の歩道を歩きながら、一愛は言った。
「お、全国に向けて一愛本格始動だね」
「とりあえずネコせんぱいをボコるとこからね」
一愛はテニスの目標を全国に設定した。まずは出場、その先はどこまでいけるかわからないけれど、全力を尽くして行けるところまで登りつめる。夢と呼ぶほどではないとしても、それが今の一愛の進む道だ。
「あはは、がんばれー。……でも、よくお母さんが許してくれたね。成績のことめっちゃ言われるって言ってたのに」
「あー、それね。ちょーお願いしたら折れてくれたよ。ただ――」
ただ、大きな懸念事項があった。
全国レベルで戦える実力を得るには、部活動での練習だけでは一愛には不十分だ。だからテニスクラブにも通わなければならない。
そのことを伝えて、頭を下げて本気で頼み込んだら母親は頷いてくれた。
ただし、代わりに出された条件が問題だった。
「――期末で成績上げないと白紙だって」
「え、じゃあダメじゃん」
「そうなの! だからあたしに勉強教えてくんないかなあ!?」
両手を合わせて拝む一愛に、南は目を弧にしていたずらっぽい笑みを向けた。
「えー? どうしよっかなあ……一愛のレベルじゃ私についてこれるかどうか」
「見捨てないで……」
「あーあー、もう泣きそうじゃん。見捨てませんって。つきっきりで教えたげるから」
「ほんと……?」
「ほんと」
「やった!」
一愛は南の手を両手で握ると、上下にブンブン振った。
「あ、でも代わりに来月のカフェ代奢ってよ」
「そんなのいくらでも……あれ?」
ふと、一愛は南の手に違和感を覚えた。少し考えてから思い出す。
「南、手袋はどうしたの?」
「あー、教室に忘れてきちゃったんだよね」
「言ってくれたら一緒に取りに戻ったのに」
「いいよ。どうせ教室は施錠されてるし、塾に遅れちゃうのも嫌だしね」
「……まじめだねえ」
とはいえ、南の指先は冬の空気の染められて赤く冷たくなっている。これでは塾に間に合っても字を書くことすらおぼつかないだろう。
一愛は自分の手袋を左手のほうだけ外して、南に渡した。
「ほい、使いなよ」
「え、いいの?」
「いいよ。もう片方の手は……ほら、こうしたら暖かい」
空いた左手で、南の右手を握った。お互いの体温を分け合うように、ひんやりとした刺激が指先から指先へと伝わる。
手をつないで、ふたりは歩きはじめる。
「こうやって手をつないで帰るのってさ、久々だよね」
一愛がそうつぶやくと、南はつないだ手をじっと見つめた。
「初めて会った日のこと、覚えてる?」
「あたしたちが? めっちゃ暑かったよね」
「あの日、私、自分が独りぼっちだと思ってたんだよね」
白い息とともに、南は夏の日の記憶を語る。
「お母さんが迎えに来るってのはわかってたんだけどね。知らない街で、知らない景色の中にいたら、自分はこの世界でひとりきりなんじゃないかって、すっごい寂しくて、不安になった。そんなときだよ、一愛が話しかけてくれたのは。一愛にとってはなんでもないことだったかもしれないけど、私はすごく嬉しかった」
南は一愛に笑いかけた。
「あのとき、私、一愛に救われた気がしたんだよ」
一愛は南の手を強く握る。
冷たかった手は、あの日みたいに暖かくなっていた。
分かれ道までは手をつなごう ツリチヨ @Tsurichiyo
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