7.また一緒に

 1セットも取れずに負けるのは、中学に上がってからは初めてだった。


 団体戦でみんながストレートでやられているときでも一愛ひよりだけは1勝をもぎ取ろうと粘っていたし、関東大会で全国上位レベルの強豪と当たったときだってストレートだけはやらせまいと食らいついた。

 それなのに、今日は気づけば完膚なきまでに負けていた。


 ウォームアップ感覚で軽く流して終わり。そう思っていたら、全力のサーブを打ち込んできた。反応が遅れて、甘い返球になった。

 トラだ。公式戦さながらの迫力がネコせんぱいにはあった。


 緩いプレイをしていると押し負ける。そう気づいて全力で押し返そうとした。けれど、そのときにはもう完全に出遅れていた。


 はは、と息が漏れるような笑い声が出た。


「いや、せんぱい全力すぎません? こちとら部活上がりっすよ。容赦無ぁー……」


 そうだ、公式戦なら油断なんてしなかった。万全の状態で、初めから全力で当たっていれば負けたりはしなかったはずだ。言葉は淀みなく溢れだしていた。


「お前相手に全力出さなかったことなんて、一度もないよ」


 ネコせんぱいは言った。


「負けて笑うなよな。勝っても張り合いがないだろ」


 言葉が止まった。息が詰まった。


 そうじゃん。その通りだよ。

 あたし、なんで笑ってんだろ。負けたら悔しいはずなのに、腹が立って仕方ないはずなのに。いつから悔しさを押し殺すようになった? 怒りを隠すようになった?


「中学に上がってからそういうとこあるよな、お前」


 ……だから進めないんだ、あたし。


 部の中では自分が一番強い。いつの間にかその環境に安住していた。広い場所から目を逸らして、狭い世界に慣れきっていた。試合で負けてもしょうがないって笑えるようになった。負けても部では一番強いから。そのプライドは守り切れるから。


「すいません、あたし帰ります」


 表情を見られないように顔を伏せて、一愛は足早にコートの外へ出た。

 制止するネコせんぱいの声を振り切って、荷物をまとめると市民体育館から飛び出した。



          *



 駅前の大通りには多くの人や車が行き交っているけれど、ひとたび裏道に入ればひっそりとしている場所も少なくない。

 街灯と家々の明かりが薄ぼけて照らすその道を、一愛はやみくもに走った。


 一愛はずっと立ち止まっていて、南はずっと前へ進んでいた。南が遠ざかっていくのは当然だった。一愛が南と並んで歩くにふさわしい人間になれていないのだから。

 気づいていたのかもしれない。見て見ぬふりをしていたのかもしれない。そんな安っぽい劣等感のことを。

 結局、それだけの話だったのだ。


 1秒でも早く、1歩でも遠くに。どこかへ行きたいけれど、そのどこかがわからない。このまま走っていたってどこにもたどり着けはしない。よしんばどこかへ至ったとしても、そこは南の隣ではない。それでも、足は止められなかった。言葉にできない感情が呼気となり汗となり、身体から噴き出していく。


「ひより?」


 不意に名前を呼ばれてつんのめった。聴き慣れた、今いちばん聞きたくない声。息が乱れ、姿勢が崩れる。転ぶ。そう思ったときにはもう手遅れで、一愛は顔からアスファルトに突っ込んだ。


「……みな、えぐっ、げふ、ごほ」


 起き上がろうとしながら声の主の名前を呼ぼうとしたけれど、むせて声がうまく出せない。乾燥した空気の中をずっと走り続けていたせいか、喉が渇いてがらがらになっている。


「ねえ大丈夫!?」


 声の主、みなみは慌てて駆け寄ってきて背中をさすってくれた。


「あーもう、鼻血まで出てるし」

「だいじょうぶ。ただのはなびす」


 鼻の下を拭って見せると、腕にはべっとりと血の混じった鼻水がこびりついた。


「ばか! ほらもう、鼻にティッシュ詰めて……」


 南はポケットティッシュで血と鼻水を拭き取り、こよりを作って一愛の鼻に詰めた。


「みなみ、お母さんみたい」

「ごじゃっぺゆーな!」


 方言だ。なんて意味だっけ。


 されるがままにしていると、少し頭が落ち着いてきた。辺りの風景を見るに、いつの間にか家の近くまで走ってきていたらしい。そこで帰りがけの南と出くわしたようだ。


 ふたりは少し移動して、公園のベンチに腰掛けた。


「これ、飲みかけだけど飲んで」


 差し出されたペットボトルを受け取ると、一愛は一口だけ口にする。渇いていた喉が潤うと、身体は思い出したようにさらに水分を欲した。半分ほどだった中身は、ものの数秒で空になった。


 大きく息を吐いた一愛に、南は問う。


「いったい何があったの? 教えて。最近の一愛、なんかおかしいよ」


 その語調はいつになく強く、有無を言わせない雰囲気があった。ここ1週間、はぐらかしながら南のことを避けていたけれど、もはやごまかしは効きそうにない。


「あたしの方こそごめんね」


 漏れたのは、SNSへの返事だった。


「南はなんにも悪いことしてないよ。ただ、あたしが勝手に距離を作ってただけ」


 一愛は自分の胸の内にあるものを語った。

 自分がずっと立ち止まっていたこと。

 前に進む南に置いていかれる気がしていたこと。

 そんな南の夢を喜べない自分が嫌で、距離を置いたこと。


 言い表しがたい劣等感。晒せなかったコンプレックス。

 親友だからこそ言葉にできなかった気持ちが、あっさりと言葉になっていった。


「一愛ってさ、昔っからそうだよね」


 すべてを聞き終えて、南はそう呟いた。


「自分の気持ちだけで突っ走って、人の気持ちなんてこれっぽっちも考えてない」


 違う、とは言えなかった。


「一愛に避けられて、私がどれだけ不安だったかわかってる?」


 南のため。そう思っても、自分の中にあるのは自分の気持ちだけだ。バスケ部をやめてクラブに戻ってほしいと思ったのも、先輩と喧嘩したのも、そして、南から距離を置いたことだってそうだ。


「……ごめん」


 その一言で南が抱えた不安を埋め合わせられるわけじゃない。それでも、一愛にはそれ以外に言葉を見つけられない。


「私が男子に茨城なまりをバカにされたときのこと、覚えてる?」

「え?」


 急に話を切り替えられた気がして、思わず声が漏れた。


「転校したてのとき。私がなにか言うより先に、一愛が怒ったよね」

「……男子をひっぱたいて泣かしちゃって、学級会になったこと?」


 小学生の頃の、古い思い出だ。5時間目の授業が丸々潰れて、クラス中が紛糾した果てに当事者の南と男子が泣き出して、結局すべてはうやむやのまま涙で流れていった。


「あれ、めちゃめちゃ恥ずかしかったんだからね。なまりひとつであんな大騒ぎにすることないじゃん」

「それはごめんだけど、あれは……」


 一愛の言葉を遮って、南は続ける。


「それに、私が受験のためにバスケクラブ辞めるって決めたときのことも」

「ちょっと」


 それは思い出すだけで恥ずかしい記憶だ。

 南がバスケクラブを辞めると言ったのを、辞めさせられるのだと勘違いして南の母親に直談判しに行ったのだ。ところが、その時点では南が自分から辞めようと思っていただけで、母親には考えを伝えていなかった。娘の友達にいきなりバスケをやめるだのやめないだとという話を聞かされて、南の母親も随分困惑していた。


「本当に、私はいつも振り回されてばっかでさ」


 次第に、その声は潤んでいく。


「それでも、一愛のことは好きなんだよ」


 南の目には涙が浮かんでいた。


「夢なんて応援してくれなくてもいいんだよ。一緒にいる資格がないなんて、勝手に決めないでよ。私は置いて行ったりしないし、離れたりもしないから」




「だから、また一緒に帰ろうよ」

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