6.気づいちゃったんだ、あたしは

 スポーツクラブからの帰り道を、一愛ひよりは泣きながら歩いていた。

 試合に負けたのだ。1セットもとれないまま、ストレートで。


 負けるのは悔しい。腹が立つ。泣いても泣いても泣き足りない。これまで積み重ねてきた自信も努力も全部が嘘だったと否定されるような気がする。お前は無力でとるに足らないと突き付けられているような気がする。


 けれど、一愛はひとりではなかった。

 隣にはみなみがいた。自分が負けたわけではないのに、その目は涙に潤んでいる。


 ふたりはいつも一緒に歩いた。悔しいときも嬉しいときも、気持ちを分け合いながら歩いた。そうしていれば辛いことも平気だし、楽しいことはもっと楽しくなる。


 つないだ手の温かさが、悔しさを溶かしてくれた。


 ……ふいに、頬を伝う涙が冷たくなった。

 触れてみると、それは涙ではなくただの水滴だ。




「お客さあん、お店で寝てもらっちゃ困りますよォ」


 気づけば、隣にいるのは南ではなくネコのような目をした背の高い女だった。一愛が握っているのは手ではなくシャープペンシルで、涙だと思っていたのは頬に押し付けられたドリンクカップの結露だ。

 周囲を見てみれば、そこは帰り道ではなくファストフード店だった。


 南と一緒に帰るのをやめて1週間、手持ち無沙汰な時間を潰すために宿題をやっつけていたのだけれど、いつの間にか居眠りしていたらしい。一愛は慌てて身を起こした。


「えっ、ネコせんぱいじゃないすか。なんで?」


 ネコ目の女に言うと、相手は眉根を寄せて答える。


「なんでもいいだろ。あたしがバーガー食べてちゃ悪いか」


“ネコせんぱい”こと金子晴希かねこはるきはテニスクラブで一緒だった1つ上の先輩だ。一愛がクラブを辞めてからの1年は顔を合わせる機会がめっきり減ってしまっていたけれど、中学に上がってからは公式戦でマッチングすることも多く、好敵手と言える関係だった。


 ネコというあだ名は目元の雰囲気から名前をもじって付けられたそうだけれど、その長身を活かして対戦相手に威圧感を与えるプレイスタイルはむしろトラやヒョウだと一愛は思っていた。


「べつにいけなくないっすけど、こんな時間に食べてていいんすか。実はめっちゃ大食い?」


 現在の時刻は19時過ぎ。家に帰れば夕食が待っているはずだ。一愛はそのことを考えて、気になっていた新作のシェイクしか注文していない。これひとつでちょうどいい時間まで粘るつもりだった。


「いいんだよ、これから練習だから。むしろ腹ごしらえしとかないと空腹で死ぬ」


 ダブルチーズバーガーにかぶりつくせんぱいはジャージに身を包んでいる。足元を覗けば、大手メーカーのラケットバッグがあった。


「いや、3年はもう部活引退してますよね。受験は? バカすぎて諦めた?」

「誰がバカだバカ。あたしは綾成りょうせい行ってテニスやるから、腕がなまらないように練習してるんだよ」

「へえ」

「そっけない返事やめろ」


 綾成という名前には一愛も聞き覚えがあった。昨年のインターハイで優勝した強豪テニス部がある私立高校だ。


「つうか、新人戦は残念だったな」


 つれない返事をしたせいか、ネコせんぱいは話題を変えた。慰めるような響きをはらんだ口調が無神経に思えて、一愛は気持ちがささくれ立つ。


「なんで知ってんすか」

「でかい大会の結果くらい確認してるよ。お前の実力なら全国選抜だって行けると思ってたんだけどな」

「買いかぶりっすよ。調整ミスってたのもありますけど、まあ強豪相手によくやったって程度っす」


 へへ、と自嘲っぽい息が漏れた。


「てか、ネコせんぱいはテニスばっかやってていいんすか? 実は勉強で試験に受からないと学校って行けないんすよ」

「うっせ、知っとるわ。練習は週1で今日だけだよ。あとは毎日塾行ってる」

「へえ、塾」


 ひたすらにテニス一筋だと思っていたネコせんぱいも、進路を考えて折衷している。それは南が塾へ行くと言い出したこと以上に意外に思えた。


 ファストフード店の窓からは、地元駅前のビル街が見える。渋谷と比べるとずいぶん小ぢんまりしたその中に、ネコせんぱいや南の通う塾もあるのだろうか。


「あ、勉強してるならこの問題わかります?」


 ふといたずら心が浮かんで、一愛は宿題のテキストを見せた。数字と記号の羅列を睨み、ネコせんぱいは眉間にしわを寄せる。


「……なんだこれ、呪文か……?」

「数学っすけど」

「は? こんなの習った覚えないぞ」

「私立は進むの速いんで、もう高校数学やってます」

「すごいな私立……いや、だったらあたしに解けるわけないだろ。どうやるんだこれ」

「さあ?」


 問題文を読んでいるだけで眠気を誘われるのだ。解法なんて理解しているはずがなかった。


「中高一貫ってのは気楽でいいよなあ」


 ネコせんぱいはドリンクを一気に啜る。


「気楽でいちゃダメなんすけどね。へへへ」

「へへへじゃねーわ」

「まあでも、悩みひとつないお気楽生活ってわけでもないっすよ」

「そりゃ、お前以外はそうだろうな」


 ネコ目が意地悪げの細められる。口元から覗くのはネコの牙ではなく、人間の前歯だった。


「失礼すぎません?」

「あたしはそれお前に100回くらい言う権利あるからな」

「失礼のお詫びに、人生相談聞いてくださいよ」

「人生相談聞かす前に人の話を聞けよ」

「まあまあ」


 一愛はとにかく今のもやもやした気持ちを言葉にして、それを誰かに聞かせたかった。それで事が解決するわけではなくても、多少は気が晴れるような予感がするのだ。


 友達では近すぎるけれど、先生では遠すぎる。家族は論外だ。その点、近すぎず遠すぎもしないネコせんぱいとの距離感は、それにちょうどいい気がした。


「たまたま1年かそこら早く生まれただけの相手にするもんでもないだろ、人生相談なんて」

「っすね。じゃあ愚痴で」

「……わかったよ、聞いてやる」


 押し負けて、ネコせんぱいは観念した。

 テニスでもそうだ。ネコせんぱいとの対戦ではその迫力に怯まず押し返していくのがコツで、この攻略法を知っている一愛は公式戦で勝ち越している。


 しかし、どう言い表したものだろう。

 自分の気持ちを引っ張り出すのにちょうどいい言葉を探した。夢……いや、違う。


「ネコせんぱいは進路って決めてます?」


 迷った末、そんな質問を口走る。


「言ったろ、綾成だって」

「志望校じゃなくて、その先っすよ。何を勉強して、何になりたいかって話」

「それは……まだ決めてないよ。決めてる奴は決めてるだろうけど」

「そんなもんっすよねぇ」


 少しだけ安心した。行く先を決めていないのは自分だけではなかった。


「何の話だよ」

「友達が進路決めてるんすよ。行きたい学部とか、将来の夢なんか語っちゃって。でもあたし、それを心から応援できなくて」


 この1週間、南を避けて過ごしている。

 登下校のタイミングをずらしたり、昼休みにはテニス部のメンバーと昼食を取ったり、あるいは適当な用事をでっち上げたりして、接触の機会を極力減らしている。


「よくわからん。応援できないって、なんかヤバい夢なのか?」

「ほんと、なんでっすかね。全然ヤバい夢なんかじゃないんすよ。むしろ、めちゃめちゃ立派ですごくて……」


 自分とはまるで違う世界に行ってしまうような気がする。

 道が分かれて、遠く離れて、いずれ手も届かないようになってしまう。それなのに南はそのことを嬉しそうに語った。それが気に食わなくて、腹が立って、けれど南の夢は立派だし正しい。

 ……できれば早く挫折して諦めてほしい。


 自分がそんな気持ちを抱いていることに気づいて、愕然とした。支えられない、励ませないどころではない。空っぽな応援の言葉を口にしておいて、内心では折れることを祈っている。自分は南にとって害でしかない。

 あたしって南と一緒にいる資格ないじゃん。


 だから、一愛は南から離れることにした。


 一愛が言葉を切らして間が持たなくなったのか、ネコせんぱいは「んー……」と唸った。


「よくわからんけど、友達だからってなんでも肯定できなくてもいいんじゃね? 仲いいやつがレギュラーとって、なのに自分が補欠だったらそいつに腹が立ったりもするだろ」


 やたらと卑近な例にされて、一愛は困惑した。そんな簡単な話になるものなのか。一愛はずっとレギュラーだから、今ひとつピンとこない例だ。

 そういえば、テニス部の先輩はレギュラーを取られても嫌味のひとつも言ってこなかった。モチベーションがさほど高くないのかと思っていたけれど、本当は苛立ちや悔しさを表に出さなかっただけなのかもしれない。


「そういう話じゃないっしょ……」

「わからんわからん。あたしにはそれくらいの話にしか聞こえん」


 ネコせんぱいは残り僅かだったポテトを口の中に注ぎ込んだ。そして立ち上がり、一愛に向けて言った。


「ちょっと付き合え。辛気臭い話しちゃったし、気晴らしだ」



          *



 市民体育館を訪れるのは久しぶりだった。

 学校の体育館とは違う、公営施設ゆえの雑多なにおいは小学生の頃の記憶を呼び起こす。

 南と出会ったのもここだ。夏の昼間と冬の夜。環境は真逆だけれど、あの日のことは今でも鮮明に思い出せる。


 ふと、スマートフォンに通知が届いたことに気づいた。それは南からのSNSのメッセージだった。


『ごめんね。私、なにか怒らせるようなことしたかな』


 同じ教室で過ごす以上、南とは全くの没交渉とはいかない。どうしても話す機会は訪れるし、そんな時には他愛のない話にも満たない他人行儀の返事をしていた。


 言葉は刃物だ。使い方や言い方ひとつで曖昧な感情を削りだして輪郭を与えることもできれば、繊細な心をめった刺しにして無残な姿に変えてしまうこともできる。

 この1週間、南を遠ざけてきた一愛の言葉はどうだったろうか。


 どんな言葉を返せばいいのか、一愛はわからなかった。


「おい、準備できたか? 早くしろよ」


 ネコせんぱいがテニスコートの中から呼びかけてくる。練習が始まるまでの間、空きのコートを貸してもらって試合をしようと持ちかけてきたのだ。


「あーい」


 スマートフォンをリュックにしまうと、一愛はラケットを手にコートへ向かった。


 多分、この試合は一愛のもやもやした気持ちを晴らしてやろうというネコせんぱいなりの気遣いなのだ。その方法がテニスというのはいかにも不器用だけれど、気持ちはありがたい。


 正直、負ける気はしなかった。

 公式戦の戦績ではこちらが上だし、そもそも直近の練習量だって週1のネコせんぱいと毎日部活をしている自分とでは比較にならない。今日は勝たせてもらっていい気分で帰ろう。


 ネコせんぱいがサーブの姿勢に入るのを見て、一愛は思い出した。


 そういえば、初めてネコせんぱいに勝ったのも、南に出会った日だっけ。

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