5.ひとりで遠くに行かないで

 開門して間もない早朝の学校には、人影はまばらだ。

 時に耳を刺激するのは、運動部員のランニングの足音や吹奏楽部のラッパの音。大通りを行き交う車は遠く、別世界の出来事のように聞こえる。


 それが始業直前になると、いつの間にか鮮やかな世界へと変貌している。黙々と朝練に打ち込んでいるうちに、淡い水彩画だった風景がビビッドなアクリル絵の具のイラストになっているのだ。

 タイムスリップしたみたい。その感覚が一愛ひよりは好きだった。


「鈴木さん、進路調査の紙は書いた?」


 朝練を終えて教室にやってきた一愛に話しかけたのは、学級委員長の矢部やべだった。


「あー、まだ。今日までだっけ?」

「うん。適当でも大丈夫だと思うから、早めにお願いね」

「ん、りょーかい」


 先週末に配布された紙は進路調査と言っても、具体的な志望校を記入するようなものではなかった。中高一貫のこの学校で志望高校を問われることはないし、かといって卒業までまだ4年以上があるこの段階で具体的な志望大学までを訊くのは気が早い。あくまで指導上の参考程度に使うつもりなのか、志望学部や将来の夢を書き込むだけのきわめて曖昧なものだ。


 もっとも、一愛はその曖昧なものに書くことを決められずにいるのだけれど。

 これという夢があるわけでもないし、特別に学びたい事柄があるわけでもない。


 ……適当って、“とくになし”でもアリなの?


 授業中、ノートの上に進路調査票を広げて考えた。

 夢。一愛にとってはその言葉がなにより曖昧だ。


 たとえば、クラスメイトの夢はなんだろう。

 提出の催促をした矢部は、外交官になりたいといつか言っていた。並外れた生き物好きだという梓井あずさいはきっと獣医や動物園の飼育員を目指しているのだろうし、いつも宇宙の本を読んでいる梅戸うめどは宇宙飛行士や天文学者志望なのだろう。


 それから、もうひとり。このクラスには大それた夢の持ち主がいた。




「えっ、それホントなの?」


 みなみが珍しく大きな声を出したのは、昼休みのことだった。


「一愛、聞いた? 澪花みおか、内部進学しないって」

「マヒ?」


 つい弁当の白飯を口に含んだまま返事をしてしまった。行儀としては最悪だけれど、手で口元を隠して最低限のラインだけは死守。


 内部進学を蹴って別の道を選択するという生徒は当然ながら珍しい。中堅クラスの学校ならよりレベルの高い環境を望んでそういう選択をすることもあるかもしれないけれど、この学校は都内でも指折りの名門校だ。困難な入学試験を突破するために、多くの生徒は小学生時代の後半を塾通いに費やしている。そうまでして手に入れた6年間を半分までで捨ててしまうというのは、誰が聞いてもはなはだ大胆な選択と思うことだろう。


 机をくっつけて一緒に弁当を食べている澪花に視線を向けると、その先には作り物かと見紛みまがうほどの端正な顔立ちがある。その顔がこくりと頷いた。


「高校からはもっとお仕事増やしたいし、お芝居の勉強もしたいからね。芸能コースのある高校に行くつもり」


 那須原なすはら澪花は、南がバスケ部を辞めてから仲良くなったクラスメイトだった。


 特別なきっかけがあったわけではない。たまたま英語のグループワークで一緒になって、ちょっと気が合って意気投合したという、ごくありふれたきっかけ。

 彼女のことを高嶺の花のように思って遠巻きに見るばかりの生徒もいるけれど、話してみれば案外気さくに返事をしてくれる。一愛と南はすっかり打ち解けていて、今ではこうして毎日昼食を共にする関係だ。


 その上で一愛は思う。

 やっぱり澪花はスペシャルだ。


 そもそも容姿がずば抜けている。

 顔が小さくて目が大きくて肌が白い。周りと同じ人間のはずなのに、パーツひとつひとつの形と位置と大きさが完璧だからまるで違って見える。普通の生徒が量産品のおもちゃなのだとすれば、澪花は職人が技術の粋を凝らしたオーダーメイドの逸品だ。

 顔だけじゃない。すらっとしていて足が長く、歩いても座っても様になる。立てば芍薬しゃくやく、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。初めてその言葉を聞いたとき、一愛は澪花専用のキャッチフレーズなのかと思ったほどだ。


 だから、両親と仕事の話を聞いたときもあまり驚きはなかった。むしろ納得したくらいだ。

 父親は俳優、母親はモデル。そして澪花自身も芸能活動を行っている。

 と言っても、撮影や収録の都合で学校を欠席したり、特例で補講を組んでもらうようなことはしていない。メディア関係の活動はすべて放課後や休日に行っていて、それでいて成績も上位常連の掲示板組だ。


 ハリウッド女優になる。

 澪花はそんな夢を語っている。けれどそれを誰も笑わないのは、澪花が特別だからだ。


 将来の夢を抱く同級生はたくさんいるけれど、澪花はそこへ至る道筋をすでに歩いていて、それどころか加速しようとしている。

 隣にいる友達が、一愛には遠くにいるように見えた。


 ……そういえば、南は夢ってあるのかな。




 結局、一愛は白紙とほとんど変わらない内容の進路調査票を提出した。



          *



 木目調の内装に、漂うコーヒーのにおい。曲名は知らないけれど、耳を傾けていると落ち着いた気持ちになるBGM。

 喫茶店の中にはゆっくりとした時間が流れている。


 一愛と南は月に一度くらいのペースで地元の駅前にある個人経営の喫茶店を訪れる。今日はその日だった。


 行ってみようよ、と最初に言い出したのは南だ。大人っぽい佇まいの店舗に尻込みする気持ちもあったけれど、入ってみれば心地よかった。穏やかな気分になるのに、なぜだか同時に高揚もする。


 普段と違う空気の中でなら、普段と違う会話ができる。そのたびにお互いが特別になっていく。一愛が喫茶店でいちばん好きなのは、そういうところだった。


「澪花と一緒にいられるのって、もう1年ちょっとしかないんだね」


 ティーカップから立ち上る湯気を吹き払いながら、南はため息をつくようにつぶやいた。


 澪花に限った話じゃないでしょ。


 こぼれそうになった言葉を飲み込もうと、一愛はコーヒーカップを呷った。熱いカフェラテが喉に流れ込み、反射で身を固くする。

 手から滑り落ちたカップは割れこそしなかったものの、中身は盛大にぶちまけられてテーブル伝いに一愛のスカートを濡らした。二段構えの熱が一愛を襲う。


「あっつ! あっつ!!」

「ああ、もう、なにしてんの!?」


 南はおしぼりを手に、一愛の制服を拭う。

 騒いでいると店員が足早にやってきて、カップやテーブルの片付けをしてくれた。店員に促され、ふたりは席を移った。


「はー、びびった。……お、汚れてない。セーフ」


 ブレザーにカフェラテの飛沫がついていないことを確認すると、一愛はソファの上に置いた通学リュックの上に被せた。

 かわいいと評判のオフホワイトのブレザーだけれど、白いということは汚れが目立つということでもある。入学して坂のきつさにブレザーを脱いだ生徒は、今度はその汚れやすさと苦闘することになるのだ。


「ちょっとしんみりした話をした途端になんで大ボケかますかなあ」


 南は呆れた口調で言いながら、ミルクティーの入ったカップを慎重に口元へもっていく。2、3回吹いてから口をつけた。一愛の二の舞にならないよう、警戒しているらしい。


「ごめんって」


 一方の一愛の前にはカップはない。店員が「代わりをお持ちします」と言ったのを思わず断ってしまったから、一愛は500円で舌をやけどしてスカートを汚すだけに終わってしまった。


 緩い空気が流れたところで、一愛は「そういえば」と切り出した。


「塾に行くって聞いたけど、ホント?」


 訊くにはこのタイミングしかないと思った。


 一緒にいる時間が限られているのは澪花だけの話じゃない。

 南とだってそうだ。塾通いを始めると、下校のタイミングがずれて今日みたいに同じ時間を過ごす機会は減ってしまうかもしれない。一愛はそれが不安だった。


「あ?」


 南は目を丸くした。ガラの悪いように聞こえるその反応は、虚を突かれたときにたまに漏れる茨城の方言だ。


「お母さんから聞いたんだよ」

「ああ、話しちゃったんだ。相変わらずおしゃべりで困るね」


 一愛が返事をしないでいると、南は言葉を続ける。


「行くって言っても、まだ具体的にどこって話じゃないよ。まだ塾選びの段階だから」


 行くことは確定なのか。一愛は落胆しながら、食い下がるように訊く。


「そうじゃなくて、そもそも、南が塾なんか行く必要あるの? あたしみたいなバカが行けって言われるんならわかるけどさ」

「行けって言われて行くんじゃないよ、私。行きたいから行くの」

「……なんで?」


 困惑した。行きたいから行く。勉強したいから勉強する。いつの間に南はそんなに勉強を大事に思うようになったのだろう。怪我の心配があるとはいえ、バスケクラブにだって週1でしか通わなくなったのに。


「……聞いても笑わない?」


 南の表情はいつになく真剣だ。気圧けおされるように、一愛は無言で頷いた。

 ミルクティーで喉を湿らせ、南はそれから口を開いた。


「いがくぶに行きたいの」


 言葉は聞こえたが、その意味を脳が受け止めるのに少し時間がかかった。

 医学部。

 進路の話だ。高校を出たあと、大学の話。


「私、夢があって……スポーツドクターになりたい」


 スポーツドクター。今度はすぐに意味が分かる言葉だった。スポーツに打ち込む身として、一愛も直接世話になったことはないにしても馴染みのない響きではない。

 南とスポーツドクター。ふたつの点を線で結ぶ想像は容易だった。


「私ね、桑野先生みたいに、体の傷だけじゃなくて、気持ちまで癒してくれるようなお医者さんになりたいの」


 それは南の口からたびたび聞かされたことのある名前だ。膝の怪我をした南の担当医だった人。もう二度とバスケができないと絶望していた南を支え、リハビリで気持ちが折れそうになるたびに励ましてくれた人。

 一愛にはできないことができる人。


「そのためには、今の成績だと実力不足なの。だから、塾に行こうって決めた」


 話を終えて、南はもう一度ミルクティーを口にした。

 その視線は少し不安そうにこちらを見つめて、返事をうかがっている。


「……すごいじゃん」


 口はひとりでに動いた。


「南が将来のことそんなに真剣に考えてるなんて思わなかったな。あたしなんて目先の部活ばっかだもん。なんていうか、ちょっと尊敬しちゃうみたいな……うん、まあ、頑張ってよね。応援してるからさ」


 饒舌な口からは言葉が溢れた。

 けれど、本当の気持ちだけは言葉にしなかった。


「うん、ありがと。頑張るね」


 南は安堵したように表情をほころばせる。

 一愛にはその顔を直視できなかった。


 夢ってなんだよ。

 ほんの数か月、お仕事で優しくしてくれただけの人に簡単にほだされちゃってさ。浮かれすぎなんだよ、南は。




 次の日から、一愛は南と一緒に帰るのをやめた。

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